第13話 日光に背いて

 わからないことは訊けばいい。そう教わったのは誰からだろう。


 小学校高学年の頃、僕たち孤児の名付け親は誰なのかと牧師に尋ねたことがあった。僕や千世のように実の親を知らない子どもにとって、自分の苗字が誰に名付けられたかは大きな関心事だった。


 牧師はとても物知りな人だった。彼の信じる神様の話はもちろん、人間が解き明かしてきた自然の仕組み、大昔から問い続けられてきた哲学などを子どもにもわかりやすく話してくれた。


 教養に溢れるぶん、何か悪いことをしたときは逸話交じりの説教を長々と聞かされる羽目になった。でもその話自体はとても面白かったので、院の子どものなかには自分から説教をされにいく者もいた。沙智なんかがその例だ。


 僕の質問にも、牧師は丁寧に答えてくれた。病気で視力を著しく失ったらしい彼の右眼は、近くで見ると灰色に濁っているのがわかった。


「まず、それぞれの事情によって異なることを知っていてください。きみの橙崎という苗字は、この地域で一番偉い人が名付けたのです。遥斗の名はわたしや保母さんたちで集まって決めました。この院にいる子どもたちの大半も、同様です」


 ではそうでない人もいるのですか、と続けて僕は訊いた。


「そうですね。たとえばこの院に預けられる際、名前の書置きを残されていた場合。苗字が記されている場合はごく稀ですが、下の名前だけある場合なら幾つかケースがあります」


 苗字があると身元が特定できる可能性が残る。匿名で子を捨てる親の多くはそれを望まない。


 僕らがいた施設は公的な施設ではなかった。『孤児院』という名称自体が現行の法律では使用されない施設名なのだ。通常、身寄りのない子どもを引き取る施設は『児童養護施設』と呼ばれる。


 あの場所はあくまで非営利の孤児受け入れ施設だった。牧師と呼ばれる彼は莫大な財産を持っていて、保母を雇い自分の別荘で子どもたちを共同生活させていた。


 当時の僕はそんな事実を知る由もなかった。だから同じように暮らしている兄弟姉妹の中に、本当の親に引き取られる可能性のある子どもがいるなんて気づくはずもなかった。


 もしあのとき、牧師に「苗字を記されていた子どもが僕たちの中にいるのですか」と訊いていれば、どうなっていたのだろう。


「いいですか。ここにいる子たちは皆それぞれに事情を持っています。けれどこの孤児院で共に過ごす兄弟であることには変わりありません。名前がどうあろうと、遠く離れることがあろうと、私たちは強い絆で結ばれているのです」


 牧師はにこやかに笑ってみせた。どの兄弟にも見せる平等な笑顔だったが、そのときだけは少しかげって見えた。


 僕がどうしてあんな質問をしたのか、今となっては思い出せない。


 あれは確か、千世が高校進学を契機に孤児院を発つことを知らされた、或る冷えた朝のことだった。




「どうしてそんなことを思い出したのかって?」


 珍しく困り顔の沙智は、僕の部屋に置きっぱなしだった諸々の家財道具を仕分けする手を止めた。


「知らないよそんなの。訊く相手が違うんじゃない」

「誰に訊けっていうんだよ」

「千世姉さんに」


 僕の内心を見透かしているかのように一石を投じ、再び仕分け作業に取り掛かる。側面に赤のマジックペンで『断ち捨て離るる』と書かれた段ボールの中は既に木製鉄製プラスチック製雑貨の闇鍋状態になっていた。


「ふぃー、やっぱ物を捨てるのは気持ちがいいぞい!」

「何キャラだよ……ていうか僕の服もそっちに入れてないか」

「兄さん。服選びは運命なの。だとすれば服が捨てられるのは宿命だと思わない?」

「無茶苦茶な論理で僕の普段着を捨てようとするな」


 ひと悶着あって、古着屋で買った半袖のパーカーを取り戻す。


 孤児院にいた頃から衣服の奪い合いはしょっちゅうだったが、この歳になってもまだ似たような争いが起こるとは思いもよらなかった。


 つくづく世の中は先を予測できないように上手く作られているものだ。


「兄さん、年下には容赦ないよね」

「基本的にはな」

「千世姉さんには敬語なのにね」


 器用じゃないだけだ、と言いかけて止める。


 千世に対しては敬語で話すのが習慣だった。それが単に抜けないだけなのだと思っていた。


 けれどそれだけじゃない――僕は、千世との距離感を測りかねていた。


「千世は僕のこと、どう思っているんだろう」

「はぁー?」


 即座に沙智から野次が飛んできた。


「兄さんじゃなきゃ殴ってますよ今の発言」

「ど、どうしてだよ」

「それだけ愛されててよくもそんなこと言えますねって話ですよ」


 敬語なのが逆に迫力がある。僕は家主らしからず縮こまった。


「千世姉さんはずっと遥斗兄さんのことばっかり考えてるよ。兄さんとの未来を夢に見ながら治療を頑張ってる。傍から見たら、重いくらいに」


 拳を握りしめる沙智の眼は微かに潤んでいた。


 沙智は真実を知っているのだろうか。たとえ知らなくても、彼女の言うことは正論に違いなかった。


 千世はいつだって僕に寄り添おうとしてくれている。僕がそれを遠ざけてきただけだ。


 今は違う。恋人が決断した選択を、隣で肯定できる自分になりたい。


「僕だって、愛しているんだ。千世を、愛している」

「知ってます」


 沙智は目を逸らさない。そんな義妹が、僕はいつだって羨ましかった。


「その言葉は、本人に直接言ってあげてください」

「言われなくとも」




 荷物の仕分けが終わり、大量の雑貨を捨てる役割をじゃんけんで押しつけられた。勝負事には無類の強さを発揮する沙智。きっと神様にも愛されているのだろう。


 窓から西日が差し始めていた。陽が落ちる前に帰る予定だという沙智は、夕飯の誘いを断って慌ただしく持ち帰るほうの荷物をまとめだした。


「遥斗兄さんって、霊感が強いほうだったよね」

「……ああ」


 僕が右眼を隠している理由について、沙智は霊感持ちだという認識をしていた。特に否定をしなかったことと、そちらのほうがまだ偏見は少ないという都合から、他の兄弟たちにも同じ認識が広まっている。


「だったらもう知ってるかもしれないんだけど、千世姉さんは言わなさそうだからさ」

「どういうことだよ」

「死神って、見たことある?」


 背筋が凍りつく。


 あの真っ白な箱の中の光景を想起する。佇む、黒い死神の姿。


「前の病院でのことだから、今はどうだか知らないけど。千世姉さん、あそこで入院してる間に時々、見られてる感じがしたんだって。長いときは一時間以上、誰かに見られ続けてたって」

「それが死神?」

「わかんないけどさ。千世姉さんはそう言ってた」


 それっきり沙智は口を開かず、部屋を出る際に「それじゃあまた」とだけ言い、気まずそうに去っていった。


 沙智にしては脈絡のない話だった。常識的に考えて、死神なんてのは有り得ない。そんなのは沙智も承知のはずだ。千世がそれを死神と呼ぶのにも違和感がある。


 それでも僕は、そんな与太話さえ真に受けざるを得なかった。


 僕にはその存在が、他の誰よりも鮮明に見えていた。それを偶然と言い切るには、あまりにも不安要素が多すぎる。


 壁に掛けたカレンダーに視線をやった。次の面会可能日まで、まだ一週間ある。


 太陽が地平の向こうに沈み、影は僕らの住む街を覆い隠し始めていた。

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