花びら餅~家庭という名の地獄

「なんか高くない? あんこも少ないし」

 吝嗇家りんしょくかの夫は、花びら餅にかけらほども理解を示さず、そう言ってのけた。


 ディスカウントショップで買った雑貨、ファストファッションブランドのバーゲンセールで買った服、半額シールの付いた食料品――これが夫との生活だ。


 夫の物事の解釈はきわめてシンプルだ。質実剛健を良しとし、ヘビーデューティーでコストパフォーマンスに優れたものが最高。

 風雅、エレガンス、美的センス――そういった価値観を認めないどころか、彼の中には、おそらく存在すらしない。


 実家の父も母も兄弟たちも似たようなもので、そのことをこぼすと、みなに「ぜいたくを言うな」「人並みの幸せが大切」と言われる。彼らの価値観を押し付けられ、辟易へきえきとするだけなので、最近は不満を口に出すことすらなくなった。


 お金のかからない図書館で、たまたま手にした本に「ボヴァリズム」という単語を見つけ、そういう名称で括られるのか、と自分の感情に名前があるのだという事実で満足をし、その感情には蓋をした


――だが、しかし。


 花びら餅は、祖母とのかけがえのない思い出だった。名家の出だった祖母が、お正月だけに買ってくる、美しい贅沢品。

 父親とも母親とも折り合いが悪かった私にとって、正月に泊りがけで行く祖母の家は唯一の安住の地で、そこで供された美しい和菓子と祖母の洗練された物腰の思い出は、人生におけるほぼ唯一の『輝ける、美しい瞬間』だった。


 白い柔らかな餅から、うっすらと淡い紅色が透けてみえるのがなんとも美しく、艶っぽくもあり、つまんだ指先から伝わるその官能的な肌触りは、快楽とも呼ぶべき感覚を私に教えてくれた。

 そうして、それは私の人生における最高のお気に入りの和菓子となった。


 それをけなされて、私の中で何かがぷつりと切れた。


「『花びら餅』は初釜と言う、裏千家で年の初めに釜をかける茶事に使われる有名なお菓子なの。お正月のおめでたい時期だけのもので、少し前までは、京都以外ではなかなか手に入らなかったという、まさに季節限定、エリア限定のものなの! お菓子なの!」


 この美しく雅やかで洗練された存在を、お前ごときがけなすな、とばかりに私は一気にまくし立てた。


「ふぅん、京都の菓子か。やっぱり能書きだけで実がないな」


 もう、だめだ――。


「人並の幸せというやつは、魂を殺す」。新年早々、私は残酷な人生の結論を見つけた。


 私が殺されるなら、夫を殺そう。私はそう、決意した。


 手始めに、男を買った。

 便利な時代だ。インターネットでちょっと募集をすれば、はした金であとくされのない男が釣れる。

 それから、ブランド品を買った。

 ギャンブルもやった。

 家事はやめた。

 煙草を吸い始めた。

 昼間から酒を飲み、テレビの通販でくだらないものを買い込んだ。


 当然、夫は怒り狂った。カードの明細と浮気の証拠と馬券と通販の明細を目の前に広げ、説教し、罵り、椅子を蹴り飛ばした。

 私は開き直り、物を壊し、叫び、手近にあるものを投げつけ、罵倒に悪罵で対抗し、暴力に暴力で反撃した。グラスが割れ、フライパンの柄が曲がり、包丁が折れ、壁に穴があいた。


「私は別れたりしない。生きたままあなたを殺すの!」


 突きつけられた離婚届を前にして、私は声をかぎりにして叫んだ。


 やがて、夫は諦めた。私を支配することを。そして、彼の人生を。

 私たちは、以前と同じように暮らしている。表面上は。


「さくらが咲き始めたね」

「梅雨あけるって、天気予報で」

「さんまが出始めたわね」

 そんな上っ面の会話をしながら。


「ぶっ殺してやる」


 心の中で私はつぶやく。


 私も彼も、顔に作り物の笑顔をへばりつかせたまま、死んでいることに満足しながら。

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