#02 再会

 体を揺さぶられた気がした。

 誰かに触れられるのはいつぶりだろうか──なんて考えているうちに、徐々に意識が覚醒する。目に入るのは、いつもの天井だ。


「ん……ぁ?」


「ほら、起きてお兄ちゃん」


 目を閉じて二度寝しようと布団に手を伸ばした矢先、僕の鼻が急に摘まれた。


「んがっ、……ぁ?」


 家に誰かがいる。僕は一人暮らしだから基本的に家には自分一人しかいないはずだが……。と寝ぼけ目でそちらを注視する。


 そこには妹の智花ともかがいた。


 数年前、事故で父ともどもこの世を去ったはずの智花だ。


 いつもとは髪型が違って、一瞬誰だかわからなかったけれど、間違いない。

 間違いないはずなのに、僕はその光景を受け入れられなくて、思わずこう呟いた。


「智花……なのか?」


 智花は事もなげに答えた。


「他の誰に見える? まだ寝ぼけてんの? ……今日は入学式だから遅刻しないように起こしに来てくれって言ったの、お兄ちゃんじゃん」


 電話出ないから、わざわざ6時に起きてこっちまできたのに、と智花は呆れるように口を尖らせた。


「そうじゃなくて……いや、そうか」


 ようやく覚醒してきた頭が、もう一度智花との会話をリピートする。その中で、違和感のある単語が散見していることに気づいた。


「今日が……入学式だって? まさか、高校の?」


「だからそう言ってるじゃん。なに、春休みが終わって現実逃避? ああそれとも、頭でも打ったの?」


 斜め45度で頭にチャップしようとしてくる智花の腕を慌てて掴んで抑えつつ、僕は思考する。


 高校への入学。

 僕ができなかったことが、現実となっている。


 『なら、やり直して見ましょう』


 脳裏で、あの雨の女が囁いた。

 やり直しとやらの機会が本当に与えられた?

 そんなまさか。


「……智花。今日は、何年何月何日だ?」


 智花は怪訝な顔で僕を見る。


「……地球が何回回った、ってやつ?」


「茶化さずに、答えてくれ」


「もう、なあにさっきから。……えっと、1996年の、4月8日だよ。ほんとに大丈夫? 誕生日もう終わったよ? あ、プレゼントまだ渡してなかったね」


「…………」


 僕は思い立って冷蔵庫に向かった。中身は昨晩みた光景のままだ。いいや、厳密にはウィンナーの量が減ってラッピングされていた玉子焼きが消失しているが、それらはキッチンの弁当箱の中にあるのだろう。


 僕はウィンナーの袋を乱暴に手繰り寄せて賞味期限を見た。


「ちょっとお兄ちゃん、どうしたの? ……期限、まだ大丈夫でしょ?」


 僕の様子がよほど滑稽だったんだろう。智花はますます僕を訝しんでいた。


 ……もしかしたら、僕は夢を見ているのかもしれない。

 はたまた、これは落雷を受けて死んだ僕が見ている走馬灯的な何かなのかもしれない。

 昔に一度、避雷針なんてあだ名で呼ばれたことを思い出す。我ながら笑えないあだ名だ。


「なあ智花。僕の頰をつねってくれないか」


「……はあ」


 溜息を吐きながら、渋々といった調子で智花は僕の頬に手を伸ばし、思い切りつねった。


「いッ、いでで!!」


 慌てて顔を振りもう一度、智花の方を見た。

 何も変化はない。

 全体的に凹凸の少ない体を薄いピンクのキャミソールで包み、腰まである髪をストレートに伸ばしている。


 昔はハーフアップにした上で余った髪をポニーテールでまとめるのが定番スタイルだったはずだが、今日はそういう気分じゃないらしい。


 いつだったか、橘の髪型を真似してみて欲しくて、僕が見様見真似であーだこーだと頼んでみたことがある。

 そうして僕がその髪型をいたく褒めると、翌日からそれが智花の標準的なヘアスタイルになっていた。


 智花は「どこみてんの」とジト目で僕を睨み、今度こそ僕の頭にチョップをかましてきた。


「痛いって」


 どうやら、本当に夢ではないらしい。


 僕は、2001年からちょうど5年の月日を逆行したようだった。たしか、タイムスリップ、というのだろうか。恐らく、あの落雷を受けた瞬間にだ。昨晩眠る前にあった冷蔵庫の食材。あれを見るに、昨日帰宅した時点ですでに1996年になっていたのだろう。それならば、この賞味期限にも頷ける。


 それから、そう──電話機だ。留守番電話が一件入っていたはず。起きがけに昨日電話をしたとかなんとか、智花は言っていた。


「でも、まさかそんなこと……」


「早く顔洗ってきなよ。なんだか顔色も悪いよ?お兄ちゃん」


 そう思うなら頭を叩くんじゃない。と怒る気は不思議と湧かなかった。二度と会えないと思っていた妹との唐突な再会に、僕は心底幸福な気持ちに包まれていた。



 洗面所へ行くと、昨夜の濡れた衣服が洗濯カゴにあった。ポケットを弄ると、ウォークマンが見つかった。


 電源が入らない。やはり故障しているようだった。


 僕と一緒に、このウォークマンと衣服が5年の時を超えてきたということだろうか。


 1996年というと、携帯電話はまだほとんど普及していない頃だっただろうか。どのみち、高くて僕は持っていなかったけれど。


 鏡をまじまじと見てみる。そこには当然僕の顔があった。しかし、目にはクマもないし、痩せ細っているわけでもなく、もちろん髭も髪も伸びっぱなしというわせでもなかった。

 僕が自分を慰めるために少し鍛えた筋肉も、まるきり当時のまま。

 間違いなく、16歳の時の僕だ。


 部屋に戻ると、智花が制服を出してくれていた。


 説明が遅れたが、智花と僕は義理の兄妹だ。つまり、血が繋がっていない。


 智花は父親の友人の子供だ。病死で両親を失った当時の智花はまだ物心がついていたかどうか怪しいほどに小さかった。

 そして、1歳年下の友達ができた当時の僕と彼女が意気投合したのを見かね、身寄りもないということで父が引き取ったのだ。


 ちなみに、僕も母親がいない。智花のところと同じく、僕がまだ幼いうちに亡くなったそうだ。



 制服に身を包むのも体感的には5,6年ぶりか、と感慨深くなる。制服は白いカットシャツにネクタイとブレザースタイルだった。ネクタイの結び方がわからなくて、どこで知ったのか、智花が甲斐甲斐しく結んでくれた。


「そういえばお前、学校はどうした」


「あたしはまだ春休みだよ。ていうか、お前とか呼ばないで」


「ん、ごめん」


 素直に謝ると、智花は満足したように笑った。


 昨日までの僕は用意周到らしく、カバンの中に必要なものは揃っていた。

 パンフレットを見つけ中身を確認すると、そこには学校名と住所があった。平成8年度のご入学。つまり、1996年。智花のいう通りだ。きっかり5年分、時が遡っている。


 しかし、そこは僕が志望していた医療系進学校ではなく、普通の市立高校らしかった。当時医者を目指した僕だったが、やはり目標が高すぎたのだろうか。


 ……そもそも、橘がいない世界で、医者になんかなったって仕方がない話だけれど。


 当時、中学を卒業して就職するやつなんてごまんといた。そういうやつはたいてい、家庭事情をからかわれ進学組といざこざを起こしたり、細かな衝突を起こしていた。実際、僕も塞ぎ込んで中学三年の二学期後半をすっぽかしたこともあって、友人との軽い口論が殴り合いにまで発展して以降仲違いしている。


「お前……、んん、智花は中学を卒業したらどうするんだ?」


 そういえば、妹の将来については何も聞いてこなかった気がする。時が経てば知れると思っていたし、なにより進学の道が絶たれたばかりの頃の僕は、視野錯誤でとても周りの人間のことなど考えられる状況ではなかったのだ。


「ん~、高校行って、それから保育士さん、とか」


「ふうん」


 智花が保育士か。子供に好かれるいい先生になりそうだ。


「なぁに、その反応」


「別に、気になっただけだ。……そろそろ行かないとまずい」


「ん、掃除して鍵はいつものとこに隠しとくから」


「悪いな、わざわざ」


「そう思うなら自分でちゃんと掃除してよねー、サボりなお兄ちゃん」


 僕は頭を掻きながら家を出た。夢にまで見た高校生活だ。余裕を持って初めての登校をした。



 春の朝は命の息吹を感じる華やかさで、桃色の桜が咲き乱れ、空には天空をどこまでも裂く飛行機雲が見えた。同じ春のはずなのに、五年後の僕は、自然というものがこんなに綺麗なことを忘れていたらしい。


 正直なところ、僕は智花との再会で感動し、満足していた。浮かれていたのだ。考えるべきことは沢山あったはずなのに、思考がそれ以上働くのをやめていた。


 これから何が起こるのか、なぜ僕は16歳に戻ったのか。昨夜声をかけてきた少女は何者なのか、そんな細かなことを気にするだけの注意力は、とうに霧散してしまっていた。



 だから、教室に入って、自己紹介が始まり、僕は幽霊でも見たかのように驚愕した。


茨紫苑いばらしおんです。宜しくお願いします」


 そこには、例のがいた。


 ががが、と教室内に不快な音が響いた。思わず体が跳ねて椅子を後ろに引き摺ってしまった音だ。しかし、すぐにみんなの意識は件の茨紫苑とやらに集中する。


 暗がりの中でもわかった艶やかな黒髪とぱっちりとした瞳。その整った顔立ちに、クラス中の男子がざわついた。


 そして奇妙なことに、その『茨』という姓には覚えがあった。珍しいのはもちろんだが、その名は亡くなった僕の母親の旧姓と同じものだったからだ。


 僕の目線も並居る男子と同じく、彼女へ釘付けだった。

 もっとも、その意味は大きく違ったけれど。


 その後の担任の里森の話など一切耳に入らず、気が付けばロングホームルームが終了し、放課後となっていた。


「よ、真」


 どん、と軽く肩を小突かれ、そこで僕はよくやくハッと意識を取り戻す。周りを見ると、クラスメイトたちは皆友達とお喋りをしたり、帰り支度をしたり、ある者は黒板を綺麗に拭いている委員長みたいなヤツもいた。


 そして、僕を小突いた犯人に目をやる。


「反応悪りぃな、大丈夫か?」


 そいつは加瀬拓哉かせたくやといった。小学校一年生の、その入学式以来の親友だ。中学が別であったが定期的に遊びに暮れていたものの、最後には不登校となった僕を冗談交じりに貶し、殴り合いの喧嘩となって仲違いした相手だ。

 ──何を隠そう、彼こそがコンビニ弁当を冷めたまま食う、変わった奴である。


「加瀬……か」


「おいおい、マジで大丈夫かお前、魂が抜けかかってるぞ。ホームルームんときもなんか様子がおかしかったしよ」


「ああ……大丈夫。ちょっと、ぼうっとしてただけ」


「そか。俺、今日はバイトの面接あるんだわ、急がねえとだから、じゃあな」


「ああ、また」


 嵐のように去って言った加瀬を眺め、ようやく僕はまともな思考力を取り戻す。

 茨紫苑。そう名乗った彼女を問いたださなければならない。



 教室内にもう彼女の姿はなかった。最短ルートで下駄箱に向かうも、やはり見当たらない。もう帰ってしまったのだろうか。


 校内をもう一度探そうと昇降口に戻ると、幸いなことに、件の彼女が今まさに階段を降りてくるところだった。


「なあ、あんた」


 僕は言って、迷った。彼女があの雨の中の少女であることはほぼ間違いない。しかし、他人の空似ではないかというと、完全に自信を持って否定することもできない。そもそも、2001年の時と容姿が変わらないのもおかしな話だ。


 あの時雷雨でちゃんと名前を聞き取れなかったのが悔やまれる。


「えっと……平井真くん、でしたっけ。こんにちは」


 茨紫苑。彼女は丁寧な子だった。声まで橘に似ているんだな、と僕は思った。


「これは一体どういうことなんだ? どうして僕はここにいる」


 僕はこの現象の意味を問うた。しかし、返ってきた言葉は予想とは違っていた。


 彼女は小首を傾げてこう言った。


「……えっと、何の話、ですか?」


 ……こいつ、とぼける気か。


 時間が巻き戻っているだろう、と決定的な一言を口にしようとした時。


 なんの前触れもなしに、僕は喉が火傷したような錯覚に襲われた。


「ぅ……ぁが……ッ!?」


 なんと形容すべきか。

 ナイフで刺されて捻りを入れ、抉られているような感覚か。

 あるいは喉を開いて手を突っ込みかき回されるような感覚だらうか。

 謎の熱が喉を縛り上げ、たまらず僕は倒れて転げ回った。


「平井くん!」


 もう何もわからない。

 激痛に耐えきれず、僕はついに意識を手放した。




 目が覚めた頃には、あたりはもう暗くなっていた。


 外ではしとしとと雨が降っているらしかった。


「登校初日から保健室のお世話か……」


 喉の痛みは消えていた。恐らく、突然倒れた僕を誰かが運び込んでくれたのだろう。


 周りを見渡すと、隣には椅子に座ったまま器用に眠っている紫苑がいた。


「茨……」


「ぁ……おはようございます。……という時間でもないですね」


 眠りが浅かったのか、彼女はすぐに目覚めて小さく笑いながらそう言った。室内の電気は消されているため暗く、表情はわからない。先生はいないのか。


「養護教諭が外せない用事で外出しているので、私が」


「ああ……わざわざごめん、遅くまで付き合わせたみたいで」


 僕はひとまず、紫苑と雨女の関係性の追求を保留とした。

 この現象を口外することは許されないのだ。喉に走った痛みがそれだろう。

 そんなバカな、と自分でも思う。しかし、既に世界は一度ひっくり返っている。今更何が起きたところで、と納得できてしまう。


「いえ。これも何かの縁だと思います。改めて、私は茨紫苑です。よろしくお願いします」


「僕は平井真。こちらこそ、よろしく」


 差し出された右手を握り返す。懐かしい感じがした。



 ***



 昇降口に着くと、雨が強くなっていた。グラウンドではいくつもの水溜りができており、近くの排水溝はそこから流れたらしき泥水が暴れまわっていた。傘なしで帰るとずぶ濡れになりそうだ。

 隣で紫苑が右手の傘を広げた。


「平井くん、傘持ってきてないんですか?」


「今朝はちょっと慌てて出てきちゃったから」


 別に慌ててはいなかったが、天気予報は確認していなかった。僕は鞄を漁るが、折り畳み傘もない。準備の悪い僕だ、なんて言うつもりはない。僕はもともとこう言うやつだ。次からは常備しておこう。


 しかし、参ったな。そう思っていると、紫苑は言った。


「よかったら、私の傘に入りますか? ほら、外、暗いですし」


「……そうだな。送らせてもらうよ」


 気を遣わせてしまったな。僕は感謝の意を伝えつつ傘に入った。


 そうしてふと、昔のことを思い出す。

 僕の幼い青春時代の思い出が、たちまち記憶の底から溢れ出した。



 ***



 小学六年生の春の終わり、初の席替えがあった。

 偶然にも、僕の席は橘の隣になった。それからは、『毎週月曜日の任務』とは関係なしに校内でも自然と挨拶を交わすようになり、日常的に話もするようになった。


 彼女はひどく人見知りだが、そのくせ人懐こかった。一度でも親密になってしまえば、それこそ依存的なほどに懐く子だったのだ。家が近いこともあって、僕達は毎日のように一緒に下校していた。


「真くん、送って行ってくれないかなぁ?」


 いつの間にか下の名前で呼ばれることに、僕は胸が高鳴る思いだったことを覚えている。


 その日は降水確率が20%程度で、午後から天気が崩れて雨が降った。


 梅雨はまだ先であったが、ジメジメとした暑さだった。橘は傘を持ってきていなくて、僕はたまたま置き傘をしていた。


「ん。いいよ」


 僕はその嬉しさを誤魔化して素っ気ない態度を取っていたことを覚えている。真正面からの笑顔が眩しすぎたというのもあるし、彼女にストレートに思いの丈をぶつけるのに戸惑いがあったのも事実だ。


「真、また橘と帰るのか?」


 僕たちが下駄箱へ向かう道すがら、時折友達に声をかけられることがあった。特に、小学校初期から僕の親友という席に居座っていた加瀬には、よく僕たちの仲をからかわれた(もっともそれは、僕と下校できないのが気にくわないという、可愛らしい嫉妬心に基づくものであったが)。


 僕自身はさほど疑問に思ったことはなかったけれど、当時思春期真っ盛りな年代で、男女二人きりで帰るというのは、いささか恥ずかしいことだったのだ。彼女も特に気にしていないし、なにより僕も好きな女の子と下校することに気恥ずかしさはあれど嬉しくないわけがなかった。


「悪いのか?」


 僕はそのたび少し不機嫌にそう返した。加瀬は「いや」と慌てて相槌し、


「仲良いなって思ってさ。お似合いだぜ」


 それはいつものからかいに過ぎなかったのだが、僕は心底気分が良かった。さすがに恥ずかしくなって、彼女の手を取り下駄箱に急いだ。



「真くんは、不思議だね」


 僕が傘を広げ、橘がそこに潜り込み、僅かに触れ合う肩にくすぐったそうに身をよじりながら言った。


「そうかな」


「うん。……だって、そうでしょう? 普通なら、ああいう反応だよ」


 彼女は切なげな目をしていた。なんと言ったらいいかわからなくて、僕は少し経ってからこう返した。


「橘だって、不思議さ。僕みたいなヤツと一緒に毎日帰ってるんだから」


「……そっか」


 横目に彼女を盗み見ると、地面を見つめながらも橘は微笑んでいた。僕は気付かれないように胸を撫で下ろし、照れ臭くなってくるくると傘を回した。



 彼女の住むマンションのエントランスに入り、1009号室の扉の前までついていくのが、僕たちの暗黙のルールだった。僕が傘をバサバサと水切りしている間、橘が背伸びしてエレベーターの昇降ボタンを押す。


 よく、手でキツネのジェスチャを作って無邪気に笑いかけてくる子だった。僕がその都度ドキドキしていたことを、きっと橘は知らないだろう。


 小学六年生の一年間は、僕の人生の中で最も幸福な時間だったと言っても、過言ではない。



 ***



「平井くん?」


 紫苑の声でハッとした。ザーザーと勢いよく降っていた雨はやや弱まっているようだった。


「ごめん、ぼうっとしてた」


「ふふ、いつもぼうっとしてるんですね」


「まあね」


 僕は適当に言いながら、言葉以外で彼女に問いただす方法を考えていた。


「何を考えているんですか?」


 どきりと心臓が跳ねる。隣を見やったが、紫苑はにこりと微笑みを浮かべているだけだった。


「……別に、大したことじゃないよ」


「女の子のことでしょう?」


「……やっぱり君は」


 この現象に一枚噛んでいるのか、と聞こうとして、口を噤む。思わず喉を抑えていた。痛みはやってこない。


「……?」


 小首を傾げる仕草が橘に似ていて、まるであの日の続きをしているみたいだった。胸の奥が軋む感じがする。死を伝えられたあの日、無造作に心臓を握られたような錯覚が蘇る。


「……昔、好きな女の子がいたんだけど」


 気が付けば、僕は打ち明けていた。


「はい」


「君に似ていたんだ。だから、声をかけた。それだけなんだ」


 ただの偶然。橘はもういない。雨女がどういう意図で僕を高校生にしたのかはわからないけれど。


「その人、なんていう名前なんです?」


 不躾なことに、彼女は聞いてきた。

 けれど、結果的にそれは正解だったのだろう。


「橘桃華」


 言うと、紫苑は眉をひそめた。


「平井くん、もしかしてクラス名簿とか見ないタイプですか?」


「え? ああ……ちゃんと確認はしてないな」


 鞄には入っていなかった気がする。


「今日のホームルームも上の空でしたけど、もしかして先生の話も聞いていなかったりとか」


「う……でも、今は関係ないだろ」


 はあ、と紫苑は溜息をついた。今度は僕が訝しげな顔をする番になる。そんな僕をよそに、紫苑は言った。


「明日、自分の目で確かめた方が早いでしょう。もうすぐなのでここまででいいです、ありがとうございました」


 紫苑は僕に花柄の傘を押し付けると、小走りで去ってゆく。

 取り残された僕は訳もわからずに呟いた。


「……こちらこそ?」



 ***



 僕は妙に疲れて、その日は帰ってすぐに眠ってしまった。智花が何やら言っていたが、考えることが多すぎて、耳に入らなかった。



 翌朝のホームルームで、担任が飛んでもないことを言った。


「昨日急遽欠席していた、13番の橘だ。ほら、自己紹介」


「……橘桃華です。一年間よろしくお願いします」


 それを聞いた時のインパクトといえば、紫苑の比ではなかった。昨日のホームルームの話は、雨女について頭がいっぱいで、話などろくに聞いていなかったのだ。

 しかし、昨日、下校時の紫苑が妙な反応を見せていたことを思い出す。

 そして、雨女の言葉だ。

 『高校生になって彼女と出会う』と雨女は言った。


 つまり、最初から橘はここに在籍していた、ということなのだ。


 昨日は休んでいたところを見ると、月曜日はやはり通院していたのかもしれない。

 けれど、彼女はまだ生きている。


 1995年の秋。ちょうどこの時間から数えて約半年前にこの世を去ったはずの彼女は、僕と同じ高校の制服に身を通し、目の前に現れた。



 登校二日目から授業は始まる。移動教室などにも慣れず、まともな休憩時間がないまま、結局橘と話をすることは叶わないでいた。気付けば最後のショートホームルームが終わり、ようやく僕は帰路につく彼女の背を追ってやや興奮気味に声をかけた。


「やあ、橘」


 彼女は恐る恐るといった様子でこちらに振り返る。その美貌はこれでもかと綺麗に成長していて、久しぶり、と続けるのも忘れて思わず見惚れてしまっていた。

 今はただ、彼女が生きていることにひどく感動した。今すぐ抱きしめたいという衝動を堪え、僕は橘の言葉を待った。


「あの」


 しかし、その顔に再会を喜ぶ表情はなかった。あるのは僅かな怯えと困惑だった。


 橘は眉をハの字にして、視線を右往左往させたあと、ひどく申し訳なさそうな顔で言った。


「……ごめんなさい。?」



 約束された青春の色に、灰色のヒビが入った気がした。



 ***



 どれだけ立ち尽くしていただろうか。


 夕方に鳴るらしいチャイムの音で、ようやく僕は我に返った。


 当然、目の前に橘は居ない。それどころか、人の気配がまるごと消えていた。窓の外からは今日もそこそこの雨が降っていて、まるで僕の絶望を代弁しているようだった。


「……なにが代弁だ、ちくしょう」


 額に手を当てる。彼女はなんと言った? 忘れるわけがない。「あなたは誰ですか」と言ったんだ。


「どうなってるんだ……」


 僕はひとまず昇降口に向かった。上履きをしまって靴に履き替え、校舎へ向かうと土砂降りの雨が僕を襲った。


「傘、また忘れたな」


 しかし、頭を冷やすにはちょうどよかった。僕はシャワーみたいな雨を浴びながら、無心で下校することにした。


 雨に打たれながらの考え事はしばらく続いた。どれぐらい歩いたか、いちいち数えていないけれど、ともかくその道中に、それはやってきた。



「こんばんは、平井真さん」


「……」


 目の前に現れたのは、茨紫苑だった。厳密には、雨女だ。雰囲気が違う。二人が同一人物かはさておき、相変わらず橘に似た風貌をしている。けれど本物を見た直後だと、その違いがよく見て取れた。


 目元や頬のあたりはそっくりでも、全体像は大きく違う。やはり他人の空似だ。


「切望していた高校生活はどうでしたか?」


「あんたは僕を馬鹿にしに来たのか?」


 口から出たのはそんな言葉だった。

 僕は忘れられてしまったことへの怒りと悲しみを、八つ当たりのように彼女にぶつけた。


「退いてくれ。一人になりたい」


 紫苑は一歩も動かず無言で僕を見つめているだけだ。僕は舌打ちして横を通り過ぎる。すれ違う瞬間に、彼女は耳打ちするように囁いた。


「実を言うと、橘桃華さんはここ数年の記憶を失っています」


「……なんだって?」


 心当たりがある僕は、そのまま立ち去るわけにもいかず。

 そうして、横を通り過ぎた僕に彼女は首だけ振り返って続けた。


「あなたは橘桃華との高校生活を手に入れました。そして、二度と会えるはずのなかった家族との再会も果たしたはずです」


「……確かに、その通りだ」


 見返りになにかが必要なのか、と身構えた僕に、雨女はくす、と微笑んただけだった。


「あなたは、それでも彼女に恋ができますか?」


「……」


「ご武運を祈っています、平井真さん」


 彼女がそう締めた瞬間、雨がぱったりと止んだ。同時にその姿も消えた。まるで幻でも見ていたかのような錯覚に陥るが、一度似たような目にあっていると流石に納得することができた。


 幻聴でも、幻覚でもない。僕が身につける濡れた制服の気持ち悪さだけは、事実としてあった。



 記憶を失った彼女に恋をすることができるか。


 なぜ、僕は何も言い返さなかったのだ。



 ***



「あ、おかえり~……って、どうしたのその服。びしょびしょじゃん」


 帰宅した僕を出迎えたのは義妹の智花だった。


「お前……今日も来てたのか。昨日の夜、なんか片付けしたら帰るみたいなこと言ってなかったか?」


 難儀な妹だ。僕が言える立場ではないが、春休みなのに友達と遊びに行ったりしないんだろうか。


「お前禁止だってば。それは~……えへ、ベッドで漫画読んでたら熟睡しちゃってて」


 甲斐甲斐しく僕の濡れたブレザーを脱がしながら智花はバツの悪そうに言った。確かに、彼女は三角頭巾を被っていて、まさに今掃除に取り掛かってるようだった。


 ──そういえば、こっちにきてからの自宅の状況は僕自身全部を把握したわけじゃなかったな。


 家自体はあの時と同じだ。だからすんなりと帰ってこれた。


 でも、内装については、当時と比べると細部が微妙に異なっているらしい。もしかしたら、智花の手入れによって変わった可能性もあるけれど。


 そして僕はふと気付いた。冷蔵庫にあった食材だ。


「なあ智花、冷蔵庫にあったお弁当用の食材って」


「この前一緒に買いに行ったやつ? それがどうしたの?」


 ……当然、僕にそんな記憶はない。この『僕』の記憶のタイムスリップは、あの落雷を起点として起きたものなのだろう。

 だとしたら、それまでの「僕」の意識はどこへ行ったのだ?


「ていうか、お兄ちゃんこれ濡れすぎだし。なに、さっそくイジメでもあったの?」


 ブレザーに染み込んだ雨水にドン引きしながら智花が冗談交じりに笑う。


「アホか。さっき、大雨が降っていただろう? 傘を持って行ってなかったんだ」


 天気予報どころか、テレビもあまり見ないタチの僕は天気事情に詳しくなかったのだ。


「えぇ? 雨なんて降ってたっけ……」


 予想通りの反応に、僕は思わず笑ってしまう。


「降ってたんだよ」


 僕はべたべたする服を全部脱ぎ捨てて足早に風呂に向かった。貯めてくれていたらしいお湯を桶一杯掬っておもむろに被ってようやく一息つくことができた。


「ふう……」


 今日は、色々ありすぎた。


 頭を整理するために、ゆっくりと湯に浸かるとしよう。



 体と心を落ち着かせ、改めて考えて。そろそろ認めなくてはならないようだ。


 どうやら僕は、不思議な力によってタイムスリップしたらしい。それだけではない。僕が辿ってきた過去とは微妙に違った世界に、だ。

 家にあった新聞と、智花の言葉を照らし合わせてみた限り、今は1996年の4月9日。僕が腐っていた2001年の21歳の春から、きっかり5年巻き戻り、僕は高校一年生になっている。


 前述した通り、僕に高校在籍の記憶……というより、歴史はない。更にいえば、前年の初冬にこの世を去った橘もまた生きている。つまり、今この世界は僕の知る、僕が辿った歴史と異なっていることになる。僕と出会った誰かの歴史は、少しずつ歪曲していくこととなるはずだ。


 たとえば、義妹の智花。

 彼女は実家で父親と二人、ずっと一緒に暮らしていたはずだ。この時期に、智花が我が家を訪れたという記憶はない。


 そしてその年の夏、父の長期休暇を利用して僕たち家族三人は小旅行に行って、その帰りに前の座席に座っていた父と智花は事故で亡くなってしまった。


 しかし、現在。


「なあ、智花。いつになったら帰る気だ?」


 風呂上がり、僕が頭を整理している傍らで、智花はテレビを見ながら寛いでいた。さすがに夜も遅くなってきているからもう一晩ぐらい泊めてもいいかと考えていた僕に、智花は予想外の返事をした。


「あ~、お兄ちゃん。ちょっとお願いがあるんだけどさ」


「なんだ? 心配しなくてもちゃんと送っていくから……」


 早く支度を、と続けようとした僕を首振りで制し、


「今日からあたし、ここに住む」


「はあ?」


 思わず間抜けな声が出た。

 もともと掃除ができない(面倒臭がってしないだけだ)僕をひどく心配し面倒を見に来てくれていた智花ではあったが、僕がアルバイトを始めると途端に来る回数が減ったものだ。それは同時に彼女の受験による忙しさを物語っていた訳なのだが、当時の僕はそれに気付くのに三年を要した。


 腐ってしまった僕を見限ったのだと、勝手に捉えていたものだ。


「実はさー……お父さんのところ、いづらくって」


「何かあったのか?」


「その……お父さん、最近彼女さんを家にあげたりしててさ。気を遣っちゃうんだよね」


 ああ、と僕は納得する。親父に恋人がいるのは知っていたが、どうやら智花は知らなかったらしい。母親のいなかった僕らにとって、今更別の誰かを母親代わりにと思うのは少々酷な話だ。


「まあ……そういうことなら、好きなだけここにいたらいい。でも学校はどうするんだ? 服や教材は?」


「うん……明日の朝、お父さんが車で持ってきてくれるの」


 親父も了承済みか。なら問題ないだろう。


「そっか……わかった。もう遅いし、智花も早く風呂に入ってきたらいい」


「うん、ごめんね」


 謝らなくてもいいのに、智花にはいちいちそういう癖があった。当然だと享受されてもそれはそれで変な奴だが、謙虚すぎるのも困りものだ。

 僕の部屋はワンルームでそれなりに広い。ベッドは一つだけ。予備の布団か何かを使えば床でも十分眠れるだろう。


 僕には僕の悩みがあったように、智花にも年相応の悩みがあるのだ。


 僕は実家からはやや離れた位置にある私立中学への入学が決まって、近いほうがいいだろう、とこのアパートに引っ越してきた。僕がここに住んでいるということは、その歴史は変わっていないはずだ。


 しかし智花はまるでガラス細工のように扱われ、最寄りの公立中学に実家から通っている。

 逆に言えばここからそこまで通わなければならないのだが、その点は「早起きは慣れてるし大丈夫だよ」と言っていた。僕は早起きも苦手だから、毎日遅刻の心配がなくなるのはありがたい。




 夢を見た。懐かしい思い出の夢だ。


 小学校六年の夏。毎週月曜日、橘の元にプリントを届ける任務は順調だった。もう、月曜日は憂鬱じゃなくなっていた。


「今日もありがと、真くん」


「うん……橘の病気って、なんなの?」


 その日、僕はふと気になったことを聞いた。毎週、通院のために学校を休まなければならないというのもしんどい話だ。


 僕の言葉に、橘は一瞬ぱちくりしたあと、んー、と指を顎に当てながら事もなげに言った。


「わからないの。原因不明の、新種の病気らしいってママが言ってた。だから、いつ死んじゃってもおかしくないんだ」


 僕はまだ少ない人生でも一番の衝撃を受けたことを覚えている。胸にぽっかりと穴が空いたような気がした。目を見開いて、橘が遠くへ行ってしまうような気がして、思わずその手を取った。


「……そんなに心配しなくても大丈夫だよ。私はこうして元気だし」


 そう言って健気に笑う橘。何もできない僕は自分に腹が立って、気付けば口からこんな言葉が出ていた。


「僕が将来医者になって、橘の病気を治して見せるよ」


「え……?」


「約束する。それで、治ったら……」


「……?」


「なんでもない。また明日な、橘」


「……うん。また明日、真くん」


 僕はその翌日から、勉強に励んだ。医学知識はおろか、小学生にとって人体に訪れる病気のメカニズムもなにもわからない。けれど、とにかく勉強が必要だということは僕にもわかった。



 その時、間違いなく、僕は人生の中で幸せの絶頂にいた。

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