ひなかご 10

 雲から月明かりが洩れる空をみながら歩いた。

 ユゼスの市街地を抜け、せまい小道を辿り、街をみおろす郊外の墓地へ出た。

 カミーユは墓地の門のまえに辿り着いた。そうして、人気のない墓地の前でためらうようにあたりを見回した。

 墓地は高い木の垣根でぐるりと囲まれている。二階建ての建物の高さの垣根の内部はまったく見えなかった。門からなかをのぞくと、墓石の群れが整然とつづいている。

 自分はいったいなにをしているのだろう。

 フランスギクの花束に顔をうずめる。心臓の鼓動が高まっていく。身体のなかに別の生物がいるようだ。カミーユは冷や汗がうかぶ額を手で押さえながら考えた。

 自分を縛る檻のなかでなにかがふるえている。のどからせり上がってきて、唇を破る。

 闇がきしんだ。小さく悲鳴をあげて肩をすくめると、垣根から鳥が羽ばたいていくのが見えた。

 鳥は空へ飛び立っていく。

「カミーユ」

 黒々とした垣根の向こう側から、声がした。

 ここにいるはずのない人間の声だった。

「クロード」

 なぜ自分の恋人がここにいるのだろう。脅えを気取られぬように、カミーユは声を高めた。

「どうしてここに」

 カミーユはフランスギクをかたわらに抱いて、墓地のなかへ入っていこうとした。

「人違いですよ、お嬢さん」

 カミーユが足を止めた。垣根を疑いのまなざしで見つめて、カミーユは一瞬、おびえるように肩をビクリと上げた。

「ジォン――おじさん」

 垣根の向こう側の声は、なにもこたえなかった。足がうごかない。カミーユはふるえる声で言った。

「こちらへ出てきてくださらない」

「君さえよければ、このまま話したい――顔を、見られたくないからね」

 ジォンの声は、想像していたものよりもずっと深く、よく響いた。そして、言葉の訛りが消えて、綺麗な発音になっていた。なんてクロードの声によく似ているのだろう。カミーユは混乱した頭で考えていた。

「君は綺麗になった。失礼だが、昼間拝見させてもらったよ」

「庭で?」

「ああ、庭で。君は花壇で花を摘んでいた」

「コレットおばさんの花壇よ。本人は亡くなってしまったけど」

「あの庭は変わらないね。君は変わったけれど」

「子供だったもの」

「目だけは変わらない。甘い青だ」

 笑みの気配が声に含まれる。カミーユの混乱は深まっていった。クロードの声が、クロードの知らない記憶をたどる。

「婚約したんだってね」

「サファイアの指輪をもらったわ」

「おめでとう」

 誠意が苦く感じられた。

 しばらくためらったあと、カミーユはぽつりと誰にも話せなかった言葉を告げた。

「どうすればいいか、わからないの」

「うれしくないのかい?」

 咎められて、カミーユは打ちのめされたように瞳を揺らした。

「ええ」

「君は変な子供だった」

 声は足音とともに遠くなった。

「初聖体のときも、ドレスを着ているのにまったくうれしそうじゃなかった」

 声が揺れる。遠く、近く。墓地のしめった土が、靴に踏まれるたびにくぐもった音をたてる。

「でも、いまは違う。君は自分で自分の人生を選べるはずだ」

 カミーユは花がほのかな白い光をはらんでいるのを見つめながらつぶやいた。

「誰も好きになったことがなかったの」

 足音が止まった。

「では、どうして婚約したんだ」

「これからも好きになる人はいないと思ったから」

 うつむいてカミーユはつぶやいた。ジォンの憤りが、空気をつたって感じられた。

 クロードとは、オペラを通じて親しくなった。歌が好きなくせに、カミーユは生まれつき歌が下手だった。

 子供のころに友人と好きな人の名前を明かしあったとき、カミーユは誰も思いつかなくて困ったことがある。

 適当な名前をあげようとして、カミーユは凍りついた。途方もない罪を犯そうとしているような気がした。友人からずるいと言われても、カミーユは沈黙を貫き通した。それ以来、恋という言葉はカミーユにとって禁忌になった。

 心のなかに散らばっている、でたらめの音階をすこしでも取り戻すために、カミーユは歌を聞いているのだろうかと思った。

 クロードは自分とはまったく違う人間だった。整然として、ゆるぎない。自然の音律が整った人間だった。

 この人といっしょにいれば、自分もすこしはまともな人間になれるかもしれない。そう思った。

「私は人を好きになるのがどういうことかわからないの」

 自分の声が甘くかすれていた。子供の自分に戻っているようだった。

「あなたは私のことをわかってくれると思ってた」

「僕が?」

 揶揄の響きが混じる。

「対独協力者のこの僕が?」

 偽悪的な自嘲がひびく。闇が深くなる。垣根の闇はさらに深い。

「なぜだろうね」

 後悔とも、倦怠ともつかない濁りが、声を低くくもらせていた。

「君は僕の弱さをはじめから知っていた。僕は――君だけが僕の弱さをわかっていると思っていた」

「弱さじゃないわ」

「僕の思い込みだ。僕は君のことがわからないし、君は僕のことがわからない」

 声はカミーユの言葉を無視してつづけた。

「僕は焼夷弾のスイッチを押すことができなかった。敵機が目前に迫っていたし、高射砲の弾道がどんどん近づいていた。僕は焼夷弾を落としてすぐに引き返さなければならなかった」

 声がうつろうように遠くなる。

「三本のオレンジの木が見えた」

 カミーユは空から見た風景を思い出していた。緑の布のような広大な草原、黒人の髪の毛のような森。白い月のむこうがわへつづく、青空。

「見慣れた場所だった。航路の目印だった。そこはひらけた草原で、羊飼いが羊を放しているんだ」

 草原に白い綿毛が見えた。カミーユは暗闇に目をこらして、広い草原を見ていた。

「敵機のサイレンがすぐ近くで響いた。同時に爆音がガラスを突き破った。僕は死ぬ。これでいいと思った」

 ジォンは淡々と話していた。カミーユは震える口元をおさえて、嗚咽の響きを殺した。

 メッサーシュミットの尾を引く不吉なサイレンが耳を聾した。忌まわしい空襲の合図。扉を背に、いつ爆弾が落ちるかと息をひそめていたあの日の記憶が、よみがえった。

 耳を押しつぶす爆音と、すさまじい砂埃。割れたガラスの破片が床に降り注ぐ。子供の悲鳴に、ガタガタと歯がふるえた。家を出ることはできない。動けば自分が殺される。

 ガラスの落ちた窓から、幾重にも光の帯が差し込んでいた。埃が光をうけて、キラキラと輝く。小さなヤコブの梯子は、爆撃の恐怖を忘れるほど美しかった。

 いつもと変わらない、やわらかな午後の光が、割れたガラスを輝かせていた。

 あのとき自分は、天使が迎えにきたのかもしれない、と。

 爆音が遠くなったのは、神様の御加護だと思わなかったか――?

「僕は死ななかった。ドイツ軍の捕虜になって、拷問にかけられた」

 ジォンは静かにみずからの罪を語った。

 カミーユはジォンの言葉を止めることができなかった。拷問で手と足の指を潰されたレジスタンスの闘士、戦争による神経症で震えが止まらない元兵士を目のあたりにしたカミーユは、ジォンが奇跡に近い確率で生き残ったことを知っていた。

 何人の人間が、戦争に行ったまま、あるいは密告を受けてドイツ兵に連れ去られたまま戻らなかったことだろう。

「僕はレジスタンスの細胞の幹部の名前と、軍の機密を吐いた。僕はそのまま殺されるか強制収容所に送られるはずだった。皆と同じように」

「そうなればよかったと思った?」

 答えは返らない。愚かなことを聞いたと思った。

「ドイツ野郎のひとりが上官に密告したんだ。こいつは俺と同郷の人間だ。ドイツ語がわかるんだ、と――その男はドイツ人ではなかった。ケイゼルベールの人間だった。フランスとドイツの国境沿いの町だ。彼はアルザスが占領されてから、ドイツ軍に徴兵されていた。でも、同国人と戦いたくはなかった。だから僕を助けてくれた」

 ドイツ語の通訳として、ジォンは生き残った。戦後ジォンは政府に戦犯として逮捕された。

 カミーユの一族から対独協力者が出たことはなかった。父と叔父はレジスタンスの闘士であり、母もその活動に参加していた。その汚名を、かれらはジォンを切り捨てることで解決した。小母のセリーヌはジォンと離婚し、フランスの北のドーヴィルへ行った。その後のジォンの行方は、だれも知らなかった。

「僕は敵を殺せなかった。だから、味方を大勢殺してしまった――」

 街の掲示板には、処刑された銃殺者の名簿がドイツ軍によって貼りだされていた。カミーユは、そのまえをずっと避けるようにして歩いていた。

 陰湿な地獄。ドイツ軍へ協力して豊かな生活を送る協力者と、レジスタンスの闘士が、たえず肚を探り合っていた。そのなかで、敵を殺さずに死んでいったジォンを思って、カミーユはいつも空を見上げていた。ドイツ軍の輸送機や戦闘機が横行する空のはるか高いところを、ジォンは飛んでいるのだと思っていた。

 ジォンが銃殺者の通訳をしていたことなど、想像もつかなかった。

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