第1話

 日付は一八五四年十一月六日、半年以上前の新聞だった。それによるとセヴァストポリ要塞に籠っていたロシア軍が突如打って出て、英仏連合軍の最左翼であるインケルマン・リッジを狙って攻めかかり英露両軍がサンドバッグ砲台を奪取し合ったが、最終的にはボスケ将軍率いるフランス軍第一ズアーヴ人狼連隊が南から救援に駆けつけて、ロシア軍の攻勢を頓挫させた。イギリス軍はかつてワーテルローで危機に陥った際にかけつけたプロイセンのブリュッヒャー将軍を思い出しながら、『フランス万歳!』と叫んだ、というところで記事は終わっている。木版画の挿絵はアラビア風の軍服を着た人狼たちがミニエ銃を手にロシア軍熊兵の喉元に喰らいつかんばかりの勢いで襲いかかり、それを見た狐のイギリス兵が銃を振り上げて、喝采を送っていた。

 何ヶ月も遅れてやってくる新聞以上に植民地暮らしの虚しさを感じさせるものはない。世界は植民地の人間を放置して忙しくまわっている。この分では自分たちの母国が地震でオランダかベルギーあたりを巻き込んで海の底に沈んでいてもノヴァ・アルカディアの人間は気づきもしないだろう。

 セント・アリシアには電信所がないので、河口の港町ピエーテルバルクからやってくる船が気まぐれに置いていく郵便物だけが世界とセント・アリシアをつなぐ唯一の糸だった。郵便船は河口のピエーテルバルクまでしかやってこないので、各郵便物は上流に何か別の目的――インディオの持つ黄金と交換するためのラム酒を運んだり、博物学者を奥地へ連れていっていく等の目的で河を遡る船についでで乗せられていく。郵便物を載せるかどうかは船主の気分次第だった。ひどいものになると数年間、ピエーテルバルクの郵便物置き場に置きっぱなしになっていることがある。つい先日も郵便物置き場の奥にある古い書き物机の引き出しから、セント・アリシア守備隊宛にナポレオンがエルバ島を脱出したことに関する報せが出てきたところだった。

 セント・アリシアの軍人や官吏、商会出張所の下級雇員は郵便物が届いたと聞くと、いつだって真っ先に飛んでいった。そして、彼ら宛てにこんな手紙が届くのを夢想する――蚊の湧く沼、人喰い魚、茅葺きのイエズス会館、少しでも弱ったものに下痢と嘔吐と高熱をもたらす瘴気漂う路地、瞬きする間に町を呑み込んで行く密林、全部捨てて、ヨーロッパに戻って来い。母国がお前を必要としている!

 そして、その期待は小包みの中身によって打ち砕かれる――燻製の鮭やトリノの工房で作られたグランドピアノの代金の領収書、名前も忘れた親戚の黒枠の死亡通知、蘭領東インドのマカッサルに届くはずのデンマーク語で書かれた手紙などによって打ち砕かれるのだった。

 フランソア・デ・ボア中尉もそんな人々の一人だった。人生を最も楽しめるはずの二十六歳という貴重なときに彼は一ヶ月のうちの半分、つまり一年の半分をグラン河をさらに遡った奥にあるタバチェンゴという小村で過ごさなければいけなかった。まわりをサトウキビ農園に囲まれて、遠くにこんもり盛り上がった濃緑の山々を望むセント・アリシアは退屈だが、少なくとも鰐が士官用宿舎に忍び込んだりはしないし、村人が蟹やウナギを漁るマングローブで排便をする兵士たちと村人たちとの騒々しい口喧嘩を仲裁せずに済む。それにタバチェンゴは単純で面白くなかった。あそこには村人と兵隊、それにグアダルーペのマリアや幼子イエスの護符をインディオに渡しては喜捨を集めている猫人のイエズス会士くらいしか人がいない。

 それに比べれば、セント・アリシアはずっと賑やかだった。例え、ド田舎だとしても。川幅が湖くらいに広くなっているから二本マストの引き網漁船が悠々と淡水ニシンを捕まえることができたし、商船が一度に五隻横列隊形で進むこともできた。粗糖やカカオの買取業者も頻繁に訪れた。商談がまとまれば、混血娘の酌婦が呼ばれて、居酒屋で大はしゃぎできるし、よれよれの革の服を着た漁船の甲板長のように黙々とサトウキビ焼酎を飲むこともできた。釣りの愛好家はここで竿をふれば、ヨーロッパじゃお目にかかれない鎧のような鱗をしたナマズや握り拳のような頑強な顎をしたピラニア、ポルトガル人たちが〈犬の歯をした魚〉と呼んでいる凶悪な面相の魚を釣り上げることができる。そして植物学者はまだ学会で発表されずにラテン語で記載されていないシダ植物はないものかと目を皿にして探している。大きな銛を手にした人狼と熊人の混血の大男が町に現われたが、何でもクジラを追っているうちに河に入り込んでしまったらしい。逃亡奴隷の捕縛を専門にしていて〈狩人〉と呼ばれている連中が密林の奥地まで踏み入って逃亡奴隷の村を襲い、全員を捕縛して帰ってきた。その数は五十人で途中何人かをサトウキビ農園に売り払ったので最終的には十八人の奴隷が〈狩人〉たちとともにセント・アリシアに戻ってきた。奴隷のなかには黒い蛙人や黒い毛の人狼がいた。かと思えば〈狩人〉のなかにはマンディンゴ族の黒人がいた。彼は自分の自由を主人から買い取った後、一流の〈狩人〉となって荒稼ぎしている。彼は黒人であり、逃亡したこともあるから逃亡奴隷たちの考えていることが手にとるように分かるというのだ。「白人や人狼どもはあくまで白人の考え方、人狼の考え方で黒人の逃げ方を考える。必要なのは黒人が考える黒人の逃げ方なんだ」病気になっても心配はない。疫病避けのおまじないをするインディオの拝み屋の婆さんがいる。パリで二年ほど専門的な教育を受けた同毒療法士がいるし、イギリスで三年ほど専門的な教育を受けてきた薬種商もいる(この二人は仲が悪かった)。瀉血と蛭と吸い付き壷以外の治療法を知らない田舎医者もいる(彼は三ヶ月前ピエーテルバルクへ行った際、イギリス人船乗りが持っていた最新の新聞に触れる機会があり、そこで紹介されたフローレンス・ナイチンゲールの治療手法を馬鹿げているといって一笑に付していた)。

 大きな建物といえば、閲兵広場に面した大聖堂、一階が拱廊になっている行政長官の官邸、高い椰子の木に囲まれた植民地協会の商館、そして、最近になってようやく完成した石造りの三階建てでグラン劇場だ。劇場の大きさも役者たちの質もヨーロッパでは鼻で笑われ相手にされない水準だったし、幕間にちょいとつまめるものを出すビュッフェはバターを全く使わずにこしらえたナマズのから揚げをムニエルとほざいて客に出したりするが、とにかく娯楽に乏しいセント・アリシアではこれが重要な娯楽兼社交場となっているのだ。劇場主のブラドーレム氏はこれといった政治信条を持たない人物だったから、使用料さえ支払えば、王党派だろうが急進共和派だろうがガフガリオン派だろうが好きなように煽動的な劇や政治色の強い演説や講演を打つことができた。

 新聞は二つ、王党派や地方分権派、大農園主のような保守的なブルジョワジーによる『アルカディア』紙と中小ブルジョワジーや急進的自由主義者による『リベラル』紙。それに最近、母国で流行しているガフガリオン運動の影響を受けた右翼系の新聞『パトリア』が印刷機を買って、もうピエーテルバルクの目抜き通りに印刷所を構えるつもりでいるとのうわさがセント・アリシアにも聞こえてきた。

 セント・アリシアにいるとき、フランソアは小要塞の士官用宿舎で寝起きする。似たような部屋がいくつも並んでいる廊下にはそれぞれ上流の村落につくった守備隊の指揮を執ることになっている中尉たちの部屋が並んでいる。だいたいが下に二十人から三十人ついていて、黒人ばかりを集めた隊もあれば、フランスの真似をしたズアーヴ兵もいた。

 フランソア・デ・ボア中尉は同輩たちの中では先任士官であったし、士官候補生時代からセント・アリシアとタバチェンゴを往復する暮らしをしていた。要塞司令官はまだ鬚も満足に生え揃わない士官候補生に十五人の歩兵をつけて、タバチェンゴの奥に送り込んだ。

 それから八年が経つと、いろいろと変わってきた。まず立派な口髭と顎鬚を手に入れた。次に軍服の着こなしが変わっていた。母国では軍服の着用には厳しい規定があったが、植民地ではそんなものは屁ほどの価値もないとされてきた。太陽光を和らげるという意味では全く役に立たない赤いケピ帽を長持ちの底にしまい、スペイン人の狐がやっている帽子屋で水も漏らさぬほどにぎっちり編んだつばの広い麦藁帽子を買った。真っ白な帽子で明るい太陽の下を歩くと、燐に火をつけたようにまぶしかったものだから、路上でマンゴーを売っている老人から文句を言われたほどだ。次にフロックコートを着るのをやめて、裾が尻くらいまでしかない半外套をボタンを外した状態で着た。さらになかに着ているチョッキもボタンを外した。そのかわりに青い飾り帯でしっかり胴を締め、その上にサーベルを吊るための革ベルトを結んでいる。靴だけは騎兵用の長靴にしておく。蒸し暑いがしかたない。地面から這ってくる蟻が靴のなかに入ることが気にならないのなら、普通の靴を履けばいい。これにちょうちょのような黒のネクタイを結べば、立派な植民地士官の出来上がりというわけだった。

 変わったのは見栄えだけではない。部下の数は三十五名に増え、そのうち八名は二門の十二ポンド砲を操る砲兵だった。砲一門につき軍曹が一人、兵卒が三人。合計八人を統括するのは一平卒から叩き上げて砲兵准尉になった隊の古株ルイ・タバークル准尉だった。赤ら顔で角ばった頬を鬚で隠しているこの男は部下から〈オヤジ〉と呼び慕われ、フランソアもそう呼んでいた。

 オヤジの背はどちらかといえば高いほうに属するフランソアよりもさらに高く、おまけにその体にはレスラーにも負けないほど堅い筋肉が癒瘡木のようにぎゅっと詰まっていた。オヤジのいうところでは自分には人狼の血と熊人の血が八分の一ずつ流れていて、これが黄金の比率となって頑強な人種ができあがるのです、と真剣に一席ぶって士官たちの笑いを誘うことがあったかと思えば、要塞の近くに住む子どもたちの目の前で椰子蟹を素手で潰し、オリーブオイルと塩をふってなかのミソをパンに塗りつけて食べて見せたりした。

 朝の行事としてはまず各隊がそれぞれ点呼を行う。そして、総員が揃っていて、健康状態も良好で、武器等の装備もきちんと整理されていることが確認したら、今度は各部隊の指揮官である中尉たちが要塞司令官の執務室に集まって、全てが順調順風満帆であることを報告するのだ。第一守備隊、異常ありません! 第二守備隊、異常ありません! 第三守備隊――と、いった具合に簡潔な報告が為される。もし、何か足りない物資が出た際にはここで申告する。運がよければ一ヶ月、だいたいは三ヶ月後に物資が届く。

 要塞司令官は名前をアンソン・セバスシアンといい、アフリカ猟騎兵連隊の連隊長で階級は大佐だった。セバスシアン大佐はセント・アリシアでは最も位の高い軍人だったが、肝心のアフリカ猟騎兵は影も形もなかった。連隊付きの需品係下士官もいなければ、予備の蹄鉄を運ぶラバの一頭もおらず、ただ、連隊長一人と慣れない気候ですっかり痩せ衰えた馬が一頭あるだけだった。

 アフリカ猟騎兵連隊はもともとフランスがアルジェリアの土民から志願者をつのってアラビア風の装束を着せた騎兵連隊にヒントを得たものでその勇猛ぶりに目を瞠ったメイベルラント陸軍省は早速、隊の設立を考えた。そして、竜騎兵連隊の中佐だったアンソン・セバスシアンに第一アフリカ猟騎兵連隊大佐着任の辞令が出た。セバスシアン中佐が地中海を船で渡り、チュニジアとアルジェリアの隙間にあるちっぽけな植民地にたどりつくと、出迎えたのは空っぽの募兵事務所だった。メイベルラント語がかろうじてわかる地元事務員がフロックコートを着て、椅子に座っていたのだが、どうも彼は同じ土民仲間に自分がひとかどの人物になったところを見せてやろうとしたのだろう、銀貨や銅貨に穴をあけて胸に吊るして勲章代わりにしていた。

「ここで何をしている?」セバスシアン大佐はたずねた。「わしの連隊はどこだ?」

「連隊、ない」事務員は言った。「兵士、いない」

「軍楽隊は? 村々に先触れして志願兵を募ることになっていただろう?」

「みな、楽器、売った」事務員はにこりと笑って言った。「それで酒、飲んだ。たらふく」

「わしの前でニヤニヤするんじゃない! このインチキ勲章野郎!」大佐は怒鳴った。「今すぐ、外に出て、志願兵を集めてこい! 十人だ、いいか? 十人の若い、屈強な、男を連れて来い! それまで戻ってくるな。わかったか?」

 事務員はわかった印に何度もうなずいた。

「じゃあ、さっさと行け!」

 そうして大佐は待った。十日間待った。だが、事務員は帰ってこなかった。大佐はこの体たらくを本国に伝える手紙を書き、連隊を名乗るのにふさわしいだけの部下を送ってくれとそこに記した。大佐の切実な願いは叶えられた。彼のもとに兵が送られるかわりに、彼が兵士たちのもとに送り込まれたのだ。行き先はセント・アリシア。メイベルラント領北アフリカが楽園のように思える南米の僻地だった。

 第一アフリカ猟騎兵連隊連隊長アンソン・セバスシアン大佐はもう五十三歳だった。薄くなった白い頭髪越しに不健康な蒼ざめた頭皮が見え、不活発な目は次々と報告する中尉たちについていけず、その視線はのろのろと左から右へ糖蜜のようにゆっくりと流れていった。口髭はなんとか形が整っていたが、顎鬚のほうは山羊のように長く下に垂れ下がっていて、風がそよぐたびにゆらゆらと揺れた。

 笑えば顔中の皺が突如露になり、しょんぼりすると頬の肉がだらりと下がる。

 彼が目下心配していることは不帰順インディオの動静や最近、村落を襲い始めた盗賊たちではなくて、娘の持参金だった。大佐には二十八歳の婚期を逃がした娘がいるのだが、これがまた大佐によく似ていて、生気のないぼんやりとして、注意していないと消えてしまうような娘だったのだが、これに持参金をつけてやれないということだった。ただでさえ歳を食い、器量も特別によいわけでもなく、誰もに好かれる快活な性格でもない娘を結婚させるにはどうしても莫大な持参金が必要だった。

 持参金なしで二十八歳の才気のない娘をもらってくれるかわりものはいないだろうか? 目の前に並ぶ中尉たちを見る目が、部下を見る目ではなくて、娘の片づけ先を見る目になっていた。デ・ボア中尉はどうだろう? なんだかんだでここも長いし辛抱強く務めている。他に人狼や蛙人の中尉もいた。狐人と人間の混血の中尉は集まった士官たちのなかでは一番魅力的な造作をした青年だった。こういう手合いが自分の娘をもらってくれる可能性は限りなく零に近い。南米のちっぽけな植民地の守備隊の名前だけのアフリカ猟騎兵大佐に媚を売ったからといって、本国に帰れるわけでもなし、出世できるわけでもなし。

 セント・アリシアの空気は淀んでいた。周囲のサトウキビ農園の搾り汁と煮つめる釜から流れてくるべったりした甘い風、街じゅうのあちこちでバナナを素揚げする屋台の喉にウエッとくる臭い、対岸の密林から放たれて知らず知らずのうちに吸い込んでいる生臭い泥の臭い。

 その日、非番だったフランソアは軍服のまま、市街地へ出て、セント・キャサリナ通りを横切った。町はいつもどおり退屈な空気に纏わりつかれていた。教会の尖塔と同じくらいの高さの椰子が並ぶ広場では老狐が金物を売ったり、人狼が木を削ってつくったパイプを道に広げたボロ絨毯に並べて、煙草と一緒に売っていたり、レモン・シャーベット屋が硝石の粉末を水に溶かしていた。

 フランソアは町外れのほうへと歩いていった。町外れといっても河岸から三十分も歩けば着く台形の土地だ。そこは町でもなければ、サトウキビ農園でもない、潅木が生い茂っている土地だった。だが、最近は町の住民が潅木を引っこ抜き、新たな家屋や商店を作ろうとしていて、そこに足を踏み入れれば、トンカントンカンとトンカチで釘を打つ音が心地よく耳に触れてきた。フランソアがぶらりと立ち寄って目にしたのは出来上がった敷石の基礎から四本の大黒柱が立った工事現場や固まらないよう漆喰の桶を小舟用の櫂で混ぜ続けているインディオ、大工仕事に長じた一人一五〇〇ドルはする黒人奴隷たちと彼らの仕事を見張る監督官といったものだった。

 フランソアはこの町外れが好きだった。この町外れだけではない。分厚い緑に鉈を振るい、あらゆる方向に町を広げようとするその動きが好きだった。そうやって密林が人間に打ち負かされ町が広がるたびに新しい住民が増え、退屈なセント・アリシアでの生活が少しはマシなものになるからだ。

 フランソアは町外れからグラン河の上流へと足を運んだ。途中でナポリ人街を横切った。洗濯物を干した庭では女同士が物凄い速さに加えて、大げさな身振り手振りを交えてしゃべっていた。台所で煮込んでいたジャムが今すぐ火を止めろとボコボコと音を鳴らさなければ、二人は世界が終わるそのときまでしゃべり続けただろう。撞球場の前には顔にナイフの傷痕が残るやくざがいた。話している相手もやはりナイフの傷痕があるやくざで頭の毛をきれいに剃っていた。丸坊主のやくざが口髭を噛みながら一方的にまくしたてていて、もう一人のやくざが至極もっともだという様子で何度もうなずいた。部下の一人にナポリ人がいたので、フランソアはやくざどもが何を話しているのかこっそり探らせたことがある。

「だめです、中尉殿」ナポリ人の兵士が言った。「さっぱりわかりません」

「連中はイタリア語を話してたんだろう?」

「それは間違いないのですが、その内容は『かもめは飛んでった』や『ウズラはまだ大丈夫だ』といった具合で仲間以外の人間にはわからないように、ある種の符号を使って話しているんです」

 ナポリ人街を抜け、黒人街を抜けて、行政長官邸へつながる椰子の木通りを横切って、グラン河の岸辺に出た。泥色の水がゆっくりと左から右へと流れていくが、その様子はセバスシアン大佐ののろのろとした視線を思い起こさせた。インディオの小舟が人狼の旦那とラム酒の樽を乗せて上流へ向かい、それと入れ代わりに原型をとどめないまでに食いちぎられ腐敗した動物の死骸が下流へと流れていく。この河の底にはああした死骸が沈んで腐って泥となり、それが海老や蟹の餌になる。その海老や蟹を食べているということを思うと、海老や蟹を食べるのを控えようかと思いたくなるが、セント・アリシアで一番美味い水産物は海老と蟹なのだから結局食べてしまう。

 桟橋に船がやってきていた。フランソアは台地を下ると、官吏や事務員たちに混じって、彼をこの密林暮らしから解放する福音の辞令がないものかとたずねてまわった。この瞬間、突如、誰かが叫び声をあげた。

「ああ、神さま!」それは木材買取のために商会から派遣されていた狐人の雇員だった。「ヨーロッパに戻れる」

 彼はハラハラと落涙すらした。やっとヨーロッパに帰れる。だが、まわりの人々は彼がヨーロッパで生きていられるのは一年か二年だろうと踏んでいた。マラリアで死に掛けること四回、三十代半ばの出張所雇員は六十を超えた老人のような色あせた毛をしていて、物を食べても胃が受け付けないため、ひどく痩せ衰えていた。ヨーロッパに戻ったら、まずバーデン・バーデンのような療養地に送り、鉱泉に浸からせ、鉱水を飲んで、しっかり休ませなければいけない。

「ぼく宛の荷物や手紙は届いていないか?」

「桟橋のほうでお待ちですよ」桟橋官吏が答えた。

 お待ち? 手紙や荷物に使う言葉ではない。お待ち。一体どういうことだ? 桟橋事務所を出て、泥の河の横っ腹に突き刺さった桟橋に人狼の少尉が一人、従卒が一人、工兵用の革の前掛けをしたのが六人。それにそれぞれの荷物が八つ。

 規定どおりに軍服を着こなしている人狼の少尉に近づくと、作法どおり向こうのほうから敬礼してきたので、フランソアも敬礼で返した。

「デ・ボア中尉殿でありますか」人狼はたずねた。

「いかにも。きみは誰だい?」

 人狼はちょっと戸惑った表情を見せたが、すぐにきりっとして、

「本官はアンドレル・ジェスタス工兵少尉であります、中尉殿。本日を持って、中尉殿の麾下に入ることになる工兵隊の指揮を命じられているのであります、中尉殿」

「いちいち、中尉殿をつけなくてもいい」フランソアはジェスタス少尉の持っていた辞令を読みながら言った。「ぼくはこんな辞令聞いたこともないぞ」

「しかし、陸軍省は確かに辞令にまつわる書簡を事前に発送しているはずですが……」

「ああ、そういうことか」

「どういうことでありますか?」

「きみの辞令は郵便船に載せられて太平洋を越え、グラン河の河口ピエーテルバルクまで辿り着いた。で、そこの郵便物置き場に放置されているというわけだ」

「陸軍省の書類を放置する?」ジェスタス少尉は信じられないといった様子でたずねた。「そんなことが本当にあるのでありますか、中尉殿」

「ああ、あるとも。いくらでも。でも、ひょっとしたら、大佐宛に辞令にまつわる書類が届いているかもしれない。確かめてみよう」

 フランソアはジェスタス中尉と従卒、それに七人の工兵を連れて、要塞に戻ると、ジェスタス少尉と一緒に大佐の執務室に入った。

「そんな話はわしも聞いておらん」大佐は言った。「もう一度、きみの持っている辞令を見せてくれ」

 ジェスタス少尉は自分の持っている辞令を渡した。大佐は鼻眼鏡をかけて、糖蜜のようなどろりとした視線を上から下へ流していった。

「書類は確かに陸軍省が発行したもののようだ」大佐は書類を返すと、フランソアに向いて言った。「きみの麾下に組み込みたまえ。どうせ三日後にはタバチェンゴに行くのだろう?」

「はい、大佐殿」

「じゃあ、そこで工兵ができそうな仕事を見繕ってあてがってやれ。兵舎の修理とか。あるいは村民の簡単な大工仕事を手伝ってやって、地元のインディオを鎮撫するのもいい。まあ、七人の工兵というのはいろいろと使い道がある。あ、いや、待ってくれ。七人の人種の内訳は?」

「人間二名、人狼二名、熊人一名、蜥蜴人一名、それに人狼と熊人の混血が一名」

「つまり屈強な種族で構成されているわけだ」

「はい」

「それなら特に問題はない。デ・ボア中尉。きみから何かいうことは?」

「いえ、ありません。大佐殿」

 フランソアは工兵たちをタバークル准尉に任せると、ジェスタス少尉に要塞を案内した。聖人の名を冠した小堡塁、名将の名を冠した大堡塁、無名の角面堡と半月堡、調理場、玉ねぎの皮むきを命じられた兵士が座る椅子、営倉、鍛冶屋、厩舎、じゃがいもと干し肉の倉庫、鶏小屋、地下牢、軍医の部屋、常に二人の歩哨がついているラム酒の倉庫、大佐の宿舎、第一副官の宿舎、需品係士官の宿舎、フランソアやジェスタス少尉のような奥地の守備隊勤務を行う野戦士官の宿舎。

「同じ中尉の部屋でも――」フランソアは言った。「野戦士官の部屋は需品係のものよりもずっといい位置をあてがわれている。東向きの窓から入った陽光が部屋をすっかり消毒してくるし、それに部屋自体も広い。これは歩兵士官だけでなく、砲兵や工兵の諸科全てに振り注ぐ恩恵だ。といっても、月の半分をあのタバチェンゴで過ごさなくていいというのなら、ぼくは喜んで需品係士官になり、湿気の抜けないじめじめした部屋を受け取るよ。だって、どうせほとんど部屋にはいないんだ。こんな田舎のセント・アリシアだって酒場や撞球場くらいはあるんだから」

「あの、タバチェンゴとは何のことですか?」

「ぼくらが一年の半分を守備しなければいけない小さな村落の名前だ。住んでいるのはインディオがほとんどだが、人狼や人間もちらほらいる。それにトマスという名のずる賢い猫のイエズス会士も」

「ガフガリオン派はいますか?」

「あの村に? どうだろうなあ。ガフガリオン派の行商人がいて、そいつが川沿いの村に七色刷りのガフガリオン将軍の絵を配ってまわっていると聞いたことはある。ここから上流の村落は本当に田舎だから、七色刷りの絵だというだけで価値がある。たぶんインディオの村長たちの家には必ず一枚はガフガリオン将軍の絵が貼ってある。でも、それはインディオたちのあいだにガフガリオン派が広まっているということにはならない。きみはガフガリオン派なのかい?」

「いえ、わたしはどの党派にも属しません。軍人は政治に関与すべきではないと思っています」

「それが賢明さ。ところでフィリベルンのほうだけど、そっちはガフガリオン運動が強いのかい?」

「はい」人狼の少尉は答えた。「将軍はここ数年の混乱期を利用して貴族、ブルジョワジー、労働者を問わない愛国主義者という支持母体を作りました。将軍に反発するのは議会主義者と社会主義者くらいのものです。あとは無政府主義者。議会がきちんとしていれば、ガフガリオン将軍への民衆の期待が高まることはないのでしょうが……」

「そうだ、それを聞きたかったんだ。こっちの新聞は党派性が強すぎてどれが本物でどれが誇張なのか分からないんだよ。まず、議会についてだけど、相当腐っているらしいね」

「はい。共和国成立後、一年と立たないうちに鉄道会社に対する国有地払い下げで数名の国会議員が便宜を図った謝礼を鉄道会社から受け取っていたことが発覚しました。また銀行が発行する富くじ債券絡みの贈収賄が発覚し、その他にもいくつかの疑獄事件が続いた。国民はかつて横柄な王族や堕落した貴族にうんざりしたように腐りきった議会政治にもうんざりし始めています。議会は保守党と自由党がぞれぞれのスキャンダルを持ち出し合うばかりで全くと言っていいほど議事は進まず、予算の審議すらままならないありさまです。きっとシーザーやナポレオンが台頭したころがこんなかんじだったのでしょうね」

「それで軍事独裁か」

「愛国主義者たちは混乱した共和政を糺す強い指導者が必要だと唱え、それこそジェルジェ・ガフガリオン将軍に他ならない。ジェルジェ・ガフガリオン将軍を終身統領とする独裁政府をつくり、腐敗した議会を一掃して、国家として生まれ変わるべきだと言っています。ガフガリオン将軍がまだ北アフリカ植民地軍の中佐だったころ、あれは確か四六年ですね。そのとき、フランス軍三千による北アフリカ侵攻にたった一五〇の歩兵と三〇の騎兵で立ち向かい、にらみ合いの末、フランス軍を国境の外に追い出しました。ガフガリオン将軍は英雄として祀られました」

「それはぼくもおぼえている。まだ中学生だった。四十八年の革命のときもガフガリオン陸軍少将がうまく立ち回ったのを覚えているよ。首都のあちこちで敷石が剥がされ、家具が積み上げられてバリケードができあがるなか、ガフガリオン将軍はバブーフやブランキの影響を受けた秘密結社的革命家や急進的共和主義者が籠った市庁舎を榴弾砲で吹き飛ばした上で皆殺しにし、逆に中小ブルジョワジーや穏健的な自由主義者、労働者たちが籠るバリケードを前にすると銃を構える兵士たちの前に躍り出て『撃ってはいけない! 彼らは同じメイベルラント人だ!』と叫んだもんさ。もっともぼくの家は騒擾から離れていたから、革命を間近には見ていない――ほら、着いた。ここがきみの部屋だ。寝台の上に呼び鈴があるから、用があったら、それを鳴らしたまえ。従兵がやってくる」

 部屋に入り、ドアを閉めようとしたジェスタス少尉にフランソアが一言言った。「軍服はもっと着崩したほうがいい。でないと熱でやられて、勤務どころではなくなる」

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