第10話




 ♢



 予定が、大きく変更されてしまった。すぐに本土へ逃げるつもりだったけれど、ずっとこの島にいることになった。理由は一つ。守りやすいからだ。ここは他国はおろか、日本とすら隔離された場所であり、出入りする人間をチェックしやすい。船や飛行機の便は〈銀華〉を運営する議会である〈十華〉によって決められており、密航も非常に難しい。できたとしても少人数に限られる。

 つまり、〈命と嘘の舞踏会ライフ・ライ・ダンスパーティー〉が俺と妹を保護観察するにはうってつけの環境だった。それに、〈銀華〉にいる〈命と嘘の舞踏会ライフ・ライ・ダンスパーティー〉のメンバーはテン・シナリスだけだ。あいつがいくら男爵バロン級の吸血鬼と言えども、もっと強い吸血鬼は山ほどいる。監視の態勢が整っていない中で無闇に動いても危険が増すだけだ。

 ここまで考えて嫌になった。要するに、全部〈命と嘘の舞踏会あいつら〉の都合じゃないか。もちろん、それが俺と妹の安全に繋がるとはわかっている。けれど、だからといって簡単に納得できるほど大ざっぱな神経は持ち合わせていない。

 俺は今、そんなことを考えながら喫茶ホリへと戻っていた。出立する必要がなくなったため、とりあえずは妹の着替えを持っていく。


「はぁ」


 この状況を何と言ってホリ先生に説明したら良いのか。先生には絶対に迷惑をかけたくない。〈命と嘘の舞踏会ライフ・ライ・ダンスパーティー〉なんて超大物が関わっている。妹がいる限り先生のお宅は否が応でも観察対象になってしまう。もし奴らが先生にまでちょっかいをかけてきたら、俺はもちろん妹は立ち直れない。できるなら無理矢理にでも妹を抱えてアパートに帰りたいのだけれど、それも難しかった。妹の容態が安定するまでベッドから動かせないのだ。


 きっとテン・シナリスは今もどこかで俺を見張っている。付いてくるなとは言ったけれど、それで大人しくしている訳がない。

 北地区でも隅の方にある喫茶ホリ。俺と妹のアパートからは、海岸線を通るのが一番の近道だ。海岸線と言っても砂浜などはない。海抜七メートルの高さのコンクリートが波を弾いてる。

 夕陽がもう少しで完全に沈む。向こうでは灯台の光が回転を始めている。

 こじんまりした木造家屋、喫茶ホリが見えた。朝十時から昼の三時までしか開店していないお店は、今は真っ暗だ。灯りが外に漏れないようにカーテンを全て閉め切っている。

 俺は走り出した。妹のいる場所が見えたことで、余計に不安になってしまったからだ。服の詰まったボストンバッグが揺れる。夏夜に嬉しいはずの冷たい海風が、ベタベタして気持ち悪かった。


「先生! 今戻りました!」


 closeの看板がかけられた扉を開く。一階はお店で、二階が先生の自宅だ。カウンターの奥、厨房の横にある階段を駆け上る。二階の上がり框で靴を脱ぎ捨て、


「あっ」


 廊下の奥から出てきた先生とぶつかりそうになった。下で声をかけたし、音を立てて上ってきたから、俺の存在には気づいていたはずだ。けれど、先生は俺なんて頭になかったかのような顔をしている。


「……ハツカ君、えっと」


「は、はい?」


 先生の目が充血している。頬には涙の跡があった。

 その姿に背筋が凍った。


「ど、どうしたんですか」


「いや、その……」


「何かあったんですか!?」


 ボストンバッグを投げ捨て、先生の肩にしがみついてしまった。思っていたよりもずっと華奢な身体を力任せに揺さぶる。


「妹に、何か!? どうしかしたんですか!?」


「お、落ちつけ! 落ち着いてくれ!」


「でもっ!」


 よく見ると、先生はシーツを抱えていた。妹のために貸してくれたベッドのものだった。

 シーツには、血のような赤い斑点がいくつもある。さっきはそんなものはなかった。それが余計に俺を動転させる。


「ナノカくんは無事だ! 君が焦るようなことは何一つない!」


「ほ、本当ですか?」


「あぁ。ただし、少し聞いて欲しいことがある。まずは深呼吸だ。はい、息を大きく吸って」


 無意識のうちに荒くなっていた呼吸と脈拍。まずは落ち着けるために肺いっぱいに酸素を取り込む。


「吐いて」


 今度はゆっくり時間をかけて吐き出した。クーラーの冷気で汗が引いていくのを感じる。


「もう、大丈夫です。すみませんでした」


「いや、構わない。それより、今から私が言うことを気を確かに持って聞くんだ。絶対に慌てないこと。取り乱さないこと。できるね?」


「はい」


 その時先生が目を伏せた。これまで一度も見たことがないような、辛く苦しい表情だった。先生は、眉根を寄せ躊躇いながらも重々しく口を開いた。


「ナノカくんが、手首を切った」


 全身が強張る。


「私が少し席を外した間に目を覚ましたらしい。果物のそばに置いてあったナイフを使ったみたいだ」


 膝に力が入らなくなって、崩れ落ちてしまった。横壁に手をつくが、支えられない。


「ナノカくんは〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉だ。回復力も尋常じゃない。直ぐに治癒したから、命に別状はない。このシーツは、汚れてしまったから取り替えたんだ」


 先生の言葉が、聞こえているような、聞こえていないような。視界が霞んでいる。


「何度も言うが、生命に危険が及ぶようなことはない。だが、問題はもっと別にある」


 これだ、と先生がシーツを広げて見せてきた。大人用のシーツの半分近くが赤色になっていた。一人の人間から流れたとは思えないほど、じっとりと赤い液体が染み込んでいる。


「相当深く切った、と言うより、切った端から治ってしまうから、何度も何度も切りつけたみたいだ。傷痕も残らないから、その回数は把握できなかった」


  血の量だけ、妹は自らの手首をナイフで切った。その回数だけ、死を望んだ。

 先生が言う問題とはそれだった。どうしても、どれだけ痛みを受けても、死にたいと思ってしまったこと。それだけの闇を心に抱えてしまったこと。

 妹の病んだ心がシーツに付着している。俺はうわごとを呟きながら首を左右に振った。呼吸が再び回転を増していく。


「……気持ちは、わかる。いや……」


 現実を拒否し、逃げるように頭を抱え次第に縮こまっていく俺を、先生は責めなかった。


「心が安定するまで、そこに座っていなさい。ナノカくんは今眠っているから、私に任せていい。ずっとあの部屋にいるつもりだ」


 そう言い残してシーツを洗濯しにいこうとした先生を、俺は掴んだ。


「そのシーツを、ください」


「……それは」


「ください」


 その後、先生は何も言わず、俺にシーツをかけてくれた。

 優しいシルクのシーツは、血で倍以上の重さになっていた。全然乾いていないため、俺の肌や服に冷たい血がべっとり触れる。鉄臭い匂いが俺を包み込んだ。

 身体が小刻みに震えている。自分でも今何を考えているのかわからない。考えているのかもしれないし、考えていないのかもしれない。

 先生がいなくなってしばらく経った後、ふらつく身体を壁にもたれさせながら立ち上がった。口の中がパサパサして、叫び出したいのに声が出ない。掠れた呼吸音だけが喉を枯らした。

 木の床に血の線を描きながら、妹の眠る部屋の前にやってきた。動作は遅かったものの、迷うなどという感覚を失っているので、当たり前にドアノブに手をかけた。一瞬押すのか引くのか忘れてしまったけれど、押して部屋に入った。


「あ、あぁぁ……!!」


 妹が眠っている。それを確認できただけで涙が止まらなくなった。手を前に伸ばし、駆け出す。被ったシーツに躓きながらベッドに齧りついた。気がおかしくなりそうなほどの熱が脳全体で沸きたつ。妹は静かに眠っていた。けれど、俺は妹の首にしがみつかずにはいられなかった。乾いた口から出るのは汚らしい鳴咽だけ。


 起こしてはいけないとか、もっとすべきことがあるだとか、そんなことすら気付かず、俺は泣き喚いた。涙なのか汗なのか血なのかもわからない液体が妹のシャツに染み込んでいく。先生が昨晩着替えさせてくれたシャツすら、細かい血染みを作っている。妹が手首を切った時に飛び散ったのだ。こんなところまで飛び散ったのだ。


「お、にぃ……」


「っ!? ナノカ!? ナノカ!!」


「おにぃちゃ……」


「大丈夫だ! ここにいる! お兄ちゃんはそばにいる!」


 寝言ではない。妹はうっすらと開いた瞳で俺を見ていた。瞳には俺が写っている。


「ごめ……ごめ、さい……

「ごめん、なさ、めん、な

「め、ご……さい……


 堰を切った謝罪の言葉は、どれも外れることなく俺の胸を射抜いていく。


「死ねなくて、ごめん……なさい」


 一雫の涙が、妹の頬を伝った。


 そんなことはない。馬鹿なことを言うな。お兄ちゃんに任せろ。大丈夫だから。もう二度とこんなことをしちゃいけない。


 俺はそんな言葉を脈略なく繰り返したと思う。けれど、力のない空っぽの言葉たちは、妹の耳に届くことはなかった。顔を見ていればわかる。妹は俺の話なんて聞いてはおらず、どうしたら死ねるかだけを考えていた。

 もう、俺という存在は必要とされていなかった。妹に必要なのは、全てを忘れて楽になれる死という概念だけで、それだけを望んでいる。けれど、〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉である妹には安息の死すら与えられない。自らの意思で死ぬことすらできない妹が悲しく哀れで仕方なかった。


 死んで欲しくなんてない。妹は誰よりも幸せになって欲しい。いつも笑顔でいて欲しい。けれど、それが最早手の届かない場所にあるものならば、いっそのこと。妹もきっと同じことを考えたのだろう。だと言うのに、そんな小さな小さな赦しすら、認められないのか。いったいどれほどの苦しみを背負わなくてはならないのか。

 妹の手を握るも、握り返されることはなかった。指先が冷たい。いつしか妹は、美しい蝋人形のように感情を失った眼をした。俺は必死に語りかけたけれど、結局何の返答も得られないまま、妹は目を閉じた。

 死ぬことができないのならば、せめて眠りを。すぐに寝息が聞こえてきた。そして、その表情が苦痛に歪むのもすぐだった。夢の中にも、妹の安らげる場所がないのだ。


 俺はただ、妹の手を握ることだけに執心した。それしかできないし、もしかしたら、また握り返してくれるのではという一縷の希望に賭けて。


 カーテンの向こうでは、弱い雨が降り始めていた。




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