第3話 使われない椅子 



 二玖はひとり、椅子にすわる。


 居間には、形も大きさも異なる四脚の椅子があった。


 二玖は、肘掛が艶めく飴色の、小振りの椅子に座った。誰も決めたわけではないけれど何となくそれが二玖の椅子になっていた。座布団は麻ばかりのハギレでパッチワークが施されていて、ざらついた肌触りが夏にはちょうどいい。

 聞いた訳ではないが、これら四つの椅子も母さんの「廃品回収」の過程で集まった物だろう。

 ひとつ、妙に高くて誰の体にも合わず、実質「かばん置き」となっている椅子がある。でも住人は三人だから差し支えはない。 


 暑かった。

 大窓は木枠ががたついて半分も開かないのだ。

 玄関扉の開く音がして、おばあちゃんが戻ってきた。

「おかえり」

差し出したお茶を有り難たそうに受け取ると、「ああ、オウルか」とまるで今日初めて会ったかのように二玖を見て、祖母は今度こそ腰を落ち着けた。


「見つからなかった」


 探し物が何なのか、今まで何度も尋ねたけれど、おばあちゃんがきちんと答えてくれたことはなかった。今はもう、意味のないあいさつみたいに二玖の耳に届く。

 サガシテクル。ミツカラナカッタ。


 太陽はやがて夕日に変わっていた。

 暫らく前に冷蔵庫から出したジャガイモは、外気に触れてしっとり濡れている。

 日曜日の今日は二玖が夕食を作る係だ。メニューはポテトサラダと生姜カレー。歩き疲れるのか、おばあちゃんの眠気は夕食前に訪れるので、明るいうちにありあわせを食べ、すぐ寝てしまう。だからこれを祖母が食べるのは明日の朝以降だ。二玖は、その後仕事から帰宅した母とふたりで夕食をとる。母の仕事場は同じ敷地内の、蔵だ。今日も一日中、元蔵である店舗へ籠もっていたはずだ。


 母は、資源ごみから高値の付く骨董品まで、軽トラで身軽に依頼者の家を行き交う。


 母の人生の大部分を二玖は知らない。大学で学んだのは少なくとも骨董品鑑定ではない、とは聞いたことがある。

 大学卒業後すぐ、母は医者だった父と結婚して二玖を産んだ。間もなく二玖の父は、実家にお金をもらって、実家に似た新しい家を建てた。車二台分の広いガレージのある、立派な家だった。地震に強く、百年もつ、というお墨付きの外壁は新建材で、家の床は木に似た、木より強くて木より手入れのいらない便利な素材でできていた。二玖はそれを我が家だ、と思っていた。でも母は、どうしても家を受け付けなかったらしい。結局、家を建てたその夫も。

「あなたのお父さんの建てた家わたしを受け付けなかったの。家って、生活なのよ。帰る場所はここではない、と思ってしまったの。毎日毎日ここではないと思って家に帰るの。それって、とても苦しいことだった」

 二玖の物心が付き、すでに固定した頃、母は正式に離婚し、二玖を連れこの家へ戻ってきた。


 「とんでもなく古く、だだっ広く寒々しい」


 最初の印象は最悪だった。玄関は普通の倍はあるし、台所も厨房というほうがふさわしい。たった三人でそこに住んでいるのだからちぐはぐ極まりない。常に借り物をしている感じ。「ちょっとお台所お借りします。ここで寝させてもらっていいですか」——もちろんそんなこと言わないけれど、ここがまさしく自分の住処だ、とは思い難い。

——では一体ここが誰にとっての住処だったのか。


「宿坊、って聞いたわよ」

「シュクボウ?」


 仕事から帰るなりの質問に、面倒がらず母は答えた。

「ほら、前の坂を下ったところにお寺があるでしょう」


「ああ、」


 古びた鳥居と三重塔と、それから寺院がある、殆んど行ったことがないから近所といえども咄嗟には思い起こせない。

「あそこのお坊さんがかつて生活してた場所。宿にお坊さんの坊で宿坊。詳しくは知らないんだけどそう聞いたことはあるわ」

「へえ」

 母は生まれ育ったこの家を「普通」だと感じるのかもしれない。でもここは一般的家族が住む普通の家とは程遠い。何と言うか、「ストイック」な感じ。だから信心深い僧侶の、共同生活の場だったと言われると納得できる。

 でも。

 ひとつだけこの雰囲気から逸脱しているものがあった。


 暗がりに目をやると地中喫茶室の奥に西洋風の暖炉がある。かまどの方がふさわしいのに、あるのは紛れもなく暖炉だ。


「あれは全然宿坊っぽくないけど?」

「ああ、」


 旧知の友にでも声を掛けるように母は暖炉へ向かった。

 暖炉を囲むマントルピースの飾り棚の上にはモノクロームの花の絵。「ルドン」という、十九世紀フランス人画家のものだ。

「母さんは会ったことないけど、長いこと、この家には居候がいたというの。」

「お坊さん、じゃなくて?」

「外国人らしいの。おばあちゃんおじいちゃんと、一体どういう関係だったのか全くわからない。使用人というわけでもない、おばあちゃんの表現を借りれば神様。このうちには長いこと神様が住んでいた。今は天国で見守ってくれている。いつだってあなたは見守られている。だから何だって見抜かれる。悪いこと、できないわよって。」

「それって、都合のいい作り話じゃない?」

「そうなのよ。今じゃおばあちゃんに確かめることもできない。だから信じるか信じないかは自由。まあ元々ね、宿坊って、参拝に訪れた人や、他のお寺からはるばる来たお坊さんを泊める所でもあるの。西洋の神様も受け入れる、度量の深い建物なのよ」


だから二玖も受け入れる。そう言いたいのだろう。

「でもさ、宿坊がどうして我が家なの」

「そうねえ、母さんは生まれた時からここにいるから、どうしてって言われてもねえ」


 母はそこまで言うとはっと顔を上げて、

「オウル、おばあちゃんにお薬ちゃんと飲んでもらった?」

と声をひそめた。本当は帰ってきた時からずっと聞きたかったんだろう。病院でもらった薬はとりあえず一週間分。効果が現れるのに二週間は掛かるという。今日がちょうど一週間と一日目だった。 


「うん。大丈夫。わからないように混ぜたよ」


 母は祖母を、それとなく病院へ連れて行くことに先週成功し、薬を処方してもらったのだ。祖父が死んだ頃から何となく言動はおかしかった。一年もの間受診をためらっていたのは、自分は病気ではないと言い張って病院へ足を向けなかったおばあちゃんの、強い意志の力だ。


「とにかく薬が大事みたいだから。騙すみたいで本当は良くないけど、おばあちゃんのためだから」

「わかってる」


 母は、おばあちゃん子の二玖にこの任務はつらいだろうと思っていた。 

 けれど夕食どき、毎回一緒にいる二玖に頼むしかない。


 祖母の意志の力を曲げるのは思いのほか簡単だった。なぜならもうそこに意志というようなものは存在していなかったから。 

 病院に連れて行った時、祖母はただ、足踏みをしているだけだった。どうしてそのことにもっと早く気がつかなかったのか。二玖も母もただ呆然とした。 


「ところで借りっ放しになってるもの、なんてない?」

昼間の、落ち葉のようなハガキのことをふいに思い出した。

「さあねえ、借りるって誰から?」

母は黙々と生姜を分けている。

「催促のハガキをだすっていったら図書館とか?」

そう言って二玖はカレーと同化した細切りの生姜をむしゃむしゃと食べた。一方、生姜をお皿の端に積み上げながら母は顔を上げる。


「図書館なんて長いこと行ってないわ」


 休日に母に連れられて絵本を借りに行った日々を思い出す。

「長いこと行ってないからこそ借りっ放し、なんじゃない?」

「だけど心当たりがないもの」

「忘れてるんだからないよ」

「ということは、このまま忘れてるしかないわよ。だいたい、督促の内容が書かれていないわけ?それ特殊詐欺ってのじゃない?」

 母は投げやりに言って生姜のなくなったカレーを一気に頬張る。疲れが溜まっているんだろう。そういう疲れにこそ生姜が効くのに。


 夕食が終わると片付け担当の母は、さっさと洗い物をして自室に引き揚げた。近頃大正時代の珍しい銘仙生地が手に入ったとかで、熱心にパッチワークを縫いつなげている。


 二玖は今日一日全く勉強をしなかったことに焦りを感じ始め、平気でいられない自分の、受験生の自覚を少し誇らしく思ってみる。でも、何しよう。しなければいけないのは数学だけど。

「気が向くのは数学じゃないんだよね」

 居間を出て階段を上がると、突き当たりの自室から光が漏れていた。


(あれ、)

ぎいっとドアを軋ませて中へ入ると眩しくて思わず目をつぶった。

 夏至が過ぎて太陽の傾きが変わったのか今までそんなふうに夕日の差すことはなかった。


 ここは元、祖母の部屋だった。使われなくなったこの部屋を二玖が譲り受けたのはつい最近だ。


 一日中庭を歩き続ける祖母は今、この部屋など始めから知らないように階段を上がることはない。祖母の行動範囲は今はもうただ、庭。それだけだ。


 しかし、と二玖は部屋を見回し、改めて思う。この「部屋」の方はどうだろう。もしかしたら、祖母をずっと待っているのかもしれない。その証拠にいつまでも二玖には、部屋にあるそれぞれの物が、どこか他人行儀に振舞うように思えた。物が「振舞う」なんておかしな表現かもしれないけれど、猫足のベッドはいつも仕方なさそうに二玖を載せ、それまでスプリングを効かせたことのない部分を不器用そうに沈ませる。重厚な飴色のカーテンボックスは、赤のマドラスチェックに掛け変えられたカーテンを不服そうに吊るす。窓に対面して置かれた机は断固として主の変更を認めない。そして窓から、外を、外を歩くおばあちゃんを、探し続ける。


 沈みかけた夕日の差し込む先に、古めかしい本、紙切れ、日焼けして褐色の塊りと化した書類の束などが、天井までの棚を、隙間なく埋めている。二玖にとっては「壁」でしかなかった。その壁に不自然さを感じて光の当たる部分に目がいった。


 一冊のスケッチブックが本と本の間に挟まっている。


 『私立図書館』


 糸で綴じられた背表紙の、剥がれかけたラベルには確かにそう書かれていた。

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