第12話 絶対的な暦のない世界で

 暦の話をしてきた。


 暦というものは、天文学、物理学、数学といった高度な科学に基づきながら、一方で、始まりをどこに置くか、月の配置、週という単位などなど、どうしようもなく政治性・宗教性を帯びることがお分かりいただけたことかと思う。時に宗教や慣習の力が政治力すら上回り、〝合理性〟すら霞む恐るべき代物である。

 現代日本社会では、暦がそれ程恐ろしいものであることを知覚して生きることは稀である。それは幸せなことでもあるし、一方で暦に関する知識を身に付ける機会があまりないことも意味する。

 うっかりすると、キリスト教紀元のグレゴリオ暦が世界共通の暦だ、なんて思い込んでしまうのは、故のないことではないにしても、極めて極めて危ういことなのである。


 暦は、地理的にも歴史的にも多様であり、過去、現在において多種多様な暦が利用されている。そして恐らくは未来においても、唯一の暦が絶対となることはないだろう。

 使用する暦を選ぶということは、それ自体が実は政治性を帯びた行為であり、他人に暦の使用を強制する力は権力である。

 だが、それは決して悪ではない。

 2013年にソマリア沖で日本船を襲撃したとして逮捕・起訴された海賊たちは、自分の生年月日も、年齢も答えることができなかったという。無政府状態が長く続くソマリアでは、暦の使用すら失われてしまっているらしい。そのような社会が幸せであるか、答えは明らかだと思う。


 私たちが近代的な社会生活を営む上で暦は必須のものであるが、そうであるが故に、取り扱いは慎重を期すことが求められる。絶対王政の社会なら権力者がほしいままにするのもアリだろうが、民主社会では広く合意に基づいた暦の運用が求められる。イチかゼロか、白か黒かではなく、合意できる範囲で合理的で、抑圧的ではないバランスの取れた柔軟な暦の運用を、追求して欲しいと願わずにはいられない。

 そしてそのためには、主権者ひとりひとりが、暦について知識を有し、理解していることが望ましい。


 暦の半分は科学でできているが、残りの半分は政治でできているのである。

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