第5話

 元々は、佐助氏は、北近江に六千石程度の所領を持ち、浅井の滅亡でそれを失った。一端そこで、家臣たちが散り散りになっている。

 五万石を領するにあたって家臣団の充実は急務であり、無論、新規の家臣も登用したのだが、声を掛けられるだけの旧臣たちにも声をかけ、おおよそ、半ばくらいはそれに応じて、吉興の手足となって働いている。

 寒河江秋広も出戻り組の一人で、近江を退転した後は係累を頼って信濃に行っていたのだが、その後の甲信は情勢の変化が目まぐるしく、佐助が再び声をかけてようやく安定を得たのだった。

 その寒河江秋広が、遠州へ下る吉興一行を差配する。


 佐助吉興も今や五万石の大名であり、豊前守である。武家官位の相場も鎌倉の時とは違っているが、鎌倉北条氏で言えば得宗家ですら、相模守、武蔵守であったので、既にそれにならんでいるとも言える。

 しかも豊臣の正使として下向する以上は、相応の盛儀が必要で、一行の人数は五十人を越える。これでも絞った方である。


 諸々の下工作の結果、家康は次男の於義丸を秀吉の猶子とすることに合意した。ついては秀吉から偏諱を受けて、秀康の名で元服させることを願い出たうえで。

 これは家康の懐柔工作であり、最終的な結論を先送りするための一策ではあったが、秀吉は喜んだ。

 長男がいない中での次男である。常識的に考えれば於義丸が嫡男である。

 だが、そうではないことは、吉興は秀吉に言っておいた。


「松平氏、徳川氏では家の字は康と忠を交互に用いると聞いております。家康殿の御祖父君は清康殿で、御父君は広忠殿でした。それ申せばそれがしの岳父、信康殿は、信忠となってしかるべきでしたが、ご存知の通り、信長公のご嫡男が同名でいらっしゃいましたので、避けて信康となったものと考えられます。於義丸殿、徳川を継ぐのであれば、殿下より偏諱をうけるとしても秀忠となってしかるべきです。それを秀康とするということは」

「徳川を継がせるつもりはないと、いうことか」

「左様に。姑の見星院様が仰せには、於義丸殿、家康殿より実子であるかどうかを疑われ、信康殿が引き合わせたことでようやく、親子の体面が叶ったとのこと。お疑いになるどういう事情かは分かりませんが、体のいい厄介払いであろうかと」

「だとしてもの、」


 秀吉は扇を閉じて、音を鳴らした。


「はっ。家康殿の次男を確保しておけば、御家騒動の火は起こせましょう」

「まあ、布石が無為になるならそれはそれでよい。どうであれ、当人に家康の実子たる気概があるならば、才は及ばずとも非凡なるところはあろう。豊臣の藩屏に育てればよい。丁重にな。家康よりもわしになつかせるのだ」


 今回は、於義丸を引き受けるのを口実に、吉興が家康と直接交渉を行うよう命じられている。そのためには、多少の漏洩もやむなしと許されている。


 戦略的には、徳川は追い詰められているとはいえ、その用兵はしぶとい。小牧長久手では、戦略的な勝利を得たのは秀吉だったが、戦術的には家康はむしろ「勝った」というべき側面もある。

 だからこそ危ない。

 豊臣秀長と、蜂須賀小六は、徳川を潰すべきであると主張していた。

 豊臣政権の永続のためには、ここで多少の困難はあっても、徳川を潰しておくべきだと。

 しかし秀吉の利益と豊臣の利益は必ずしも一致していない。

 多少の困難と言っても、十年も二十年もかかっていては、先に秀吉の寿命が尽きかねない。秀吉は完全なる天下人になりたいのであって、天下人の地位を甥の秀次に継がせたいわけではない。

 秀次のために苦労して、人生を使い切るつもりは毛頭ないのである。

 徳川は将棋で言えば飛車角であり、これを獲れば形勢はおのずと決まる。

 元々、秀吉と家康の関係は悪くない。姉川の戦いではしんがりを務めた羽柴のために、家康はわざわざ兵を割いてまで加勢してくれた。

 五ヶ国の太守と言う地位は、さすがに大きいが、毛利や上杉の兼ね合いから言えば、その程度はあってかまわない、むしろ潰せない。

 頭さえ下げれば、地位を保全してやる。それは秀吉の本心である。

 それが本心であるということを、家康に分かって貰わなければならない。

 その辺りの事情を、正確に家康に伝えて説得するのが、吉興の任務であった。


 吉興一行はまず、美濃へ入り、織田信雄から歓待を受けた。

 信雄は元々、北畠へ養子へ出ていた人で、織田家臣団から見ればそもそも織田の社稷を継ぐ立場にはない、との思いも強い。

 織田家臣団は名の知られた者たちはすべて大名として自立し、信雄の重臣たちは北畠、伊勢人脈から成っていたが、それらでさえ主だった者たちはすでに豊臣に靡いている。伊勢人脈と言う点で、信雄の後見に立った滝川一益も、関東管領としては自滅し、大名でさえない。

 こうなってしまえば、信雄が頼れるのは織田氏閨閥ばかりであったが、叔父の織田信包、織田有楽でさえ、豊臣に近い。

 織田の女系を牛耳るのは、信長の総領娘である見星院であるが、見星院から蛇蝎のように嫌われているのを信雄は自覚していない。ゆえに、織田の女系に連なる吉興に、いざという時はよろしく頼むとすり寄って来たのだが、信雄とつるんでいいことなど、吉興にはひとつも無い。適当にあしらって、美濃、尾張を過ぎた。


 三河との国境には、まずは服部半兵衛が迎えに参っていて、岡崎につけば、大久保忠世、大久保忠隣がひとしきり接待に供した。

 家康は駿府から浜松まで出張って来ていて、浜松で吉興と会う予定であったが、どうせ出張ってくるのであれば、岡崎までくればいいものを、浜松で止めること自体、徳川の微妙な心理のなせる業である。

 豊臣と徳川は既に対等ではない。秀吉が関白である以上、吉興は台使であり、理屈から言えば勅使の変種でさえある。駿河まで来るならば会ってやろうと偉ぶったことが言える立場の徳川ではない。

 家康は迎えに出てくるべきであるが、岡崎までは来られない。現実と誇りの間で、浜松で手を打ったというのが吉興には見えている。

 明日には遠州国境まで進み、酒井忠次が迎えに出て、翌々日、浜松へ至るという行路であった。


 浜松へ着いたのは正午過ぎであったが、吉興はそのまま城には入らず、付き添いの服部半蔵、大久保忠世、大久保忠隣、酒井忠次を連れて、清瀧寺と西来院に参った。それぞれ、松平信康と築山殿の墓がある。吉興には岳父、義理の祖母にあたる人である。


 浜松城の広間では、家康ならびに徳川家臣団が伏す中、まずは吉興が上座につき、関白従一位豊臣秀吉公の台旨を読み上げた。内容はただのあいさつ文である。そして一礼の後、家康と吉興は互いの場所を入れ替える。

 家康はこの頃、四十半ばである。見かけはそれよりも、案外、お若い、と吉興は思った。秀吉の懐柔策もあって、この時には家康は参議にまで官位を上げている。


「倅と家内を見舞って下さったそうな。かたじけない」


 家康が深々と頭を下げると、徳川家臣団が一斉に頭を下げた。

 そしてその場で、井伊直政に饗応役が申し渡された。井伊直政と吉奥は、年齢で言えばほぼ同世代、豊家と徳川を代表する若武者である。


「今日は長旅でお疲れであろう。山海の珍味も、むずかしい話も明日のことといたそう。これなる井伊はそれがしの懐刀でしてな。竹中半兵衛殿の置き土産たる豊前殿には足元にも及ばぬであろうが、田舎武者なりに気働きの出来る者でござる。なんなりとお使い下され」

「では」


 家康の言葉を受けて、吉興はさっさと井伊直政に案内されて退出したが、思わず、


「なかなか底意地の悪いことをなされる」


 と歩きながら呟いた。


「三河の猪どもには良い薬でしょう。もっとも、半ばは嫌味さえ通じてはおらぬでしょうが」


 井伊直政の端正な横顔から、氷のような言葉がつむがれた。ふむ、と吉興は頷いた。少なくとも、この若武者は家康の意を理解しているようではある。


「井伊殿、そこもと以外で、家康殿の意を分かる者はおありか」

「石川数正殿がそうでありましたが、それ以外には、お一人だけでしょうな」

「そのお方の名は?」

「さ、それは。拙者の口からは言い兼ねまする。いずれお会いになられるでしょう。こちらの部屋にございまする。拙者は次の間で控えておりますので、ご用があればなんなりと」


 井伊の所作は水際立っていた。豊家の中では教養人扱いされる吉興だが、礼法には通じていない。井伊直政は何であれ、通じていないということがない。


 吉興の迎えに差し遣わされた面々、服部、大久保党、酒井はいずれも、信康の死に深く関与している。吉興は信康の婿なのである。自分たちが死においやった者の婿を、這いつくばるようにして迎え入れなければならない。

 それは家康が意図して仕組んだ意地悪である。そしてその意地悪を解した、という意味で、先に信康らの墓に、吉興は参ったのだった。

 ここから伝わるのは、信康を死に追いやった者たちへの、家康の静かな、しかしながら激しい憎悪である。

 酒井忠次らは、徳川の者として、家康と同じ陣地にあり、豊臣の使者である吉興と対していると思っている。しかしそうではないのだ、と家康は言いたい。かの者たちは信康を殺した者どもであり、家康と吉興は共に遺族である。

 家康は今日の対面で、吉興と共犯関係を結んだのである。


 吉興の妻、コウ姫は、初子を孕んでいるのだが、生まれれば家康にとっては初の曾孫になる。まだ生まれていないこの時でさえ、もし我が子が失われればと思えば、吉興の胸は激しく泡立つのだ。最初の子を死に追いやって、それでいて何でもないことであるかのように振る舞わなければならない家康が、どれほど己を矯めているのか、その克己心は残忍とさえ言えるほどである。

 家康は三河武士を激しく憎悪している。

 三河者だけがそれを知らない。


 新参の、遠州人の、元は今川家臣の系列の、しかも若輩の井伊を、家康は、懐刀、と呼んだ。酒井忠次などは、宰相面をしているが、井伊の半分も信用されていないだろう。


 ここまでを、家康は一個の人間として吉興に打ち明けた。

 家康にも、いよいよ腹を割って話すつもりがある、という意味の秘密裏の手紙であった。

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