第3話

 天正十二年、羽柴秀吉は、織田信雄に対し、年賀の拝礼とそのための上洛を要求した。織田信孝を排した後、織田氏宗家の立場は吉法師から織田信雄に移っていたが、秀吉はもはや織田を主家として立てる姿勢をかなぐり捨てて、臣従を求めたわけである。

 これによって、信雄は秀吉と対立を深めると同時に、後背を守る徳川家康に援軍を求めた。

 本能寺の変以後、家康も三河、遠江、駿河、甲斐、信濃、五か国の太守に成長していたが、秀吉の伸長は更にすさまじい。秀吉の勢いを抑えるべく、家康が組んでいた相手、佐々成政、長曾我部元親、紀州雑賀衆らは既に秀吉に降っていた。


 伊勢、美濃、尾張を抑える織田信雄が、秀吉の軍門に降れば、家康は直接、秀吉の脅威と対峙することになる。

 遠交近攻策は、家康の専売ではなく、当然、秀吉も家康に対して同じことを仕掛けている。

 本能寺の変の直前、織田は越後へと侵攻し、上杉の命運は風前の灯火だった。上杉が生き延びたのは、運に過ぎない。上杉景勝と直江兼続はそのことをしっかりと自覚していて、次なる天下人、秀吉に対しては、進んで臣従していた。

 武田が滅びてまだ数年しか過ぎておらず、甲斐、信濃の土豪らの中には、風林火山の旗を心中奥に仕舞いながらも、忘れられぬ者は多い。

 上杉景勝の室は、信玄の娘なのである。

 武田と上杉は積年の宿敵とは言え、互いに武を尽くしあった相手とも言える。旧武田方には上杉への悪感情は無い。

 秀吉は、家康に対して友好的な態度を表面上は示しながらも、上杉を通して信州の切り崩しを行わせていたし、北条に対しても、家康との同盟を反故にするよう働きかけている。


 小田原北条氏は、乱世の梟雄、伊勢宗瑞こと北条早雲が築いた家だが、伊豆、相模を下克上で切り取ったことを除けば、同盟と言うことに関しては意外と律儀な家で、いつも「裏切られる側」であった。武田はいつも「裏切る側」である。

 北条は、元々、親織田政権だったということもあって、表面上は秀吉に対して礼節を尽くしてはいたのだが、秀吉も北条が、家康を裏切るとまでは思っていない。

 しかし重要なのは、家康がどう感じるか、である。

 北条が敵に回れば、家康は完全に包囲される。


 信長に仕えた諸将にとって、濃尾における軍事上の暗数など存在しない。どこに何があるのか、人間関係上、どこを突けば誰がどう転ぶのか、秀吉は知り尽くしていて、初めから信雄は丸裸にされている。

 秀吉は調略で、信雄配下の者たちを容赦なく切り崩していったが、これは秀吉の能力というよりは、「中央政府」を引き継いだ織田信雄の不利であった。


 この頃、京都奉行職は輪番になっていて、佐助吉興は前田玄以と組むようになっていたが、朝廷工作、および丹波亀山城に入った羽柴秀勝の補佐が主な任になっている。


「あの者はこの戦で、きっと手柄をたてて認めさせる、と大言壮語したそうな」


 小牧長久手の戦いでは、吉興は羽柴秀勝の陣中にあり、大垣城に止め置かれている。秀勝から言えば、吉興は姪婿であり、気安く愚痴をこぼせる相手だった。


 秀勝の言う、あの者とは、三好信吉である。三好三人衆の一人、笑岩の養嗣子となり、宗家の絶えた三好氏で、事実上その嫡流に位置付けられている。その実は、秀吉の姉のともの総領倅であり、血縁で言えば秀吉に最も近い位置にある男子、後の豊臣秀次であった。

 ここでは先行して、秀次と呼んでおく。

 三好の家は細川の守護代であるから、応仁の乱以後の大名家の家格で言えば、織田や斎藤、朝倉、等々に等しい。三好長慶の頃には畿内を総覧した家であり、腐っても秀次風情に呉れてやるには惜しい。

 それで腹を膨らませておけばいいものを、その実、羽柴の後継者を狙っている。


 羽柴秀勝は卑子ではあるが信長の息であり、織田氏に仕えた大小名がさしたる躊躇いもなく秀吉に仕えられる、最大の要因になっている。

 秀勝が後を継ぐのであれば、結局は織田氏が続くからである。


 秀吉は実は甥たちをさして可愛いとは思っていない。姉のとも、以外に子があればまた違っていたのかも知れないが、とものことを秀吉は内心嫌っている。

 母親のなかののち添えの竹阿弥とは、秀吉は折り合いが悪かった。その時は、竹阿弥にすがらねば一家は生きていけなかったのだから、これは単なる不仲も問題ではなく、生き死にの問題であった。万が一、離縁されては一大事ということで、ともは、弟の秀吉を矯めようとした。罵り、叱り、弟を虐めることで、義父の留飲を下げようとした。

 そうしたことを、ともはすっかり忘れている。

 秀吉は忘れていない。

 わずかな小銭だけを持たされて、追い出されて、正真正銘寄る辺なき孤児となった秀吉に、


「おまえはおとうに逆らってばかりで。どこへでも行ってのたれじんでしまえ」


 と言い放ったとものことを心の底では許していない。だが、親兄弟と諍いをして、傷つくのは秀吉の評判である。大きくなったのは秀吉であって、ともではないので、失うのは秀吉ばかりで、損をするのも馬鹿らしい。

 秀吉は努力をして秀吉であり続けているのである。それを、秀吉の姉だからと当たり前のように富貴を望むとものことを思えば、秀吉は腸が煮えくり返る思いがする。


 ともの倅たちを相応に引き上げているのは、つまるところ、そうしなければ秀吉自身の器量が問われるからである。

 自分自身の倅へならばともかく、秀次に後を継がせたいなどとは秀吉は微塵も考えていない。

 自分を兄として立ててくれる弟の秀長、妹の朝日の血筋であるならばともかく、姉のともの血筋など、秀吉には何の価値もないのである。


 だから秀吉としては、他人である秀勝の方が、少なくとも秀次よりは望ましい後継者なのだが、この感情は、この頃の常識から大きく外れている。

 秀勝は、羽柴の戦略に沿って、毛利輝元の養女を室に迎えている。輝元の母は、元々、大内の重臣の内藤氏の出で、この養女も内藤氏の出であったから、毛利一族にごく近いところから送られて来たには違いない。

 ただ、常識から言えば、秀勝のように貰われて養子となる場合は、室をその家の一族から迎えて立場を強化する。秀吉には娘はおらず、羽柴一族にも姫はいないのだが、その閨閥までも含めれば、適当な姫がいないわけではない。

 秀吉の室のおねの実家の浅野氏や、木下氏、秀吉の母の縁者の加藤氏や福島氏を探せば適当な姫がまったくいないわけではない。

 血縁ではないが、秀吉が実子同然に溺愛している養女の豪姫を秀勝の室に沿えるという選択肢もある。

 そうした策をとっていれば、秀勝にもここまで迷いはなかっただろう。


 秀吉はいずれ自分を後継者の地位から廃して、秀次をとりたてるかも知れない。


 そういう疑念がとぐろを巻いている。


「そなたが頼りだ」


 と秀勝はしきりに吉興に言った。

 秀勝は信雄とは対立しているのだから、織田氏だからと言って信雄は頼れない。しかし結局頼れるのは織田氏の縁者だけである。

 姉の見星院は信長の総領娘であり、信長の娘たちに対しては姉としての、威令権のようなものがある。その縁を通して、前田と蒲生、そして佐助を与党として確保しておきたい秀勝であった。


「お考え過ぎです」


 と吉興は諫めながらも、万が一、秀吉と対立するようなことがあれば命はない、とはっきりと言った。秀吉は恐ろしい人ではあるが、元々の性根が残虐というわけではない。

 万が一、秀吉の心が変わるようなことがあれば、生き延びるにはその先を行くことである。


「さよう、九州にでも大領をお求めになられるがよろしかろうかと」


 秀勝は、別に天下など望んでいない。織田家中でさして重視もされていなかった時に、羽柴に貰われて、蝶よ花よと持て囃されて、それで十分に幸せだったのである。

 もし秀吉が心変わりするようなことがあれば、秀吉に言われるよりも先に、自分から身を引くことを申し出るべきである。

 そして見返りを要求すること。

 謙虚であれば疑念はほぐれない。代わりにあれも欲しい、これも欲しいと言ってみせることで、落としどころをつくってやるのである。


「なんにせよ、今はさようなことは微塵もなく。大殿は秀次殿をむしろお嫌いであらせられるかと」

「そなたがそう言うのであればそうかも知れぬが」

「それに、御廉中様は心底、殿の母御前のおつもり、そうやすやすと承知はなさいますまい。むしろ必要以上に織田の者たちと縁を強めることは却ってあぶのうございます。前田や蒲生と直でつながることはなされませんよう」


 本当のことを言えば佐助と羽柴秀勝がつながることは、と言うよりは見星院が背後に見えてしまうことは、徳川との内通を疑われて、佐助と秀勝相方にまずいのであるが、吉興を秀勝の付け家老にしたのは、秀吉である。

 そうでなければ、吉興は絶対にのこのこと秀勝に会う危険を冒しはしない。


 小牧長久手の戦い自体は、吉興は、秀勝のお守をしているうちに終わった。当然、何の加増も無しである。

 長浜小姓組の中ではやや突出しているのを吉興は自覚していたので、他の者を育てるという秀吉の方針を理解して、不平を言うことは無かった。

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