第6話 図書館員証



 女を待つあいだ、二玖は手近な書棚の本を何気なく一冊手に取った。紺色のビロードで装丁された手触りのよい背表紙だ。


 分厚いその本を抜き取った途端、棚に隙間ができて、向こう側が見えた。

 向かい合わせになった棚の向こうで、誰かが並んだ本に手を掛けるのがわかった。

 

「ごめんなさいね。お待たせして」

 いつの間にか女は戻っていた。

 二玖は再び棚の隙間から向こう側を覗き込んだが、すでに棚は本で埋まっていた。


「ここのカードを作って差し上げましょう。館員になると喫茶室の飲み物が無料になるのよ」

 にっこり笑って立ち上がると引き出しから紙を取り出し、二玖の前に広げた。

 浅型の引き出しは全ての段に分類ラベルが貼られ、カウンターの一面を塞いでいる。

 

「あ、カードなら持ってます」

「まあ、ほんとう?見せて」

「今日は、忘れてしまって」

 忘れたというか、そもそも、ここに来る予定はなかった。


 女は軽くうなずく。


「忘れたならもう登録済みということね。いいわ。もう一度作りましょう。過去の記録を調べるからこの用紙に氏名と年齢、住所をお願い」


 二玖の手は止まったままだった。

「さあ、空欄を埋めて」

 威圧的でも、語尾は優しく包容力を感じさせ、不思議と従ってしまう。

 氏名、年齢、住所、電話番号。

「すいません、最後の欄って、」


 用紙の最後に大きな括弧が空いていた。

「埋めておいて」


 指示の意味がわからず何も動き出せないでいると女は面倒そうに溜息を吐いた。


「埋めたいものを埋めるのよ」


「この空欄に、ですか」

「埋めて、土をかけてしまえばわからないから心配しないで」


 土をかける?

 二玖はしばらく考えていた。けれど埋めたいものなどなかった。

「どうも思いつきません」

ゆき詰まった声でそう言うと、女はふっと笑って紙を取り上げた。

「冗談よ。こんな紙の上に、埋められるわけがないでしょう」


 その紙は女の指に挟まれひらひらと宙を切ると、同じサイズの用紙が積み重なる一番上に置かれた。そして脇にあった青銅色の文鎮がしるしのように据えられた。


「埋める。埋める。目をまぶたに埋める。それから頭に埋める。まあいいわ。また、いつでもいいわ」

 女は歌うように呟いた。


 カウンターの椅子に腰掛けた自分以外にも、衝立で仕切られた向こうで、誰か同じように勧誘を受けているようだった。その客はやんわりと入会の誘いを断り、コーヒーを飲みながら本を読んでいる様子だ。ちゃんとお金を払ってコーヒーを飲んでいるんだろう。いくら無料になるからといっても、勧められるままにこの用紙を書いて、図書館員になって、よかったのだろうか。図書館員?いや、利用者のはずだ。

 女にもらったカードをポケットから出して確認した。


『私立図書館員証』


 何だか変だと思ったのにちゃんと見ていなかった。ここのカードを作るというから、てっきり借りるためのカードだと思ったのに、これだと働く側になるということ?


「アレクサンドリア図書館も随分強引だったらしいわ」


 今度は優しい母親のような顔をして、女は宙を見つめる。


「世界中の知を集めるために、旅人が持っている本を奪うの。そして写す。写し終えたらなんと、写した方を旅人に返すのよ。何食わぬ顔をして」


わたしは今、スケッチブックを奪われたんだろうか。それとも、返したんだろうか。二玖は少し混乱した。

「余計な話をしてしまったわね」

 女は顔の表面を笑顔に変えた。

「大丈夫。あなたが世界の知を持ってるなんて思っていないわ」


 それから温かいコーヒーをいれてくれた。

「あなたは職員になったから、コーヒーは無料だ、」再度恩着せがましく、言われた。


 私立図書館を出ると雨の匂いがしていた。

今朝二玖が剪定した、生垣の前にいた。少々刈り過ぎ、まばらな枝葉の向こうに真っ黒い闇が在った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る