第5話

 双子のように似通った日が続いた。

 点呼、訓練、哨戒、就寝。点呼、訓練、哨戒、就寝。

 日は昇り、頂点を極めてから空を燃やして転がり落ち、釣り針型の月がはっきりとその輪郭を現す。兵士たちは着剣の状態でミニエ銃を肩に担い、銃剣の切っ先が星明かりを跳ね返し、その光は蛍のようにうろうろして見せた。トマス神父はナポリ人たちのグラッパを目当てにナポリ人の居住区をうろうろしていたが、ナポリ人たちに邪魔だと言わんばかりに蹴散らされて、会館に引っ込むしかなかった。トマス神父はタバチェンゴでの布教に限界を感じていた。ナポリ人たちはフランチェスコ会で育てられた捨て子たちで、半分近くがナポリ方言で捨て子を意味する「エスポジート」の性を名乗っていた。

 気に食わないことは他にもいくらでもある。まずピエーテルバルクには司教代理がいるが、これがなんと二十三歳の若僧だったから驚きだ。その司教代理がとても美しい顔立ちをしていたから、彼が司教代理になれたのは枢機卿に対するうんぬんかんぬんという破廉恥な噂をまき散らすものもいた。とにかく二十三歳の司教代理というのはカプチン会、イエズス会、フランチェスコ会の修道士たちのやる気を削いだ。そこにインディオたちへの布教活動の飽和状態が重なったため、無力感はさらに増していくのだった。

 トマス神父の憂鬱はまだ続く。フランソア・デ・ボア中尉がタバチェンゴで守備隊勤務を行ってから四週間が経とうとしていた。そして、後任はあの罰当たりな無神論者のレオナルデ・ベケ中尉なのだ。あのカエル野郎め。キリスト教をピンポイントに狙って攻撃して、トマス神父が行ったインディオたちへの布教実績を全てご破算にするつもりだ。そして、空っぽになった頭にあの極道者は社会主義を注ぎ込もうとしている。しかも、この無神論がナポリ人に飛び火した。何人かは社会主義にかぶれて、富をみなで分け合おうと叫んだが、彼らにはそもそも分け合う富自体が存在しないくせに。ちくしょう、よりによって、ベケ中尉とは。どうかヴィンセン・エラン中尉が来てくれないものだろうか。さすが由緒ある伯爵の出だけあって聖職者への敬意というものをきちんと覚えている。あのとき飲んだキアンティの芳香はまだ口のなかに残っている。

「頼むから」トマス神父は皮肉っぽく願った。「カエルはよしてくれ」

 イエズス会館の前でそんな願いを込めているとは露知らず、フランソアはジェスタス少尉を連れて、桟橋に泊まった小型の外輪汽船に近寄った。桟橋に降りたベケ中尉は敬礼し、フランソアとジェスタス少尉も敬礼で返した。そして、引継ぎを行うと、二隻の汽船に分譲して、フランソアたちはタバチェンゴを出発した。沼に囲まれた小さな村は曲がり角に消えていき、船は一路セント・アリシアを目指した。

 ジェスタス少尉はセント・アリシアに足を踏み出したわけだが、ガスコーニュの故郷からパリに足を踏み出したダルタニアンだってここまで感動はできなかっただろう。ピラニアの塩焼きを売る屋台、深夜になると売春宿になるカフェ、町で最も大きいのは当然閲兵広場であり、そこに面して、二つの鐘楼がある聖堂が立ち、他にも正面を柱廊にして、歩行者に過ごしやすい日掛けを用意してくれる親切な建物や葡萄棚をつくる粋な料理屋が立ち並び、そこを出入りする人間を見ているだけでも楽しくて仕方がなかった。真っ二つに切った牛の半分を背負って旅籠の調理場へ持っていく肉屋、軽く腹ごしらえして食後に一杯葡萄酒を飲んだ憲兵、大きな焼き肉を注文する健啖家の老人といった具合に料理屋一つ見てもいろいろな人がいるものだ。それがセント・アリシア全体ならどうだろう! そして、セント・アリシアはヨーロッパでは町というよりは村扱いされるような都市なのだ。もし、彼がいま一瞬のうちにパリに行ってしまったら、きっと少尉はショックのあまり死んでしまうだろう。そして、都市文明から隔絶されることの辛さのいい例として学会で発表されることになるはずだ。

 もちろん、セント・アリシアでも勤務がある。要塞警備の仕事だ。でも、それがどうした? 非番の日には盛り場を歩けるし、器量のいいナポリ娘で目の保養ができる。要塞のなかには酒保があるから、タバチェンゴに行ったきり使っていない給料で葉巻やアーモンド・シロップ、ウイスキー・ボンボンを買うことができるのだ。

 酒保は要塞の中庭に面する場所で開かれていて、きれいだが油断のならないアンナ=マリーという締まり屋の女商人によって営業していた。狐人と人間の混血で顔かたちは人間でも耳は狐、尻尾が生えているが体毛はほとんど失われているというごちゃまぜ――それが女商人アンナ=マリーだった。ツケ買いはたとえ相手が少佐でも許さず、また彼女は酒保で稼いだ金で高利貸しをやっており、カード狂いの大尉や中尉に貸しては法外な利息を取っていた。

 セント・アリシアに帰ってきて数日でもう階級が等しい友人たちができた。ロデリク・コルカ少尉、ギリアム・レーゼンデルガー少尉、ルイ・デ・ロンタン少尉。四人は非番の日には街に繰り出し、要塞士官御用達の酒場で葡萄酒とビール、それに焼いた豚肉をたらふく食らうと、おがくずを撒いた床を踏み鳴らしながらみんなでラ・マルセイエーズを歌い、共和国万歳と叫び、メイベルラントよ、永遠なれを歌って、また共和国のために万歳と叫んだ。ガフガリオン将軍万歳! 左の奥まりで飲んでいた士官たちが叫んだ。

「そんな野郎に万歳なんて必要ねえ!」ケール大尉が叫んだ。「やつはおれたちを死地に追いやる。間違いねえぞ」

「ガフガリオン将軍を侮辱するつもりか!」

「お前らは地図作成担当士官だから、弾の飛んでくるところにはこねえ。だから、ガフガリオンなんて山師に万歳できるんだ」

 これにはガフガリオン派からも苦笑いが出た。

 その日の夜はみなどちらかというと政治論争よりも楽しく飲みたい気分だったのだろう。地図係の士官たちは黙って焼酎を飲み、他の連中は音が外れた行進曲をぐだぐだわめいていた。

「女がほしいな」デ・ロンタン少尉が言った。

「この辺に売春宿があるのかい」ジェスタス少尉がたずねた。

「ある。川沿いの赤い軒灯がかかっている店だ。まあ、高級とは言えないが、おれたちの収入なら妥当なところだ。みんな、いくだろ?」

 コルカ少尉とレーゼンデルガー少尉も行くと行ったので、ジェスタス少尉も行くことになった。童貞は士官学校生だった十七のときに娼婦相手に捨てていたが、それ以来、一度もやっていない。だが、他の友人たちの慣れた様子を見て、自分もその姿勢に合わせる必要があった。

「おれはナポリ女がいい」言いだしっぺのデ・ロンタン少尉が手でまるっこいカボチャのようなものを抱えるような形で突き出した。「あの形のいい丸い尻がたまらないね」

「おれはスウェーデン娘にする」レーゼンデルガー少尉が言った。「前戯してやると実にいいあえぎ声を出してくれる」

「アンドレル。きみはどんなのが好みだい?」デ・ロンタン少尉が話をふってきた。ジェスタス少尉はいつこの質問が来ても自然に答えられるように頭のなかで何度も台詞を繰り返していた。彼は言った。

「誰でもいい。守備隊勤務から帰ってきたばかりなら、カバみたいな顔の女でも絶世の美女に見えるだろうからね」

 これは三人の笑いを誘った。レーゼンデルガー中尉など膝を叩いて笑ったくらいだ。うまくいって、ほっとしつつジェスタス少尉は付け足すように答えた。「でも、選ばせてもらえるなら、同じ人狼がいいな」

「純血嗜好か。やるねえ、このスケベ」コルカ少尉が言った。「よし、立ち飲み屋でもうちょっと景気づけようぜ」

 立ち飲み屋は魚市場のような作りをしていた柱があって、屋根もあるが、壁がない。注文は火酒と小魚のから揚げのみ、それぞれが火酒を一杯ずつその場で飲み干すと、腹の底がカッカしてきて熱くなった。

 売春宿は川沿いから少し沼地へ入った場所に立っていた。木造三階立てで緑色に塗られた鎧戸、二階と三階の回廊には青銅で蔓草模様にこしらえた手すりがぐるりと囲っていた。南に集落、街道、東に河で、西には空き地を挟んでだいぶ向こうに立派な丸屋根の建物が建っているのが見えた。

「あれはなんだい?」ジェスタスがたずねた。

「裁判所さ」デ・ロンタン少尉がこたえた。「笑っちまうよな。裁判所と売春宿が空き地を挟んで隣同士だなんて。それに判事はここのお得意様だからな。おおっぴらに売春をやっても誰も咎めたりはしないってわけさ」

 中に入ると、咳き込むほど強い香水の匂いがジェスタス少尉の敏感な鼻を刺激した。それを我慢しつつ部屋を歩くと、足が深く沈んだ。踵の下にはふっくら分厚いチョコレート色の絨毯が広がり、一角獣やドラゴン、騎士とお姫さまが描かれていた。コルカ少尉が受付嬢に四人の利用とそれぞれの好みを伝えた。雑用係の九歳くらいの少女がマダムの下に走り、マダムが四人の前に現われた。厚い化粧で醜く垂れた老婆の顔を想像していたが、やってきたのは二十代半ばの化粧の力を借りずとも十分人にその美しさを伝えられる女性だった。地味な色合いの少し胸と背が見えるくらいのドレスを着ていたが、それでも彼女がパリを歩けば、十人の詩人がその美しさを讃える詩を書き、なぜだか悲しい気持ちになってセーヌ河に飛び込むに違いない。

「こんばんは、士官の皆さま」

 スカートの端を持って軽く身を下げたマダムに対して、士官たちもきちんと礼をして返した。

「申し訳ございませんが、デ・ロンタン少尉のご希望をかなえることができません。ナポリの子――エスメラルダというんですけど、その子の予約はもう埋まってしまってるんですの。かわりに混血の子はいかがかしら」

「どんな混血だい?」

「人間同士の混血ですわ。白人と黒人奴隷の混血娘でとても可愛らしい顔をしていて、とても美しい形の胸をしてますの。お尻のほうもエスメラルダにひけをとりませんわ」

「ふーむむ。よし、じゃあ、ここはマダムの勧めに従いおう」

「ありがとうございます、少尉さん」

 こうしてデ・ロンタン少尉はナポリ娘のかわりに混血娘を抱くことになった。一方、他の士官たちにはすぐに娘たちがやってくるから、先に部屋で待っていてほしいといわれた。

「すぐに向かわせますので」マダムが言った。

 ジェスタス少尉がもらった鍵は『31』とあった。途中、二階へ上がるところで卑猥な影絵を見た。人狼が一物を取り出して、リンゴの木の下で女に突っ込むのだが、あまりに強く突っ込んだものだから、リンゴが人狼の頭に落ちてくる――ジェスタス少尉が見たのはそこまでだった。31号室は清潔さに関しては南アメリカの奥地で為し得る限り最大の努力を払ったようだった。シーツにシミはないし、壁紙も気泡で膨らんだり、糊が駄目になって剥がれ落ちたりしていない。緑に塗られた鎧戸を開けると、夜の森の風が吹き込んできた。水をたっぷり含んだ湿っぽい、雨の前のように吹くような風の匂いを目いっぱい吸い込んだところでノックが二度鳴った。

「どうぞ」

 入ってきたのは注文どおり、人狼の娼婦だった。二十歳を超えていないであろう娘の胸の襟ぐりは深くU字に裁断されていた。しかしドレスの背中では六十二のホックで閉じられていた。視線は控え目で客を直接目で見ることを禁止されているのかと思ったが、そういうわけでもないようだった。娼婦はジェスタス少尉の長靴を脱がせた。そして、もう一つも脱がせ、フロックコートに手をかけた。自分でも脱ぐ仕草をしつつ、相手のドレスのホックを外しにかかった。ジェスタス少尉は女性用ドレスのホックを発明したやつを銃殺刑にしてやりたい気持ちになった。どうして六十二個のホックが必要なんだ。相手はもうジェスタス少尉のシャツのボタンを外し終えて、その立派に突き出した胸の毛に戯れに鼻を埋めていた。焦る余り、ついついホックがうまく外せない。すると娼婦の手がジェスタス少尉の手に重なって、ホックが魔法のように次々と取れていった。そして、最後のホックが外れた瞬間、ささやいた。

「きみの名前は?」

「アデリーナ」

 ドレスが彼女の身体から滑り落ちた。

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