2-7

人生最大のピンチだった。人生最高の窮地に立たされていた。こんなにも深刻で破局的な相談事を持ち掛けられたのは初めてだ。今日は何だか初めて体験する事ばかりで、そろそろ冷静さを欠きそうだ。


「そんなに深刻そうな顔をしないで欲しい、天井真。何も今日明日に二度と竜に戻れなくなる訳では無いんだ。」


僕の顔色を伺った竜西先輩は苦笑いしながら言った。僕はそんな竜西先輩の計らいも何処か上の空で聞きながら、記憶を辿っていた。祖父の書物の記憶、祖父の文献の記録。全て覚えている。擦り切れるほど読んだ。手が黒くなるほど頁を捲った。その中のどれも、どれにも記されていない。

本当に無いのだろうか?僕が記憶違いをしているだけじゃあないのか?竜西先輩は昔から祖父を知っていると言っていた。なら祖父も、短いものではあるが人間としての一生の中で何か一つでも、今の問題を解決へと導くヒントに辿り着いてはいなかったのだろうか。僕の中で、一番と言っても過言では無いほど尊敬しているのは祖父だ。恩義もあり信用していて、未だに何かと知識を借りる事が多いのも祖父。そんな祖父が分からない、知らない事を僕がこれから先知り得るのか。皆目検討もつかない。

まるで奈落の底に落とされた様な気分だった。僕では竜西先輩をどうする事も出来ないのか。


「数日前の事件。」


竜西先輩は煮え切らない態度の僕にそう切り出した。

「あの階段での事件もきっと、私の力が弱まって来ているせいなのだろうと推測している。」

「いや、それは…っ…」

「私は宗から君を頼まれていた。きっと宗は君が視てしまい寄せてしまう体質だと確信していたのだろう。自分と同じ…いや自分よりも強いと。」


僕は竜西先輩の言葉を否定したかった。しかし周知の事実と言うのはどうも否定する為の言葉選びに悩むものだ。なんと弁解し弁達すれば良いのか分からなくて、僕は眉をひそめて口を結ぶしかなかった。僕の祖父がこの街に居られる様にと、この街を守っていた四龍。その四龍である竜西先輩が竜では無く人間に近付いてきている。そこへ来て僕だ。祖父と同じ体質である僕から、今の四龍は、竜西九はこの街を護れるのだろうか?

嫌な考えばかりが頭を過ぎる。マイナス思考は得意分野だが、これは何とも頭の痛い問題だった。然し僕は、この街を出て行く気にはなれなかった。僕の祖父が本当に竜西先輩へ残した言葉かどうかは定かでは無いが、"真を、よろしく。"とそう聞いた様に。僕に遺した言葉もまた、"本当に辛くなった時は、此処へ戻っておいで。"だったのだ。四龍の竜西家とこんなに深く結びついているとは知らず、僕はその名前を見つけて避け続けていた訳だけれど。こうなると過去の不甲斐ない自分に叱咤してやりたい気持ちになる。如何して祖父が此処へ戻って来いと言ったのか。それは間違いなく竜西九が居たからだ。

いつからかこの森に通わなくなった祖父ではあったが、竜西先輩を忘れた訳でも蔑ろにした訳でもなかった。祖父は自分が永くない存在である事を嫌と言う程分かっていたに違いない。竜である竜西九とはまかり間違っても共に生きてはいけない事も、分かっていた筈だ。それでも僕が産まれ、悩み考え抜いた末。幸か不幸か庭先で感じた竜西九の気配に祈ってしまったのだろう。


「今日明日の問題では無いって言ってましたけど…実際には後三分の壁、どの位まで持ちそうなんですか?」


僕はこの問題と向き合う事に決めた。どちらにせよ彼女が完全に竜に成れなくなってしまえば、僕は此処には居られないのだ。僕の一大決心とも決意とも言えない台詞に、竜西先輩は少しだけ見逃しそうな程一瞬だけ微笑むと「心配無い。」と静かに告げた。


「さっき竜に戻った時、いつもより穏やかな気持ちだった。刻がゆっくりと進むような、然し煩わしくも気怠さも無い、暖かで陽だまりのような。」

「竜西先輩?」

「まるで宗と過ごして居る様な…。」


竜西先輩は僕を見ているのか、僕の中に祖父を見ているのか。


「不思議だな、天井真。君は至極、祖父である宗に似ているのに。だけれど君である事に違いの無い。現実。真実。明白共に。」


ふむふむと自分の中で納得しながら竜西先輩は頷く。


「やはり私は君の傍らに居るのが一番良いらしい。」

「あ、だから…」


僕が居るからじゃあ無い。

僕が居たからか。

いや、別段何かラブコメ的な展開を期待していた訳では無い。名前を見ては毛嫌いし遠ざけていた僕が、真実を知った所で今更お近付きになろうなんて、そんなものは御都合主義も良い所。虫のいい話だ。竜西先輩は祖父を敬愛し博愛し、慈しんでいただけで、その祖父に頼まれたからこうして義理を果たそうとしているだけなのである。彼女の個人的な任務と、四龍としての責務。それだけだ。だから僕が所属する予定だと聞いた天來のインチキ臭い部活にも二つ返事で参加したのだろうし、こうして真の姿も僕に御披露目してくれたのだ。

僕はそこを間違えてはいけない。踏み間違えてはいけないのだ。


「まぁ総じてそれだけが理由、と言う訳では無いのだけれどな。」

「他に何か?」


少し俯き加減で急に口篭る竜西先輩を僕は首を傾げて直視する。何だか身長差的に天來になった気分だった。


「その、私は…竜だから、高くて…人型の時も、ほら、背が高いだろう?だからだなっ、誰かに頭を撫でられた事が無いのだ。宗にさえ。」


竜西先輩は歯切れ悪く言った。成程。起きがけの僕の行動が分岐点を間違えたのだな。今まで誰にも触られた事の無い頭部と言う価値のある大事な部位を、軽々しく触りやがってコノヤロウ。と言った所なのか。確かにマレーシアでは"成長を妨げる"と言い、ミャンマーでは"頭には神が宿っている"と言い、タイでは"精霊が宿っている"と言われている程だ。これは謝らなければならない。平に。僕の行動が迂闊で軽率だった。知らず知らずの内とはいえ、竜の頭部に触れてしまうなど、我ながら恐れ多い事をしたものだ。


「本当にすみませんでしたっ!」


実に華麗で角度も声量も完璧な謝罪だった。頭を下げる僕に対し竜西先輩は表情こそ変わらないものの、少し困った様な声で


「いやっ違うんだ。そのっ、嬉しくてな。」


と付け加えた。


「とても貴重で風光明媚な経験をさせて頂いた。」

「貴重だなんて、そんな。」


僕も困惑する。何十年ともすれ何百年生きてきた竜がした貴重な体験が、頭を撫でられる事だなんて。人生何が大事なのかは人それぞれだと言うものだ。この場合、竜それぞれ。それぞれの竜による。


「確かに初めは宗を見つけたのかと思ったよ。あの赤頭赤尾学園で君を見た時は。まさかと思った。またかとも思った。歓喜のあまり出会い頭に飛び付きそうにもなった。」


これを真顔で淡々と話すのだから竜西先輩は天然ジゴロだ。タチが悪い。図らずともドギマギしてしまうでは無いか。


「しかし、似てはいるものの非なる者だと知った私は、少し距離を置いた。宗は私が近付き過ぎた故に自ら距離を取ったのだろう。だから、私も今度はそうしようと。」


お互いにとって良い距離感を測ろうと。然し祖父は間違えたのだ。竜西先輩も。其れこそ初めての失敗。


「だが、距離を置いたのは失敗だった様だな。」


竜は賢明で博識で、思慮深い。きっと竜西先輩も薄々気付いている筈だ。何故、僕の祖父である天井宗が亡くなった後で徐々に竜に戻れる時間が短くなってきていたのか。大きな力にはバランスと言うものが必要なのだ。片方が崩れれば均衡が保たれなくなる。彼女の心情は察し得ないが、成るものはそう成り。成らないものはどう踠いても足掻いても成らない。その存在はいつだって、只そう在るだけなのだ。


「私はきっと、天井真。君の傍では竜で居続ける事が出来るのだろう?」


竜西先輩は確信にも等しい疑問形で僕に聞いた。


「はい。」


僕は強く答えた。

竜西九。彼女は護るべきものがあってこそ、その各悦し卓越した存在として成り得るのだろう。護るべきものがあってこそ強くなれるのはこう言った話では鉄板であり十八番と言うことか…。

天來美心がここまで見越して、僕と竜西先輩を引き合わせたのかは分からないが、まんまと乗せられた感があるのは確かだ。そして、どうやらその旨を再確認する為に僕は此処に呼ばれたのだろう。それならば竜西先輩の実験は大成功だ。


「これで、君を護る事が出来る。」


そんなずるい事を恥ずかしげもなく言う竜西先輩に僕は負けじと


「ええ、僕もですよ。」


と応えた。満天の星空とは言え山の中は薄暗く、彼女の赤面した表情を見逃すには十分過ぎた。

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