第10話


 窓の外は嵐になった。

 風がうなる。雨が降りはじめ、木々の葉を激しく打つ音がする。

 薬湯の効果は現れず、ミラは眠る事もできず、一人恐ろしい夜を耐えなければならないのだと知った。

 時々窓の外に走る閃光がかすかにあたりを照らし出し、雷鳴が不安を掻き立てる。

 目を閉じれば、あのウーレンの亡霊が濡れた姿でベッド脇に立つ。そのたびに目を開け、あたりをきょろきょろ見回した。

 夢なのだ。考えすぎだ。

 ミラは再び目を閉じる。そして同じことを繰り返すばかりだった。


 何度目かに目を開けたとき、闇の中に影が見えた。

 闇に慣れた目に、それは白っぽく浮かび上がって見える。

 一瞬、ミラは心臓が止まるほど驚いた。が、その影は、ミラの様子を見つめているシルヴァーンだと気がついた。

 リューマ族のミラよりも、彼は夜目が利くらしい。たしかに出て行ったはずなのに、いったい何時からそこにいて、ミラを見つめていたのだろう?

 冷たい青い目は、ミラが恐怖に震える様子を、ただ黙って見ていたのだ。声もかけず、ふれもせず、そこから一歩も動きもせずに。

 ミラに気がつかれたと知ると、彼は歩み寄ってきた。もうすでに見捨てられたのだと感じていたミラは、何も言葉が出ず、ただ彼を見つめていた。

 再び小さな蝋燭の一本だけに火が灯る。

 彼はベッドの前に膝をついた。ミラの目線よりもやや低い位置で、彼はミラの手を取った。

「あなたは……望むのか?」


 ――何を?


 ミラはすぐには答えられなかった。

 思えば、ミラの意志を確認することなど、今まで彼にはなかったことだ。すべて心を先読みし、はぐらかしてきたではないか?

「あなたは、私を望むのか?」

 再び彼が聞いてくる。ミラは別の震えをおぼえた。それは、とても恐ろしい質問に思えたからだった。

 そして……彼は、その答えを知っている。知っているから、ここにきたのだ。

 知っていて、ミラの心を聞いてくる。

「望みます」

 ミラは震える声で、しかし、はっきりと答えた。

 

 雨音は止んでいた。

 しかし、風は相変わらずうなっていた。

 明日には、木の葉の多くが落ち葉と化していることだろう。そのような、まったく別のことがミラの脳裏によぎった。体の震えが止まらない。

 シルヴァーンは身を起こすと、ベッドの脇に腰を下ろした。

 震える頬に手がかかったとき、ミラは耐え切れず目をつぶった。頬から肩に手が移り、抱きしめられた瞬間に、胸に押し詰まっていた息がこぼれた。

 初めて味わう唇の感触は甘かった。はじめは軽く、次には熱く、回数を重ねるごとに熱を増し、体の芯をしびれさせた。

 陶酔していくのは先ほどの薬湯のせいなのか、口づけのせいなのか、ミラにはわからない。

 二人は絡み合うようにして、ベッドの中に体を横たえた。

 久しぶりにさらされる胸に、一角獣に突き刺された恐ろしい傷がある。おそらく、普通の男には目を背けたくなるような傷だろう。

 不安な気持ちになって、一瞬ミラは正気に返り、目をあけた。確かにシルヴァーンは、痛々しそうにその傷を見つめていた。しかし、彼はゆっくりとその胸の中に顔をうずめた。

 冷たいサークレットの感触と、温かな唇の感触が、ミラを再び陶酔の海へと引き込んでいった。胸の傷に触れられたとたん、初めてミラは小さなうめき声をあげた。


 ミラは森の上にいた――いるような感覚をおぼえていた。

 薄墨を撒き散らしたような空の下、森の上空に横たわっているのだ。この奇妙な感覚にミラは何の不思議も感じず、そこにはじめから自分があったと思いはじめていた。

 突然、風が吹いた。ミラは肉の痛みを感じて身をよじった。

 すると一気に木の梢が、枝が、遠のいていくのだった。みるみる空が小さくなってゆく。

 不安におののいて悲鳴をあげた。遠のいているのは木ではない。自分自身が突き落とされているのだ。

 森の木の、梢の下、さらに枝、いや、根の下の地面をも突き抜けて、さらに深い深い地の底までも、底なしの闇に落ちてゆく。

 あわてて手を差し出す。何かつかめるものはないかと、ミラの手は宙をさ迷った。

 ミラは目を見開いた。

 宙をさ迷う指先の前に、波打つ銀の髪が踊っていた。

 自分の胸に突き刺さったものが、じわりと痛みを引き起こした。体の芯を貫かれた瞬間までも、その美しい銀の髪を見つめていた。

 しびれる手を伸ばし、その髪に触れてみる。思いのほか柔らかく感じたのは、柔らかいからなのか、感覚が麻痺してしまったからなのかはわからない。


 まるで、死んでゆく瞬間に似ている……。


 恐ろしいほどの既視感がミラを襲っていた。

 ミラは、救いを求めるようにして、何度も何度も銀の髪を指に絡ませた。

 助けを求めるようにして、何度も何度も彼の名を叫んだ。

 そのたびに、命を繋ぎとめるような接吻が全身にふりそそがれ、ミラの精神を肉体へと呼び戻した。

 風は厳しく、森全体が唸るような声をあげる。悲鳴にも似た、張り裂けんばかりの声がする。その真っ只中に、ミラは投げ出されていた。


 風が止み、森の叫びが消える頃――。

 ミラの瞳も静かに閉じられた。

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