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 菟田野博士の勤めている研究所は小高い丘の上にありました。都会からは離れていて、喧噪を離れ、林の梢の奥に隠れるようにありました。立地場所を選んだのはもうずっと昔の学者さんで、菟田野博士はその立地を見て研究所を気に入ったと教えてくださいました。

 私もその研究所は好きでした。コの字型の建物も真っ白で清潔でしたし、庭に聳える鳥のオブジェの佇まいも立派でした。庭の草原に寝そべると真っ青な空が見えました。何にも遮られない視界に空だけが広がっていると、まるで吸い込まれるような心地がして、胸の奥がざわつくのです。不安定なその感覚が、私は嫌いではありませんでした。

 その日、私はまた空を見ていました。今日は菟田野博士がいません。今朝早くに車に乗って空港へ向かうのを見送りました。

 竜水さんと別れてすぐに、ヒューマノイドの研究が解禁されました。菟田野博士は連日忙しく研究所を出入りするようになりました。

 菟田野博士は、ヒューマノイドに宿る感情について研究していました。

 開発した新しいタイプの人工知能で、経験的な感情の取得が可能になるのではないか。その実験の手がかりが私の活動記録でした。

 たったひと月の実践投入でしたが、研究所内で採ったデータとも照合して、ひとつの論文としてまとめたとのことでした。反響は大きく、今も世界中から内容の詳細を伺われています。

 研究発表に私も付き添った方がいいのかと菟田野博士に何度か問いかけましたがやんわりと断られました。聞くところによると、インタビューというのはこの世にたぐいまれなるストレスの発生源らしく、まだまだ心の未発達な私はそのような場に行くとパニックを起こしてしまう可能性があるそうなのです。確かにニュースなどで流れるインタビューで、畳みかけるように質問を投げかけられている人をみると胃がきゅっと締る思いがします。プレッシャーとは、そのような状態のことをいうのでしょう。どれだけおなかに力を入れても、肩を落としても、深呼吸しても、胃の締め付けは戻りませんでした。

「でも、それなら私は何をすればよいのでしょうか」

 自分の置かれた状況が酷く静的なものであるとわかり始めた頃に、私は菟田野博士に問いかけました。菟田野博士は微笑んだまま、少し考えた様子で下を向きました。

「問題ないよ。休んでいてくれ。心が疲れているんだから、休養が必要だよ。そのうちまた仕事をあげるから」

 菟田野博士はそう言ってくれました。私のことは見ないままでした。

 休めと言われたことに従い、毎日空を見ていました。吸い込まれる心地にいつもなります。それが一番楽しいことでした。それ以外には何もすることがありませんでした。研究所からは出られませんし、菟田野博士の言いつけどおり、研究所内を勝手に漁ったりもしませんでした。そのおかげで芝生に寝ていられるのですが、毎日同じ事の繰り返しだと気分がどんどん重くなります。意味を考えてしまうからです。生きることの意味とか、そういう重たいものです。答えが出ない問いだとわかっていながら出るのですからタチが悪いのです。

 何をすればいいのかわからないけど、何かをしなければならない。

 その思いは日増しにつよくなってきましたが、言葉にしようとしても、どうしてもかたちになってくれませんでした。

 空の雲が多くなり、寒さを感じました。風向きが変わったのです。それなのに、私はなおも空を見上げ続けていました。動くのが非常に億劫で、声を出そうにも喉の奥がひりひりしました。

 私はゆっくり目を閉じました。

 このまま雨にうたれてもいい。

 などと考えていたら、真上から「おーい」と声をかけられました。

 

「一緒に木に登ろうよ」

 鳥のオブジェの脇に立っている欅の黄色い葉の下に、赤い髪の毛が見えました。

「それに上るんですか? 難しいですよ、フェイ。私、やったことないですから」

「平気だよ。教えてあげるから」

 その子、フェイは答えるやいなや木の幹にしがみつき、足の先を瘤に載せて一気に枝へと飛びかかり進んでいきました。黄色の中にフェイの赤髪が果敢に動き回っていくのがわかりました。

 見様見真似で、私も後を追いました。瘤は思っていたよりも固く、枝は私の重量に耐えてくれました。フェイの後を追って枝葉に埋もれ、そのうち木の頂上まで辿りついて、ようやくフェイの横に肩を並べられました。

「ごらんよ」

 フェイが指差したのは、研究所の外側に建ち並ぶ街並みと、その向こう側に広がる海でした。ちょうど高台に研究所があるものだから、街が扇形に広がっていることや、その扇を軽々と包み込んでいる海の広大さもよくわかりました。傾き始めた陽射しを受けて、海は白い光を反射し輝いて見えました。

「綺麗です」と、私は呟きました。

「綺麗、か。ねえ、それってどういう感じ?」

「ええと、とても街が広くて、海が輝いていて、それら全てを一望できるこの機会が貴重で」

 私なりに言葉を尽くしていたのですが、フェイは首を傾げました。私自身、どう説明したらいいのかわからず、あれこれと表現を探しました。広大さにまつわる表現も、輝きにまつわる表現も、この世にはたくさんあります。しかしそのどれを使っても、フェイは首を縦には振りませんでした。

「いったいどうすればよいのでしょう」

 私は目を伏せました。フェイに対して申し訳ないと思っているうちに、自然と目を合わせにくくなりました。

 しばらく、じっとしていたと思います。顔を上げられないまま、風の音と、木の葉の揺れと、草むらを跳ねている雀たちの囀りばかりが聞こえていました。

 ふふっと、笑い声が聞こえました。フェイの声です。

「それでいいと思うよ」

 私が顔を上げると同時に、フェイが欅から飛び降りました。地面に綺麗に着地して、私を振り返って手を振りました。

「戻ろう、ナユタ。菟田野が呼んでるよ」

 フェイに促されるまま研究所の入り口を見れば、白い人影が立っているのが見えました。菟田野博士が帰宅していたのです。私は嬉しくなってフェイの後を追おうとしましたが、欅を跳ぶのは躊躇われて、結局木の枝を一本一本降りていきました。私の身体はフェイほどには強くありません。無理は禁物なのです。

 やがて草むらでフェイと落ち合って、手を広げる菟田野博士の下へと二人で駆けていきました。

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