第2話 年頃の娘の悩み

 六薬堂は大江戸の大通りである本筋から横手八番下がった西ひつじ通り三丁目中にある。この辺りは住宅と、個人宅を手習いとして開いている人の家が混在する場所でもあり、長屋の多い、さる通りがすぐ近くにあるので、市井ちまたの人が行き交う通りでもある。

 六薬堂の正面は北を向いている。この並びでは六薬堂だけだ。北向きに店を構えているのは、店の中の薬に日が当たらないため。

 店内東側の壁には小さな引き出しがびっしりとあって、そこに薬草なんかが入れられている。西側には番頭台と、裏手に行ける台所がある。

 店の中央には棚があってその上にはきれいな千代紙で包装された香などが置かれている。

店の奥の南側には三畳ほどの小上がりがあって、その左手は襖で仕切られてた部屋があって、そこが店主である詩乃の部屋になっている。

 詩乃は日がな一日、小上がりのほぼ真ん中に陣取り、冬は火鉢か、夏は煙草入れのそばに座って過ごす。

接客は番頭が執り行う。簡単な処方箋や説明は番頭がすべて覚えているので口を挟まない。その番頭ですら手を焼くような時だけ口を出す。が、めったにないことなので、ほとんどの人が詩乃の声を聴いたことがない。

「さようです、こちらの丸薬を夜、杓一杯の水とともに飲んでください。そうすれば便秘解消となるはずです。すぐに効果が出たときには一度で止め、なかなか出ない場合は、続けて飲んで結構ですが、普通は、今夜飲めば明日には何とかなるものです。必ず、夜にお飲みくださいね。体が休んでいることが、このお薬の重要点ですから」

 番頭は滑らかに説明をして、店先まで客を送り出した。往来する人々が番頭に声をかけ、番頭はそれに愛想よく答える。番頭が中に入ってきてため息をつく。

「あ、幸せが逃げた」

 番頭が眉をしかめ、そういった詩乃を睨んだ。

「あのですね、詩乃さん?」

 そういって小上がりに近づこうとした時、後ろから人の気配がして振り返る。

「ごめんください、」

「はい、いらっしゃいませ。どういった御用で?」

「えっと、あのぉ」

 若い娘だった。手ぬぐいで顔を隠していて俯き加減ではあるが、詩乃のほうを見ている。

 詩乃が娘に手招きをした。番頭が「奥へどうぞ」と声をかけると、娘は小上がりへと歩いた。

「どうかした?」

「……それが、」

娘は番頭が気になるのか、言いにくそうなそぶりを見せる。

詩乃が指を二本立てる

「無理やり男に襲われて孕まされたか、ひどい折檻で人が見たら恐怖を覚えるか、どちらかの用向きでない限りは番頭も同席させている。この二つの事例以外ならさっさと答えて、どうせ大したことないのだから」

 娘はむっとしたが、確かに二択のようなことはないと手拭をのける。

 13,4歳ぐらいの活動的な娘のようだった。パンパンに血色よく張った肌。色艶がよく、唇などはつやつやとしている。ただ、鼻の頭に吹き出物があった。

「この吹き出物が恥ずかしくて、」

 詩乃がじっとそれを見て失笑する。娘が唇をかみしめる。

「いや、失礼。でも、そんなものは年とともに無くなるし、今は少し腫れて痛いかもしれないが、二、三日のうちに芯が出てくるだろうし、放っておけば痕には残らない。汚い手で気にして触れば痕に残る」

「でも、すごく不格好だわ。鼻の先っちょにこんな大きなもの、出歩くのも恥ずかしいのよ」

「若いからね。若いという証拠なんだけど、それと同じくらい、確かに恥ずかしいよね。だからって、触りすぎると、今度は黒くなってしまうよ」

「そんな、どうしたらいいの? すぐに取ってくださいよ。薬ですぐに、」

「一番はきれいにすること。触らないこと。気にしないこと。あなたぐらいの症状なら薬は要らない。数日の我慢よ」

「無理だわ。なんて店なの、」

 娘は手ぬぐいをかぶって、地面を踏みしめるように歩いて行った。

「一個ぐらいで大げさな」

 詩乃がキセルにたばこを詰める。

「そうは言っても、年頃の娘さんには、あれは痛手ですよ」

「だからと言って、変な薬を塗れば、痕になるばかりか、小さくて見えなかったものを大きくさせかねないからね。何事も起こらなきゃいいけどね」


 数日後。

 六薬堂に与力の岡 征十郎がやってきた。

「それで?」

 詩乃は起きたてかのように大あくびをしながら私室から出てきた。

 岡 征十郎は眉をひそめ、―こういう女なのだ、こういう下品な奴なのだ―と呆れながら、

「以前この店で、吹き出物用の軟膏を買った娘の顔がひどく赤く腫れあがったと報告があった」

「吹き出物用の軟膏?」

「そうだ。売ったか?」

「……どんな娘?」

「売ったかどうかを聞いている」

「吹き出物用の軟膏を売ったかい?」

 詩乃が番頭に聞く。番頭は首を振り、

「ですが、在庫が一個足りなくなっていました」

 詩乃は肩眉を上げる。在庫管理をちゃんとしておくように言いつけていたのに、とは言わない。詩乃自体がちょくちょく番頭に言わずに持ち出しているからだ。

「盗まれたということか?」

「さぁね。とりあえず、娘の風貌だけでも教えてくださいよ。もしかすると差し上げたってこともあるし、」

 詩乃の言葉に征十郎が岡っ引きの末八のほうを見る。末八が頷き、

「年は十四。どこにでもいるような琴と小唄を習って、」

「そんなことじゃなくて、顔、どんな顔?」

「……それが、報告があってから会いに行ったんですが、人様に見せたくないと泣いていると、母親の話では顔中が赤くなって腫れているようだと。最初こそ少なかったのにと嘆く日々らしくて、」

「最初は少なかった? 最初は鼻の頭に大きいのがあったんじゃない?」

「その娘にあげたのか?」

「いや。もしその娘なら、その程度なら塗ってもたいしたことないから我慢しろとは言った。基本的に、吹き出物はこじれてしまわないと薬を出さないようにしているんだ。ひどくなりそうなものとか、だけど、その娘は四、五日我慢すれば痕も残らず治るものだったんだよ」

「誤診か?」

「吹き出物で? いやいや、それならほかの病気だと思うね、小早川先生の所へ連れて行ってみたらどうだろうね、うちでは売ってない。在庫が合わないとすれば、盗って行った可能性があるが、あれを塗ったからと言って、赤く腫れることはない。かえって何も起こらないようなものだからね」

 詩乃はそういうと、征十郎は吹き出物の軟膏を一つ取り上げ、

「小早川療養所で見せても大丈夫だな?」

 というと、詩乃は「お好きに」と返事をした。

 征十郎が出ていくと、詩乃は煙を二度ほど燻らせると、

「何を塗ったかねぇ、バカ娘は?」

 詩乃は呆れながらキセルを縁に打ち付けたばこを落とした。


 娘が何を塗ったのか解る前に、岡 征十郎は店で売っているものがただの馬油で、毒にも薬にもならないものだと証明したと言ってきた。

「それで、娘は小早川先生のところへ行ったの?」

 岡 征十郎は首を振り、「どうしても行かぬ、外に出ては死んでしまう。と言って部屋から出ないそうだ」

 詩乃がキセルを打ち付ける。

「別にね、その娘の顔がどうなろうと知ったことではないが、うちの薬に難癖付けておきながら、医者に行かないのが気に入らない」

 すっくと立ちあがると、草履をはき、岡 征十郎の側に立った。

「案内しな」

「お前は、お上を何だと思ってんだ」

 岡 征十郎は苦々しい顔で見下ろす。

「役立たずのでくの坊。と言われたくなければ、さっさと行く。ほらっ」

 詩乃に腕を掴まれ、岡 征十郎は店を出て、娘の家へと向かった。

 娘は米屋の娘のようだった。

 娘が部屋から出ず泣き暮らしているのを気に病んで、父親は商売に身が入らない様子で、その姿に詩乃が嫌な顔をし、

「うちの薬だそうだからね、様子を見に来たのさ」

 というと、母親が飛び掛からんくらいの勢いで奥から出てきて、甲高くののしっていたが、詩乃はうるさい虫を追い払うかのように手をひらつかせて、店に上がり、奥へと向かった。

 使用人たちに娘の部屋はどこかを聞いて回り、その後ろから両親の怒号を背負って詩乃が娘の部屋の前に来た。

「どうだって?」

 詩乃は障子を無下に両手で解放した。

 鼻を刺す異臭に眉をしかめる。

 娘がギャーと言って布団を頭からかぶった。

 詩乃がそれをはぎ取ろうとするが、娘の力が強く、

「岡 征十郎、布団をはぎ取れ」

 と、命令する。

 岡 征十郎はしぶしぶ布団をはぎ取れば、ぼろぼろと泣いている、真っ赤に顔を腫らした娘がいた。

 詩乃は一目見てため息をつき、そばに落ちていた軟膏入れを手にとってますます顔をゆがめた。

「放っておけば今日にでもすっかりきれいになったろうに、馬鹿な娘だ」

詩乃はそう言うと娘の前に座り、娘のあごに手を当てて顔を上げ、しげしげとその赤く腫れた顔を見た。

「水と、使い古した手ぬぐい。あぁ、手ぬぐいは一度沸騰した湯に入れてしばらく煮立たせたものを持ってきておくれ」

「手拭いを、煮立たせる?」

「この軟膏を取り除くためにね」

「だ、駄目よ、この軟膏はとてもよく、」

「バカ娘は黙ってな、こんな粗悪品……粗悪品ならまだしも、これは……香料がふんだんに入った馬油だからね、しかもちゃんとした手順で抽出した香料じゃないから、ひどいもんだ。すでに酸化してて、ひどいにおいがしてる。こんなもの塗ってりゃ、そりゃそんな風になるよ」

「だ、だが、お前さんの店で、」

「うちの店に、香料を入れた軟膏はない。あ、薬のほうね。香料っていうのは、元気な時にはいいが、弱っている時には毒なんだ。だから入れない。おおかた、うちで何にも出さなかった帰りにでもどっかの店でいいものだとか言われて買ったんだろうけど、多分、その店も、まさか吹き出物につけるなんて思ってなかったかもしれない。体の乾燥なんかの時に塗るにはいいけど、これを顔に塗るなんて、馬鹿に馬鹿が加わったほどの馬鹿だわ」

 しばらくして使用人が煮沸消毒した手ぬぐいと、水を運んできた。

 詩乃がそれを軽く絞って、そっと娘の顔をなでる。ドロッとしたものが手ぬぐいにつくと、すぐにそれを洗い、結局、桶何杯か水を交換して、娘の顔から軟膏が全て取れた。

「まったく、これほど腫らしちゃ、痕に残るやつが出てくるかもしれないねぇ。しかも、えらく熱を持ってる。……当分は、顔が熱いし、傷みがひどいだろうけど、この水を朝夕と昼の三度塗る以外何も塗らないこと」

 そう言って詩乃は袂から小瓶を取り出した。小さく切った手ぬぐいを何枚か縫い合わせているものを取り出し、

「これで、本来なら十日以上は持つ。これ(手拭いで作ったコットン)に、こうやってたっぷり目に含ませて、やさしく置くようにする」

「はぁ、冷たくて気持ちがいい」

 娘の言葉に詩乃が顔をしかめる。

「どうせ部屋から出たくはないだろうし、暇だろうから、これを作ったらいい。手ぬぐいをこれくらいに切って、三枚で一組、それの両端を縫えば出来上がり。使ったやつは捨てたほうがいい。別に洗って使っても構わないが、まだ今は、膿が出てきているから、洗ってもきれいだとは言えないからね。熱は二、三日中には引くだろうが、そのあとで、またぶつぶつと目立ってくる。だけど、この水以外、一日三度以外何も触ってはいけない。あぁ、朝に、水でしっかり、昨日塗ったこの水を落とすように洗うこと。ただし、こすらず、水の力で落とすように」

「ど、どうやって?」

 詩乃は顔を洗うしぐさをして見せた。


 米屋の店先に戻った。

 店は大盛況のようで、客の対応に追われている従業員たちの声でにぎやかだった。

「甘いもの、油の多いものを食べさせすぎたね。多分、昨今の米景気で繁盛して、いいものを食べさせたのだろうけど、あの娘の体質、つまり、母親の体質から考えて、油をためこみやすい。いいところへ嫁に行かせたいのなら、甘いものも油も極力与えないことだね」

 詩乃は草履を履いて店主に手を差し出した。

「あ? はい?」

「ただで往診なんかするもんかね。しかも、うちで買ったものでなく他所で買ったものなのに、うちの店に傷をつけた。それでも、あのバカ娘の治療の手ほどきをしたんだよ。タダだとでも思っていたのかい?」

「あ、あぁ、はぁ、いやぁ、ほんと、その」

「まぁ、あの娘の顔が大した金額じゃない。というなら、別に構やしないけどね」

「おい、詩乃、いい加減に」

 詩乃が顔をぷいっと横に向けると、店主が慌てて番頭台の手提げ金庫から小判を一枚取り出した。

「毎度、どうも」

 詩乃はそれを素早くひったくると、踵を返して外へ出て行った。

 岡 征十郎が肩で息をし、

「ああいう女だが、薬は本物だ。小早川先生がそう言っている。あの女が言った通りのことをすれば、治るだろう」

 米屋夫婦は深々と頭を下げた。

 岡 征十郎はため息をついて先を歩いている詩乃を追いかけた。

「不服そうだね、岡 征十郎」

「高額な報酬だと思うがな」

「いいのよ。金のある所からとるのは。ないところからとらないんだから。あ、団子でも食べて帰るかい?」

「職務中だ」

「まじめだねぇ。面白くない男だ」

 岡 征十郎は鼻を鳴らして立ち去った。その背中を見送りながら、詩乃は団子を持って帰るように四本包んだ。



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