ビューティフルデイズ

山口ユリカ

第1話

 真千子まちこがニタリ、と口元を緩ませる。「もう、後戻りできないからね」と、言った。

 私は心臓をバクバクさせながら、涙を零してしまいそうになりながら、それでも、逃げ出そうとする脚をぴったりと床に張り付けて、コクリ、と頷いた。

「大丈夫。すぐに終らせてあげるから。痛いのなんて感じる間もないよ」

 ふふ、という甘い声が私の耳から侵入して、ゾクリ、と背中を這う悪寒が走った。やんわりとサクラ色に染めあげた頬っぺたをまあるく持ち上げて、ぷるぷるにコーティングした唇で私を慰める真千子。

 彼女が手に持つ鋭利なものの刃先が、私に触れる寸前だった。私は耐えきれず目を瞑った。襲う痛みを想像して息を呑む。

 心臓は体の中から抜け出そうと必死に動いていて、それでも、金縛りに掛けられたみたいに、私は自分を抑制する。

 ああ、もう本当、泣きたくなる。というかちょっと泣いていた。自分から望んだことなのに、それが目の前に迫ったとき、私はもの凄く後悔していた。

「じゃあ、刺すよ?」と、真千子が言う。

 固く瞑った目蓋まぶたの裏で真千子が嬉しそうに笑うのを想像してイライラする。

「もうっ、いちいち報告しなくていいから早くしてよっ!」

 早くこの恐怖から解放してほしいという気持ちで叫んだ。はいはい、と真千子が白けて言う。

 10、9、8、7……と、カウントダウンし始めた。

 刺すときにカウントダウンをしてほしいと言ったのは私だ。けれど、それが10からなんて長すぎる。

 これも彼女の企みか。迫る1秒が、私をどんどん窮地へと追い詰める。

 頭の中がぐちゃぐちゃに混乱する。身体からだの芯を突き刺したような固い緊張が、私をおかしくしそうだ。

 まったく、真千子は性格が悪いんだから。とか、そんなことを考える。

「――3、2、いちっ」

 え、ちょっと! 最後の3、2、1、が早いって!

 パンっ、という軽く弾いたような音が耳元で響く。その衝撃に心の中で叫んだ言葉をも呑み込んだ。

 イモムシみたいに腰を曲げて、ダンゴ虫みたいに丸まりながら、床に転がった。汗ばんだ体にヒンヤリとした床の感触が染みてくる。

 ハア、ハア、と声に出して、ちゃんと息をしているのを確認した。襲う恐怖からようやく解放されたというのに、まるで生きた心地がしなかった。

 意識が朦朧もうろうとした私を見下す真千子が、ケラケラと声をあげて笑い始めた。大爆笑。おのれ、遂に本性を現したか。そんな彼女に若干の恨みを覚えつつ、私はこっそり安堵した。

 なんだ、思ってたよりも痛くないじゃない、と、ちらりと思った。



「――明日香あすか、いいじゃん。似合ってるよっ」

 真千子がポンっと私の肩を叩く。私は大げさに体を揺らして、もう、と軽く息を吐いた。

 手鏡を持ち直して、改めてそれを確かめる。私の耳たぶには数分前までなかったエメラルドの誕生石がピカピカと光っていた。

 はあ、と思わず感嘆の息が漏れた。

 私の17歳の幕開けだ。

「これで明日香もまた一歩、大人に近づきましたね」と、言う真千子の耳たぶには、ガーネットの誕生石が輝いている。

「えっと、あったあった。はい、お誕生日おめでとう」

 受け取って、綺麗にパウダーピンクのリボンが巻かれた包みを開けると、中には女の子の可愛さを詰め込んだようなクリスタルの小瓶が入っていた。その箱のラベルには、私がこれまで手にしたことのない海外有名ブランドの名前が書かれてある。

「ちょっと、ヤバい。泣きそうかも……」私が、ぐすん、と鼻をすすってみせると、

「泣け、泣けっ」と、真千子が肘で脇の辺りを突いてくる。

 いつもならそこで、なんてね、とか言って恥ずかしさを誤魔化すところだけど、私は現在、本当に、猛烈に心の底から感激していて、その勢いのままに真千子に抱きついた。

 真千子のふんありと緩めに巻かれた髪の毛からは、やわらかなバニラの香りがする。呼吸をすると、その甘い香りがじんわり脳に溶けてきて、あー、今、凄く幸せだなって思ったりする。



「――それじゃあ、明日香さん、17歳の豊富をどうぞ」生クリームの付いたフォークを私に向けた真千子が言う。

 私はフォークをくわえたまま、んー、と少し考えてから口を開いた。

「とりあえずは、今年、赤点を取らないように頑張る」

 と言いながら、テスト期間中にも関わらず、部屋で炭酸水を片手にケーキを頬張っているナマケモノの私である。まあでも、今日は誕生日だし、頑張るのは明日からにしよう。

「それと?」

「それと、テニス! 高総体では良い成績残す!」

 これは絶対目標だ。昨年はレギュラーにすら入れなかったけれど、今年はなんとか入れそうだし、結果を出して勢いをつけたい。

「それから?」

「それから? それから、えっと、出来たらバイトしてお金も欲しい。夏のフェスとか行ってみたいし」

「ふーん、あとは?」

「あとは、あとは……ディズニーランドとか、USJ……とか?」

「それでそれで」

「それで、それで……って、いつまでこのやりとり続くの?」

 ぐびっと炭酸水を含んだ。しゅわしゅわと舌の上で弾ける感触と、仄かなレモンの香りが甘ったるかった口の中を爽やかにする。

 ちらり、と窺うと澄ました真千子の瞳が見定めるように、じっと私の顔を覗き込んでいた。それから、じれったくたっぷり溜めこんで、

広瀬ひろせくんは?」と、言った。

 その突然の衝撃に、含んでいた炭酸水が良からぬところに流れてしまった。生命の危機を感じた私は、ゴホッ、ゴホッ、と咳を込む。

「……な、んで」

 涙目になって、喉がヒリヒリするのをこらえながら必死で声を出した。

「やっぱりねえ」

 ふふん、と鼻を鳴らす真千子。してやったり、というなんとも小憎たらしい顔をしている。そんな悪戯な表情でさえ、真千子はこんなに可愛いのだからズルいと思う。

 ムッとして真千子を睨むと、その後ろに立てられたスタンドミラーには、不細工に口を曲げた私が映っていた。

 真千子に染めてもらった髪は今、肩よりも長くなっていて、その陽に焼かれた毛先がオレンジに抜けて痛んでいる。健康的な肌の色は、真千子と比べたらまるでオセロだ。

「……広瀬くんって、なんでそう思うの?」

「明日香、バレバレ過ぎだから。広瀬くんのこと話すとき声変わるし、近くに居たらリップ塗り直すし、前髪余計に触るし、彼女いないの分かったらあからさまに喜んでたし。それに、広瀬くんがプレーしてるときにだけ真顔で固まって見てたよ。あと――」

「あの、もう、やめて?」

 恥ずかしすぎて、ベランダから両手を広げてダイブしたくなる。私に翼があれば、とりあえず山を2つか、3つは越えたいところだ。

「明日香もさ、ちょっと頑張ってみたら?」

「無理。そんなに話したことないし、勝機がないもん」

「大丈夫だって。案外うまくいくもんよ」

 はいはい、と聞き流す。口の中で角切りのイチゴを転がしながら、彼氏持ちは余裕ですな、と心で皮肉った。

 そりゃね、海に張れる定置網くらいキャパの広いあなたがいけば、間違いなく仕留められるっていう自信もあるでしょうけど、私の男性に対するキャパは、金魚すくい用の網サイズで、小さいうえに破れやすいんだから。慎重にもなりますよ。

「夏休みまでにさ、明日香が彼氏作ってくれたら、Wデートとかいっぱいできるし、ね?」

 真千子の顔が目の前に迫る。大きな瞳を瞬かせる度、天に向かって反りあがったまつ毛がバタバタと風を起こすくらいの勢いだ。

「そりゃ私だって、彼氏、欲しいよ……」

 男の人と付き合ったことなんかないし、真千子の話を聴くたびに羨ましいって思う。

「けど、上手くいくって保証もないのに、さ」

 真千子が頭を落として白々しく息を吐いた。それから再び思い立ったように顔をあげて、

「明日香っ」

 私はぎゅっと両手を掴まれた。

「私たち、もう17歳で高校2年生だよ?」

 ドキン、とする。頭に雷が落ちたみたいに、私は身体からだを強張らせた。

 幼い頃からなんとなく17歳というものに憧れていた。漫画や映画、リビングにある液晶テレビ――模られた枠の中の世界で生きる彼らはいつも輝いていた。きっと、私も17歳になったらこういうキラキラした日常を過ごすのだと信じて疑わなかった。

 クラスにはアイドル級のイケメンがいて、陰では“王子”なんて呼ばれている。その男性ひとはスポーツ万能で、成績はいつもトップクラス。けれど、そんな彼が思いを寄せたのは学校で特別目立ってもいないごくごく普通の女の子――そう、私みたいな、なんて。

 そんな華やかで輝かしい高校生活を何度も妄想しては、口元をニンマリさせていた。

 けれど、私の生きる世界はなかなか上手く回らなかった。クラスにアイドル級のイケメンはいないし、私はスポーツもイマイチな上に成績もよろしくない。普通の女子高生どころか並以下だ。

 私の隣にはいつも真千子がいて、現在の私は、きっと彼女の引き立て役になっている。


 真千子が周りから可愛いと言われ始めたのは、高校に入学してしばらくした頃だった。それまでは一緒に並の女子中学生をやっていたのだ。

 先生に怒られないように、スカートは膝丈(注意されないギリギリ)にして、髪は真っ黒、夏でも別に日焼け止めなんか塗らなかった。

 それなのに、高校に入った途端、真千子は日に日に可愛くなった。校則を余裕で破ったスカート丈から白い脚を覗かせて、髪色はベージュになった。いつも常備しているポーチにはパンパンに化粧品が詰められている。部活には入っていなくて、放課後は彼氏とラブラブだ。

 そんな真千子を見習って私もこれまでなんやかんやと頑張ってみたのだけれど、ことごとく失敗に終わってきた。

 染めた髪は陽に焼けて潤いがないし、日々、褐色化する肌に化粧は無意味だ。あのふあふあに巻かれた髪に憧れて数か月前にパーマをあてたら、死にたいと思うくらい悲惨な有様だった(すぐに元に戻してもらった)。

 真千子が勧める服はどれも可愛いけれど、私が着たらお遊戯会になってしまう。

 じっと見つめている真千子の瞳。改めて見ると、やっぱり可愛いなあって思う。


 ――私たち、もう17歳で高校2年生だよ?


 真千子の後ろに置かれたスタンドミラー。窓から差し込むレモン色の陽ざしを受けて、私の耳に付いた5月の誕生石がビックリするくらい綺麗に輝いていた。

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