春うららかに・2


 真っ青な空の下、野の花が咲き乱れる街道を、馬車は快調に走っていた。

 くっきりとした風景を霞ませるものは、馬車の土煙のみ。それも、穏やかな風が運びさってゆく。

 快適な旅……と思えたが、ただひとつ、時々場に似合わないだみ声が響く。リューマの若者が、馬を御しながら鼻歌を歌うのだ。

「ちょっと、カイト! やめなさいよ、そのばばっちい声で歌うのは!」

 御者台の隣に座っていたマリが、どつきながら注意した。

「うるっせーな、くそガキ!」

「なんですってー! ガキですってえー! あたし、もう大人だもん! だいたい!」

 マリは、いきなり身を乗り出すと、カイトの両頬を思いっきりつねって引っ張った。

「だいたい、誰があんたのおむつを変えたと思ってんのよ! ちょっと成長が早いからっていっても、あんたがあたしの弟であることを忘れないでね!」

「あ、てて、あてて! わ、わかったよ、ねーちゃん。う、馬が、おい! やめろよ! あぶねーだろ、うわ! お姉様! 勘弁」

 ムテの容姿の美しい少女であるマリ。リューマ族そのものの容姿である弟のカイト。

 成長度合いは逆転している。だが、やはりマリのほうが強いようだ。

 サリサとエリザは、異父姉弟である二人のやり取りに、くすくす笑っていた。



 馬車がカシュの【乗合馬車屋】の前についたのは、陽も沈みかけた夕方である。

 カイトは、長旅の疲れも見せず、テキパキと馬を放した。が、引っ越し作業で疲れたマリは、御者台で死んだように眠っていた。

 カイトが、やれやれ……と抱き上げる場面は、まるで兄と妹のようだった。いや、親子というべきか?

「うーん、オヤジ……。あたし、もう子供じゃないんだからね……」

 カイトのたくましい胸に抱かれて、マリはむにゃむにゃと寝言を言った。幼い日々のことを思い出しているに違いない。

「ねーちゃん、ガキだからよぉ」

 カイトは苦笑いして、ひょいと姉を抱き上げたまま、サリサとエリザを案内した。

 入り口で、リリィがニコニコ微笑みながら、二人を出迎えた。

「エリザ様、サリサ様、お待ちしておりました。長旅でお疲れでしょう? どうぞ」

 まったく変わらないリリィの姿。時間が止まっている。

 リューマ族の感覚で言えば、マリは十八歳くらいで、リリィは二十代半ばに見え、若いはずのカイトが一番年長に見える。それほどまでに、ムテとリューマ族の寿命は異なる。


 この【カシュの店】の実質的な主人は、今やリリィだった。

 多くのリューマ族の崇拝を集めつつ、忙しい宿を切り盛りしていた。馬車のほうの営業はカイトが行っていたが、まだまだ経験が浅いので、やはりリリィが指導していた。マリは、宿の仕事を手伝いつつ、今はリューマ族の子供達のために、小さな学校を開き、先生として働いていた。

 もう二度と、この宿にはこれないだろう……と、エリザが思った日から、二十年以上もの歳月が過ぎていた。

 カシュの店は、当時の面影を残しつつも、リリィの趣味が加わって、品のいい宿になっていた。それに、あの時、エリザに冷たい顔を向けた人たちは、もう代替わりしてほとんどいなかった。

 まずはお部屋に……というリリィの言葉に、エリザは、やや言いよどみながらも、お願いした。

「あの……それよりも、カシュさんにご挨拶したいのですが……できますか?」

 エリザの迷いを振り切るような微笑みとともに、リリィは即答した。

「もちろんですよ。あの人も、お二人に会いたがっています。ただ……」

 リリィは、一度言葉を切った。

「エリザ様が送ってくれた薬草のおかげで、調子はとてもいいんですよ。でも……」

 サリサが、そっとリリィの腕に手を触れた。

「大丈夫です。私もエリザも、わかっていますから」



 おそらく朝ならば明るい日差しが差し込むだろう部屋。だが、夕暮れ時の今は、どこか薄暗く、陰気な感じがする。

 その部屋のベッドに、カシュは横たわっていた。

 リリィが枕をいくつか重ね、かなり小さくなってしまったカシュを助け起こした。

「ああ、よくきてくれたな、会いたかった」

 カシュは、深い皺を顔に作って、笑顔を見せた。

 浅黒かった顔は、どこか土色っぽく、しかも、たくさんのシミができていた。赤茶の髪は、真っ白になっていた。

「髪だけはムテ人になっちまったがな、年齢はそうはいかねぇ」

「まぁ、カシュったら」

 おどけて見せたカシュに、笑ったのはリリィだけだった。

 サリサもエリザも、口だけ引き攣った笑みを浮かべたが、やはり心から笑えなかった。

 銀のムテ人は、老いを知らない種族だ。祈り所の日々がなければ、リューマ族のやつれた醜い姿に、エリザは悲鳴をあげたかも知れない。

 カシュは、すでに七十歳を越えた。

 しかも、若い頃の無理が祟っていた。暴飲暴食、素行の悪さ、命に関わるような大けがの連続、過激な労働……。年齢を重ねて、悪いところが吹き出たのである。

 寝たきりの生活になって、既に数年が経っている。

 エリザはベッドに歩み寄り、カシュのしわくちゃになった手を握りしめた。思わず泣き出しそうになったが、ぐっとこらえた。

 サリサのほうは、エリザよりもゆとりがあった。

「思ったよりも元気そうで安心しました。ここに滞在させてもらう間、エリザの癒しを受けてください。遠慮なく、調子の悪いところを言ってくださいね」

 カシュは、がはは……と笑った。

「ありがとな、エリザさん。ま、若返らせてくれ、なんて無理はいわねぇから、よろしく頼む」


 あれだけの肉体を誇った人が、老いさらばえてしまう。

 現実は過酷だ。


 噂に聞いて気になっていたものの、時々訪ねてくるマリやカイトの口から、カシュの話は出なかった。

 だから、エリザは逆に聞けないでいた。よほど悪いのだと思い……。

 椎の村の癒しの巫女であり、エリザの友人でもあるアリアが、詳しい状況を教えてくれたので、エリザは薬草を調合してリリィに送っていた。

 だが、カシュの衰えは、エリザの想像以上だった。



 夕食は楽しいものだった。

 まるで、二人の結婚の宴のような雰囲気だった。

 リリィの料理は、お菓子作り同様に素晴しい。リューマ族の人たちが、品がいいとはいえないが、面白い芸を見せてくれたりして、場を盛り上げてくれた。

 マリとカイトは、相変わらず二人で漫才のような会話を繰り広げていた。

 すべての話題で常にマリが勝っていたが、椎の村の恩師の話題が出ると、マリの口が止まってしまった。どうやら、マリは恋をしているらしい。カイトが突っ込むと、口のかわりに手が回転し、止まらなくなった。

 その横で、リリィも笑っていた。明るく幸せそうな笑顔である。

 エリザも笑っていたが、同時に複雑な気分になっていた。

 愛する人が、あれだけ衰えてしまって、日々、笑顔で過ごせることが、奇妙に思えて仕方がない。つい、自分に置き換えると、苦しくてたまらなくなった。


 夜になり、サリサと二人きりになると、耐えに耐えていた涙がこぼれてしまった。

 サリサがそっと抱き寄せてくれる。

「大丈夫ですか? もしも無理ならば、僕が見るけれど」

 それを聞いて、エリザは慌てた。サリサに癒しをさせるなんて、とんでもないことだ。

「いいえ、今回のことは私がすると言い出したことですもの! 私がする」

「……でも」

 エリザは涙を拭いた。

 カシュとエリザの仲は、けしていいものではなかった。お互い、どこかにぎこちなさを残したもので、その結果、マリやリリィとのつきあいも疎遠になったこともある。サリサも、その状況を察していた。

「私、確かにカシュさんを苦手にしていたの。ムテと違う人を、何の抵抗もなく好きになるのは難しいわ。カシュさんは、あまりにも私と違う生き方をしてきているし……」

 その違いをわきまえておつきあいするには、エリザはあまりに自分の感情に素直だった。

 泥棒・強盗・強姦・傷害……金のためなら何でもする冷酷な仕打ち。

 おそらく、より心を近づけたら、カシュが若い頃に犯した非人道的な行為を、自分の行為のように感じてしまうだろう。

「あの人の気を感じて、それと同化するには、ものすごい抵抗があるの。それは、認める。私、きっと差別していると思う」

「エリザ、その感覚のまま、相手を癒すのは無理ですよ。水と油のようにはじきあったら……」

 癒しの業は、医学とは違う。

 魔の力によって、病を癒す業であり、ムテ特有のものだ。相手に気が通わなければ、癒しを受け付けないものだ。

「でも、あの人の悪いところだけ見て、すべてを決めつけてしまうのは、私の悪いところでもあると思うの。そんな私が、私は嫌い」

 リューマ族は、ムテよりも早く成長し、早く老いて死ぬ。だから、もしかしたら、ムテ人よりもずっと変化することができるのかもしれない。

 リリィと出会った後のカシュは、やや下品でも、がはは……と笑っても、紳士だった。過去は、すっかり捨て去って、ばらばらだったリューマ族の仲間をひとつにまとめ上げ、財をなすだけの仕事をした。

 印象に囚われて変われないのは、エリザのほうなのだ。

「私、カシュさんにお詫びがしたいの。だから、私が癒したいの」

 サリサは、エリザの耳元に口づけしながら囁いた。

「すべてを分かち合えなくても、どこか分ちあえるところがあれば、きっとできますよ」

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