7.ヒーロー、行方不明 

 この事件のせいで、状況が一変してしまう。

 翌日も警察が出入りした。規制テープも貼られたままで、とてもではないけれど開店というわけにはいかなくなった。

 弟が臨時休業の貼り紙を出す。

「もう、だめかもな……」

 弟も覚悟をしたようだった。

 弾痕が残る壁、壊されたトイレのドア、営業できない店。黄色の規制テープ。

 噂はこの店の評判を落としていくだろう。ヤクザが出入りして銃撃戦があった店。そんな店、もう誰も来ない。


 それでも。十日後には壁の修復も、トイレのドアの修復も終え、弟はひとまず開店することを決意する。

 やはり。誰も来なかった。一日、二日。来ない。

 この店に来てくれた奥様達は、黄色の規制テープを見ただけで怖じ気づいてもう二度と来ないだろう。

 トラックドライバーも、危ない男が出入りしていた店などと知っては身の安全を考慮して来なくなるだろう。

「今日もだめか」

 弟ががっくりとうなだれる。

 こんなに激変してしまうだなんて。私達姉弟はなにも悪いことはしていない。むしろ被害者だった。

 あの兄貴と眼鏡の男は組に所属するヤクザで、デニムパンツの男は借金があり、それを精算するため、反社会組織から『運び屋』をさせられていたと刑事から聞かされた。

 彼等はこの港で落ち合い、まだ新しくできたばかりで姉弟がやっている目が行き届かない若い店を取引先としていた。デニムの男がトイレに入り、そこに薬物を置く。それを入れ替わりでトイレに入った眼鏡の男が押収する。そういうやりとりに利用されていたと知った。

 トイレには防犯カメラはつけられない。まさか人々が楽しく食事をしているそこで取引などされるはずもない。そういう盲点をついて取引されていたとのこと。

 三日目、ドアが開いた。信じられなくて、弟と一緒に固まってしまう。

 ノーネクタイの白いシャツにグレースラックスの中年男性と、爽やかな青いチェックシャツの青年の二人組。

「なにか食べられますか」

「はい。いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 久しぶりの来客で、美鈴の声がややうわずってしまうほど。落ち着いてと深呼吸をして、いままでやってきた接客をこなそうとした。

 中年男性と青年、上司と部下? 先輩と後輩? 親子には見えなかった。仕事でランチに立ち寄ったように見える。

 あの人達はまともな男性なのかな。ビジネスマンの商談だと思いこんでいた自分たちを姉弟は反省していた。だからとて、入ってきたお客様全てに疑いの目を向けるなんてできない。

 二人組の男性は静かに食事をして、長居はせずに会計にやってきた。

 レジで精算をしていると、先輩らしき中年の男性が話しかけてくる。

「口コミで聞いたんですよ。美味い店で自分のような中年のオヤジの口にも合うと」

「さようでございましたか。ありがとうございます」

「いえ、家内が、この店にまた行きたいと言っていたので、以前通りに行くように伝えておきます」

 奥様からの口コミ? それに来てみたいとまだ思ってくれている? 僅かな光が差したような気持ちになった。

「お騒がせいたしました。ご不安な思いをさせてしまい申し訳なかったと、奥様にお伝えください。通常に営業しております」

 美鈴が頭を下げ、顔を上げても、中年の男性はじっと美鈴を見ている。

「あの……」

「いえ、接客が丁寧で気が利く女性がいるとも聞いていましたので。なるほどと……」

 気が利くことなど、この男性にはまだ何もしていないのに『なるほど』? 美鈴は訝しむ。でもそんな美鈴の顔を見て、中年男性がどこかおかしそうにくすりとこぼした。

「また他の同僚を連れてきます」

「ありがとうございます。お待ちしております」

 嬉しくなったのか、弟もキッチンから飛び出してきて、一緒にドアまで見送った。

「聞いた、宗佑」

「聞こえた。そう思ってくれてるのかな。まだ警戒して来てくれないだけなのかな」

 宗佑の目に涙が滲んでいた。彼も死ぬような思いをしてたに違いない。子供のような大事な店が、悪い男達に悪い薬物を持ち込まれ荒らされたのだから。

「いまの状態で、予想オーダー数を絞って抑えて、細々でもいいから維持して営業しよう」

 弟の肩を撫でると、宗佑も涙を拭ってうんと頷き微笑んでくれた。

「ねえ、少しお金かかってしまうけど、この際、思い切って割り引きとかコーヒーとかデザートサービスのクーポン券をタウン情報誌に載せてもらおうよ」

「そうだな。また来て欲しい人から使ってくれたらいいもんな」

「じゃあ、早速、手配について調べてみるね」

 テキパキとカウンターの片隅にあるパソコンを立ち上げると、そこで弟も美鈴をじっと見つめている。

「ありがとな、姉ちゃん。姉ちゃんがいてくれてほんと良かった。それに……無事で、良かった」

 思い出したくなくて美鈴からも言えなかったけれど、弟も姉が女性として嫌な思いをしたことも気遣って、いままでそっとしてくれていた。

「大丈夫だよ。私も宗佑が撃たれなくて良かった。なにかあったら、莉子ちゃんがひとりになっちゃうじゃない。そんなの絶対だめ」

「うん。でも俺、助けられなかった」

 その後に続きそうな言葉に美鈴は身構える。そして宗佑もそこで黙り込んだ。

 あの人が来てくれたおかげで助かった。タイミング良く警察が来てくれたけれど、もし警察への通報が遅かったら、あの人を頼るしかなかっただろう。

 でも弟はその先を言わない。言いたくないのだと思った。美鈴も言えない。あの人のおかげと姉弟で喜べないのは、あの人も、この店を荒らし悪行を働いた男達とおなじ世界にいる『ヤクザ』だから。

 腕だけではなく、肩から胸に描かれた入れ墨も見てしまった。拳銃も持っていた。警官が突入したら逃げた。間違いなく、彼はヤクザ。捕まった男達と対抗する組織の男だったのかもしれない。

 刑事から知っている男かと聞かれたから『常連だった』としか答えていない。それ以降も、どのような男だと判明したとか、見つかったとか、逮捕したとかの報告もない。

 それだけ迅速に手際よく彼は逃走することができたのだろう。

「忘れよう、宗佑。お店のことだけいまは考えよう」

 姉からあの彼のことを口にしない意志をみせたので、宗佑も『わかっている、そうする』とそれ以上話題を引き延ばそうとしなかった。

 その夜、いままで見たことがない女性客がふたり、来店があった。華やかなOLさんという雰囲気ではない、ちょっとお堅いスーツ姿の女性がふたり。はしゃぐような喋り方もせず、淡々と食事をして精算をしていった。

 その翌日もランチには男性の二人組が、一組、二組と違う時間に入ってきた。

 その数日後には、お醤油屋の女将さんが『大変だったわね。まかせて。またお友達連れてきて、大丈夫だって宣伝するから』とランチをしていってくれた。

 それから少しずつ、少しずつ、お客様が戻ってきた。

 人の出入りを確認できたからなのか、顔なじみだった奥様達やママさん達もちょこちょこ少人数で来てくれるようになった。

「子供と一緒に来ていたからね、そんな人も出入りしていたんだと思ったら、ちょっと怖くなったのよ。でもね、行けなくなると思ったら寂しくて、お気に入りだったのよ。それに、うちの子、ここのお魚だけはちゃんと食べられてたのよね。マスターに作り方教わりたいぐらいよ」

 ママさんから初めてそんな言葉をかけてもらえた。それを聞いた弟と義妹が『出し惜しみせずに、子供が食べられるお魚レシピのチラシを店内で配ろう』というサービスの準備を始めた。

 事件が起きてから半月、少しずつ回復していく。これまでの積み重ねが、真面目にやってきたことが、本当はお客様に伝わっていた? そう思いたい。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 事件から一ヶ月、なんとか少しずつお客様が戻ってきた。気のせいか、それまで見なかった雰囲気のお客様も増えた気がする?

 店のセキュリティを強化し、専門会社との契約も見直した。あのような事件が起きたので、しばらく警察の監視もあってか、かえってもう不審者も近づけないだろうと笑い飛ばしてくれるお客様もいた。トラックドライバーのおじさんに限っては『なんかあったの。知らなかった』と、後から他のドライバーからの情報で知ってびっくりしたけれど、俺は来るよと言ってくれた方もいた。

 なんとか元に戻ってほっとしている。

 秋には義妹が出産予定。大野家の若い三人家族は目下、赤ちゃんを迎えることで頭がいっぱいになってきた。

 美鈴も楽しみにしている。かわいい甥っ子ともうすぐ会える。義妹の莉子と一緒にベビー服の買い物をしたりして楽しい気持ちも戻ってきた。


 ただ。夜、部屋でひとりきりになると。夜の凪いでいる港をみつめ、柔らかくて湿った潮風の匂いの中、そっと思い返している。

 海の匂いに混じって、彼のジャケットの匂いがする。

 あのジャケットは警察に押収されてしまったため、美鈴の手元には残らなかった。男の指紋があるだろうからと鑑識と刑事に持って行かれたが、その時ひっぱって取り返したい気持ちに駆られた。私の身体を労ってかけてくれた彼の優しさだから、それは私のもの。しかしそれを言うこともできなかった。

 指紋を採取され、彼はもう犯罪者として、よくある警察のデーターベースに登録されてしまったのだろうか。かえって、あのジャケットのせいで彼の立場を悪くしてしまった気がしていた。

 取り返せば良かった……。必死に。でもそうすると、美鈴も彼の仲間として疑われたのだろうか? あの時は警察のいいなりになってしまい何もできなかった。

 警察の取り調べも厳しいものがあった。本当にあのヤクザ達と無関係だったのか、それを証明するために家宅捜索をしたいと最初は言われていた。いちばん怒ったのは義妹の莉子だった。私の家を荒らすのかと憤慨していた。

 しかし翌日になって『必要がなくなったので家宅捜索はしません』との知らせがあった。莉子はほっとしながらも『こっちは被害者よ。トイレのドア、壊しておいてなんなのよ。当たり前よ』と怒りまくっていた。赤ちゃんに良くないから、もう忘れようと宥めて、家族三人でなんとか日常に戻ろうとした。

 でも。美鈴の中で、時々、彼の匂いが鼻を掠める。ジャケットがないのに、ないがために、鮮烈に匂いを覚えてしまっている。

 働く男の、日常に配慮が行き届かないジャケットの匂い。汗と外気と体臭と、濡れた雨の匂い。ほんのりと熱い皮膚の温度も。

 そしてあの目。近寄ってはいけない男なのに、あの真摯な黒い瞳。あのような非常事態の最中でも、彼はいつもどおりの顔と落ち着きだった。そのうえ、手際の良い格闘に的確な銃撃。そういう頼もしい男らしさ。

 美鈴は、窓から海空を見上げる。きっと、もう、二度と会えないだろう。

 こんな鮮烈な姿を残して、名も知らないあの人は警察に追われているから、もうここには近づけない。

「さよなら。ありがとう」

 助けに来てくれて。警察から逃げてしまっても、あなたは私にとってはヒーローでした。

 夜の潮の香を嗅いでも、鼻腔にはまだ彼の匂いが残っている。

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