ひなかご

ひなかご 1

 左手が道に落ちていた。宙にむかってわずかに指を曲げていた。

 血がすりへった道路の敷石に染みついていた。

 道にむかってひらかれた扉から、生きている影のように血が滴っていた。

 古い煉瓦のアーケードをはさんだ街路に腐臭が満ちていた。

 左手をひろう。

 鉄のようにひんやりとしている。

 扉をくぐると、背中に無数の銃弾のあとを刻んだ男の死体が横たわっていた。

 床に不自然な格好で投げだされた腕をみて、すぐに左手の持ち主がわかった。

 死体の背中に左手を置いた。その中指に、金の指輪が嵌まっていることに気づいた。

 金の台座に、丸いトルコ石が嵌まっている。

 死体の背中に、空が凝っているようだった。

 うつむいて、胸のまえで十字を切った。顔をあげると、死体のかたわらに十歳くらいの少年がたっていた。 

 オレンジ色のちぢれた髪と、疑うようにほそめられた目。少年は身をかがめると、すばやく死体の手から金の指輪を抜きとった。そうして、自分のわきをすりぬけて外へ走りさってしまった。

 あれは、身内の形見なのだろうか。少年の頬はひどくそげていて、垢でよごれていた。

 かれが指輪を盗んだ、という思いは、そのときはまったく浮かばなかった。



 瞼に痛みをおぼえて目がさめた。

 カミーユはベッドから起きあがると、涙が頬を濡らしていることに気づいた。

 涙を拭おうとして、左手の指輪で瞼を切ってしまったらしい。熱をもった痛みが、左の目にはりついている。

 薬指に嵌まっているのは、瞳の色とおなじサファイアの指輪である。婚約者のクロードから貰ったものだ。カミーユは額でもつれる栗色の長い髪をかきあげた。

 当時は泣くことができなかったことを、いまになって思い出す。

 少女時代の五年間は、特別な時代だった。フランスはナチス・ドイツの占領下におかれ、南北で自由区と占領区に分断された。その二年後にはフランス全土が占領された。

 規制のゆるい南フランスでもドイツ軍の支配からはまぬがれなかった。傀儡政権が置かれ、北と南の往来はドイツ軍によって禁じられていた。強要された静けさの底で、フランスのレジスタンスとドイツ軍との戦いが起こっていた。レジスタンスは多数の地下組織から成りたち、多くの市民が活動に秘密裏に参加していた。

 左手のない死体をみたのは、戦争がおわる間近のことだった。死体の奇妙な腕の曲がりかたから考えると、かれはひどく虐待されてから死んだようであった。今そのことを思いだすと胸がつかえるような苦しさを感じるが、当時の自分はそれが知りあいでなくてよかったと思っただけだった。

 身体にすこし疲れがのこっている。リヨンから故郷のユゼスへ帰ってきたのは昨日の夕方だった。慣れない長旅に、腰が痛くなった。

 クロードから逃げたくなったのはなぜだろう。カミーユは青い石の指輪をみおろして考えた。

 弁護士とタイプライターの恋。クロードと出会ったのは、オペラ座の席上だった。音楽以外になんの接点もないクロードがどうして自分を気に入ったのだろう。

 友人たちはカミーユの幸運を喜んで、こうひやかした。

 私もアルルの女になりたかったわ、と。

 カミーユは鏡のまえに立った。

 ゆるく波を打つ髪にふちどられた、青白い顔の女が自分を見返している。背の高い、きゃしゃな体つき。アーモンドのかたちの目と、高い鼻梁の線。うすい唇。表情のない顔は、色をつけわすれた磁器の人形のようだった。褪せた色のなかで、水を映したような虹彩の青色だけが冴えた光を放っている。

 母のエマは南フランスのアルルの出だった。アルルは美女の産地として有名だという。そして、アルルの女にはもうひとつの異名がある。

 運命の女。男の人生を狂わせる、魔性の女。

 アルルの女の血を引き写したようなカミーユの風貌に、クロードは魅かれたのだという。月のように早くおとろえる自分の若さを、かれは讚えるのか。カミーユは首をふった。私は自信がないだけなのだ。三十二歳と二十二歳。世間的に成功した彼に、女性とのつきあいも決してすくなくなかったであろう彼との経験の差に、気圧されているだけなのだ。

 カミーユは髪を解いた。胸をおおう栗色の髪も、クロードが愛したものだ。クロードを愛している自分と、距離を取っている自分がいる。

 故郷に急に帰りたくなったのは、自分の人生が定まってしまうことに対する恐怖のせいかもしれない。

 けっして帰りたくなかった故郷なのに。カミーユは苦笑した。

 故郷のユゼスが嫌いなのではない。昔のおもかげを残した美しい街並みを思い出す。ここにいたころの自分は幸せだった。戦争が起こるまでは、カミーユには子供っぽい、幸せな悩みしかなかった。

 妹のロザリー。ふたりのお婆さん。いとこのマルセル。たくさんの友人と隣人が死んでいった。またはフランス全土に散り散りになった。

 失ったものがあまりにも多すぎた。

 カミーユは身支度をととのえて部屋を出た。

 家族の話し声がきこえる居間の扉のまえで、カミーユはためらうように立ち止まった。

 結婚前の娘が沈んだ顔をみせるわけにはいかない。

 扉をあける。朝食のいいかおりがカミーユの身体をつつむ。

 居間にはだれもいなかった。テラスへ続く窓から、家族の声が洩れてくる。

「おはよう、カミーユ」

 テラスへでると、テラスのテーブルで家族は朝食を囲んでいた。朝の挨拶をすると、父のアランは眩しげに娘をみてほほえんだ。

「ひさしぶりに家族がそろったな」

 父は叔父のピエールとともに葡萄畑をつくっている。金髪に琥珀色の瞳が、陽に焼けた筋肉質の肌によく映えている。

「一年以上会っていないものね。まったく、コレットおばさんの葬式以来、一度も帰ってこなかったんだから。この子は」

 頬にキスをしながら、母のエマが文句をいった。自分の未来を予測させるように母はカミーユとよく似ていたが、母の目の色は深い緑だった。栗色の髪はきれいに染められ、結われていたが、首筋のしわに母の老いを感じる。

「クロードを紹介したときに帰ったでしょ」

「あら、そうだった?」

 エマはとぼけた表情で聞きかえした。子供のころの母は家に同居していたお婆さんの言いなりになっていて、カミーユはいつも母がかわいそうだと思っていたが、大人になってからいちばん曲者だったのはこの母ではなかったかと思っている。

「せめてノエルのときには帰ってきなさい」

「そうするわ」

 カミーユは確約できない約束をした。けっしてユゼスの郊外にあるこの家が嫌いなわけではないのだが、カミーユは自分の実家が苦手だった。見慣れたこの美しい庭は、リヨンの都市よりもはるかに鮮やかで、花のいろや陽光を透かす緑がうつくしい。しかし、昔はこの光がもっと明るかったような気がしてならないのだ。

「食事にしましょう。姉さん」

 二つ年下の妹アンリエットが椅子をすすめた。年頃になってから、ますます美しさが増した。焦茶色の影をおびた金髪に、勝気そうな灰色の瞳。アンリエットの双子の妹ロザリーが生きていたら、おなじように美しい娘になっていただろうと思って、カミーユはわずかに顔を曇らせた。

 ロザリーは二年まえ、十五才でこの世を去った。交通事故に巻き込まれ、橋から落ちたのだ。

 この食卓に揃っていないのはロザリーだけではない。叔父の長男のマルセルは、戦争の爆撃に巻きこまれて死んだ。カミーユと同い年だった。そして、ライサとコレット、カミーユのふたりの祖母は、五年前に病気で亡くなった。戦争が終わってすぐのことだった。

 この家にかえると、いなくなった人々のことを思いだしてしまう。子供のころの思いでが庭のあちこちに転がっているような気がして、カミーユは懐かしさとともに胸がつまるような感慨を覚えるのだ。

 庭のほうへ目をやると、レモンやつげの木のむこうに“コレットおばさんの花壇”がのぞいていた。主人がいなくなっても家人がその花壇を受けついでいるらしい。

 花屋から余った種をもらってそのまま蒔いたような、雑然とした花壇である。赤いデルフィニウム・白と青紫のアイリス・ラヴェンダー・フランスギクなどが、せまい花壇にひしめいている。どうして同じ花どうしでまとめて蒔かないのか、ときくと、『畑じゃあるまいし、いちいち並べて蒔くなんて面倒なことしていられないよ』というコレットの返事がかえってきた。

「クロードは来なかったんだね」

 父に聞かれて、カミーユは胸の動悸をおしころした。

「仕事が忙しくて、どうしてもぬけられなかったの」

 カミーユは嘘をついた。婚約者のクロードには、自分がしばらく実家へ帰ることを告げていなかった。荷物をまとめるという名目でここへ帰ってきたのだが、ほんとうの理由はほかにあった。

 スープを口にしていた母が、思いだしたように娘にいった。

「いまシリルがニームへ来ているわ」

「シリル?」

「セリーヌの一人息子だよ、あの、ドーヴィルで宿屋をやっている」

 カミーユはペルノーのグラスを傾けたまま動作をとめた。十年以上会ったことがない従兄弟の名前を反芻する。

 シリル。母の妹の息子。もう一方の片親の名前は、この家では二度と告げられることがない。

 ジォンはカミーユのはじめての大人の友達だった。

 シリルの父ジォンは、民間の航空会社の操縦士をしていた。そうして、第二次世界大戦のときに、かれの乗った飛行機がドイツ軍の戦闘機に撃墜された。

 のちにジォンの死にまつわる醜聞がもちあがり、かれの名前はこの家から永遠に抹殺されてしまった。

「カミーユが帰ってくることは知らせてあるから、もしかしたら家へ来るかもしれないよ」

 カミーユは母の声をひとごとのように聞いていた。シリルに会いたいとは思わなかった。忘れかけている記憶を呼び覚ますのが怖かった。カミーユが指輪に目をおとすと、アンリエットが冷やかすようにカミーユへ声をかけた。

「恋人のことを思いだしてるの?」

 言葉につまる。アンリエットはそれをカミーユの照れだと思ったらしい。好意的な笑みをうかべてカミーユにせまった。

「十歳も年上の、それも弁護士なんて、いったいどこで出会ったの? なれそめを教えて」

 家族たちは微笑しながらカミーユの恋人の話を待っている。ペルノーのほのかな甘味が口にのこるのを感じながら、カミーユは仕方なく話しはじめた。

「最初に会ったのは……」

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