異変

ガチャ、と音がして裕さんが入ってきた。考え事をしていたので全然気配に気が付かなかった。びっくりして振り向く。

「Do you have a dinner?」

テレビを睨んでいるようにみえたので、慌ててリモコンを操作しニュースを英語に切り替える。

「I am sorry, but you did not wake up, so …」

言い訳をしながら電子レンジにおかずを入れ、ご飯をよそう。裕さんは何も言わずに漬物やサラダを食べていたが、私が支度を終えて椅子に座ると箸を置いた。

「I wanna go to the electronics retail store this weekend. Could you go with me?」

「Sure.」

少し安心したのか、コクリと一度頷く。そして鶏の唐揚げを食べ始めた。一緒に買い物に行くのは久しぶりだ。元気がない様子だったので少し心配していたけれど、外に出ようと思うくらい元気になったのなら良かった。


「Hello.」

挨拶をして部屋に入るとジムキャリー似のマイク先生が天気について話出す。半分以上何を言っているのかわからない。推測するに日本の気候について話しているようだ。でも急に『What do you think?』と聞かれてポカンとしてしまった。何について質問されているのかが解らない。

「I am so sorry, but I cannot understand. Could you tell me again?」

「No problem. It rained cats and dogs last week. At that time I did not have an umbrella, but everyone had them. It is amazing. Do the people in Japan always have an umbrella even if it is sunny? What do you think about it?」

さっきよりゆっくりと、多分単語も簡単にしてくれたのだろう。だけどcatにdog??? 先生に質問すると土砂降りのことを慣用句でそう表現するらしい。もしかしたら中高生でも知っているような私も習ったことのある一般的な慣用句なのかもしれない。でも、こんな面白い表現だったら覚えている(・・・・・・はず)。空から猫と犬が降ってくる様を想像してみる。ありえない光景! 面白くてとにかくとても気に入ってしまった。今度激しい雨が降ったら裕さんに言ってみよう。

 マイク先生の質問はいつも単純なのに難しかった。自分が普段『どう思うか』ではなく『どう思われるか』ばかり気にしていたことに気付かされる。好きとか嫌いとかの感情はあるけれど『私はこう思うから嫌い』とか『私はこう思うから賛成』などと家族や友達と議論したことなんてほとんど記憶にない。学校でも自分の意見を話す場面では『こう言ったらどう思われるか』を主に気にしていたと思う。ありのままの自分の意見を言ったことなんてないかもしれない。日本人は概してそうなのか、女性に多いのか、私だけがそうなのかわからないけれど、流されているというか、現状を受け入れているだけの気がする。


裕さんのことも私はきちんと考えていなかった。今ならそれが判る。当時は心配で精いっぱいなだけだった。

裕さんが約1年前に部長に昇進してからは、さらに状況が悪化した。会社を休むまでの間、私は過労死の心配ばかりしていた。

夜は零時半~一時頃に帰宅。終電に間に合わずタクシーや会社に泊まることも時々あった。小さな会社なので宿泊施設があるわけではない。用意されている毛布をかけて長椅子で横になる程度。それでも家に帰って三時間も横に慣れずに早朝出社するのに比べたら、長く横になれるので疲れ切っている時にはマシと感じると言っていた。朝は六時の電車に乗るため五時二十分起き。健康を考えるとシリアルくらい無理にでも食べてもらいたいのだけど、食欲より睡魔が勝つので二度寝することが多く、コーヒーさえ飲めずに慌ただしく出かけていく。昼食もコンビニや会社前で売っている弁当を買いパソコンで仕事しながら十分くらいで流し込んでいるということだった。

土日もどちらか出社する事が多く、たまに家にいてもパソコンと携帯で朝から晩まで仕事をしていた。

疲れ果てているのに寝つきが悪く、また、寝たと思ったら寝言で叫んだり怒鳴ったりしていた。休暇で何処かへ旅行しても心ここにあらず、携帯で部下に連絡をしたりネットで情報収集をしたり、まさに仕事に憑りつかれているようだった。

このままでは仕事に殺されてしまう、と毎日毎日心配したけれど、だからといって退職して欲しい、と懇願するわけでもなく、私は心配するだけで何もしなかった。


ゴールデンウィークは七連休だった。でも、特に旅行に行くとかでもなく、疲れているからと横になっている以外は家で仕事をしていた。明けの五月六日はしんどそうだったけど五時三十分には家を出た。でも、十二時前、ちょうど私が残り物を昼食用に温めていたら突然裕さんが帰ってきた。顔つきが違う。何か様子が変だった。そして『具合が悪い』とだけ言うと着替えて寝てしまった。食事とトイレ以外は布団で横になったまま過ごし、次の日も仕事を休んだ。

土日は少し元気になったのか、時々起きて仕事をしていたけれど、月曜日の朝は起きることが出来ず、ようやく八時半に会社へ遅出の連絡をして九時前に家を出た。後姿が頼りなくて不安になったけれど努めて普通に『いってらっしゃい』と送り出した。でも、一時間ほどで戻ってきた。電車を見た途端に涙が溢れ、ベンチに座って汗を拭くふりをして涙を拭ったけれど、周囲から変な目で見られ、電車にも乗れず、ホームにも居られず、どうしようもなくて帰ってきた、と、いうことだった。

「実は六日も会社に着いたら涙が出て、トイレに一時間ほどいたんだけど止まらなくて産業医の所に行ったんだ」

重い告白をようやく打ち明けるような、絞り出すような話し方だった。

「とりあえず一度専門医がいる病院を受診するよう勧められた」

「うん」

すぐには何も言えなかった。でも、それは思いがけないことが突然起こったからではなかった。無意識に予想していたこと、恐れていたことが現実になってしまったことに対してショックを受けていたからだった。『どうしよう、どうしよう』

 私より年上で強くて何でも出来る裕さんに、いつの間にか私は全てお任せだった。結婚する前は、例え結婚してもお互い自立した立場で、とか今の関係を維持して、と思っていたけれど、守られる立場はラクで居心地が良かった。自ら考えて選択することを避け、裕さんに委ねて責任を取ることをしなくなっていた。

 まだ病院に行っていないけど鬱病に間違いない、これからは私が考えて判断しなきゃいけない。

「とりあえずネットで病院を調べてみるね」

不安で仕方なかった。

「大丈夫だよ」

自分にも言い聞かせるように力を込めて言うと、少し安心したのか、裕さんは涙目で頷いた。



土曜日の家電量販店は午前中からかなり混んでいた。極端に人の目を気にするようになった裕さんは、人混みが苦手で気分が悪くなったりするので少し心配したけれど、無事に目当てのマイク付ヘッドホンを買うことが出来て気分も良さそうだった。

「明日香、外付けハードディスクも見たいんだけど、いいかな?」

家の中では英語以外禁止でも、外では日本語で話すことになっていた。明らかに日本人の二人が、しかも一人は片言しか話せないにも関わらず、英語で話すと大変目立つからだった。

「うん、いいよ」

この前、通院で外出した時は裕さんの気分が優れず、ほとんど会話が無かった。だから久しぶりに裕さんと日本語で話せることが嬉しかった。

「昼は久しぶりにインドカレー店に行かない?」

エスカレーターで移動しながら聞いてみる。

「カレーかぁ、カレーも悪くないけど久しぶりに韓国ラーメンも食べてみたいなぁ」

裕さんが極狭でカウンターしかない、いつも混んでいる店の名前をあげる。今日は相当調子が良いようだ。

「じゃ、韓国ラーメンにしよう。裕さん、悪いけど私トイレに寄りたい。待っている? それとも先に売り場に行っている?」

「じゃ、先に行ってるよ」

エスカレーターを降りたところで右手と左手に分かれる。以前は営業で鍛えられた話術を武器に人前で話すのが得意だったのに、発病後は店員と一対一で話すことさえ苦手になり、私が一緒でないと話せなかったり、私に店員の対応をお願いしたりするようになっていた。その為私がトイレに行っている間は入口付近で待っていることが多かった。階段脇のトイレは四人も並んでいたけれど、今日は裕さんが待っているわけではないので焦らず気がラクだった。

 トイレから出て売り場に向かう。さすがに十分近くかかったので早足になった。天井から下げられている案内を見て通路を右に曲がろうとした時だった。

「それでも担当者かよ!」

突然裕さんが怒鳴る声が聞こえた。びっくりして足が止まった。通路から覗き見ると、若い男性店員と裕さん、そして様子を伺う何人かの買い物客の姿が見えた。

「そんな接客でよく給料貰ってんな、 ったく、ふざけんなよ!」

裕さんは興奮しているのか遠目でも顔が赤いのがわかった。隣で店員が何度も何度も深く頭を下げている。

「人を馬鹿にしやがって! 上司を呼べよ、おまえがどんなにひどい店員か説明して店の為に解雇するよう進言してやるよ」

私が今までに見たことのない裕さんだった。店員を睨む目つきが鋭く怖かった。

「ほら、さっさと呼んで来いよ!」

店員がおどおどしながらレシーバーで誰かと話している。きっと上司を呼び出しているのだろう。声をかけるタイミングを探しながら、無言で責任者の到着を待つ二人の元に近づいた。

 私に気付いて眉間に皺を寄せた裕さんに声をかける。

「どうしたの?」

「この馬鹿は接客も説明もろくに出来ないんだよ」

怒りで声が震えている。そこへ別の店員が近づいてきた。

「売り場責任者の後藤でございます、この度は販売員の対応に行き届かない点がございましたようで誠に申し訳ありません」

「謝れば済む問題じゃねぇんだよ、 この店員は客を馬鹿にしやがったんだぞ、客の解らないことを説明するために販売員を置いてるんじゃないのか? え? お宅の会社はどういう教育をしているんだよ!」

裕さんは差し出された名刺を無視して声を荒げた。近くで商品を見ていた買い物客が離れていく。

「とにかく、こんな奴はクビにした方がいい、こいつを教育した奴もクビだ」

「お客様、こちら売り場ではお話をゆっくり伺えませんので、静かな場所へ案内を致します。」

「俺は売り場で全然構わないよ、え、何? そっちは都合が悪いことを隠したいわけ?」

「いえいえ、ですから」

「ですから、って何だよ! 俺が話を理解してない、って言いたいのか? 部下と同様、おまえも客を侮辱するのかよ!」

間に入るにも裕さんが怒っている理由が全くわからなかった。途中からしか会話を聞いていないせいもあるけれど、正直なところ裕さんが言っていることは被害妄想的で支離滅裂だと思った。さっきの買い物客のように、私も他人だったら関わらないように売り場を離れただろう。責任者はある意味マニュアル通りの対応をしている。気持ちが入っていないな、とは思うけれど、働く側の立場としては理解できる。

「ご気分を害させてしまい申し訳ありません。販売員の説明が至らなかった点はお詫びし、今後指導の徹底にも力を入れていきますので、ご理解いただけないでしょうか」

「だから、さっきから何度も言ってんだろ。理解って何だよ! おまえらは俺が理解できない・・・・・・客の俺を非難……」

「いや、その・・・・・・」

「もういい! おまえらと話しても腹が立つだけだ。気分が悪い!」

そう言うと裕さんは早足で売り場から離れて行ってしまった。慌てて店員に軽く頭を下げ、後を追うけれど裕さんはとても早くて追いつけない。階段で一つ下へ降りるとそのまま脇のトイレに入ってしまった




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