あの月にウサギはいない4

     ◆


 勢いを衰えさせずに振り下ろした傘は、しかし男に止められた。もちろん、彼が一切の負傷をせずに平然と止めてみせたわけではない。顔を庇った彼の右手の平は出血さえしていないものの、ほんの少し皮膚に沈んだ傘の先へ向けて、深い皺が刻まれていた。


「ストップ! タイム! もうやめましょう!」

「……やめると思う? それほど僕は甘い人間じゃないよ。それに、始めたのはお前だろ」

「たっ、確かにそうですが! 分かりましたから!! 君が『ウサギ』じゃないことは分かりましたからもうやめましょうよ!」


 焦り、動揺、苦痛への恐怖。血の気を引かせる類の感情で顔を青白くしている彼に、再び傘を振り上げようとした。けれど、それを察したように傘の先を掴んだ彼の両手が引き剥がせない。ただの狂人かなにかかと思っていたが、今の彼を見る限りそうではないみたいだ。

 それとも、油断をさせて反撃の機会を得る為に演技をしているのだろうか。彼の顔を仮面だと疑い、その綻びを探ろうとしながらも、冷静な声を放った。


「……どうして僕が『ウサギ』じゃないと断言出来る?」

「能力的にですよ! 『ウサギ』の能力は創造、君のものとは違う!」

「『ウサギ』の能力は『そうぞう』だろう? imageとcreate両方を兼ね備えたもの。想像したことが創造される。それを利用して他の能力者を装うことは簡単だ」


 男は、突然笑い出した。僕はその笑い声を警戒し、脅すように彼の右腕を曲げる。彼はそれに対して、顔色一つ変えなかった。先程まで冷や汗を浮かべていた顔は、戦闘時と同じような笑みを形作っていた。


「君が『ウサギ』だとしたら、弱過ぎる」

「弱い……だって?」

「君は自分で自分は甘くはないと言いましたが、甘いじゃないですか。結局目を潰さず、右腕も軽く曲げるだけで折らないのだから。それに、他者を傷付けることが平常心で出来ていない」


 否定は出来なかった。彼の言うことは尤もで、僕に反論を許さない。舌を打つ代わりに奥歯を鳴らして、僕は盛大な溜息を吐く。


「イカレた戦闘狂かと思ったけど、まともな目と判断力を持っているようだね」

「君は思ったよりも冷静すぎる人ですね」

「怒鳴るように否定するとでも思った?」


 はは、と漏らされる渇いた笑いが、図星だと打ち明ける。僕は能力を解いて彼の右腕を解放した。傘からも手を離す。離された傘の持ち手が重力に負けて地面にぶつかった。


「罠かもしれないと警戒していたのでは?」

「もういい。罠だったとしても六時まで足掻いてなんとか生きればいいだけだ。だから好きにしてよ。僕は甘くて弱いから、君との勝負に負けたのさ」


 男は眼窩から眼球を零しそうなほど、瞼を上げた。それから腹を抱えて笑い出す。静かな世界に大きく響いた声が僕の耳を打った。

 至って真面目に返したこちらとしては、これほど笑われると流石に苛立つ。


「いや、面白いですね」

「何も面白くないよね」

「……ああそうでした、君にしたいことがあったんです」


 乾いた音につられて男の方を向くと、皿にした手へ拳を当てていた彼が、微笑んで僕を見ている。しかしその笑顔に含有されているのは、腹の底の黒さだ。

 嫌な予感に口元を引き攣らせたのと、僕の左手が勝手に動いて右手の親指を折ったのはほぼ同時だった。


「ッく……!」

「足を折られた仕返しです。右手の指を一本ずつゆっくりと折っていくので、楽しませてくださいね?」

「この、サディスト……っ後で覚えとけ……――痛ッ!」


 自身の判断を後悔した。彼の目は敵を見る目では無くなったが、滑稽な玩具を見る目に変わって更に危ない事になった気がする。

 思ったよりもまともな頭脳と、高い観察力を持つ彼と和解し、協力者になれればいいと思ったが少し読み違えたかもしれない。


「いやー、指綺麗ですねぇ。ピアノでもしていましたか?」

「――――ッ!!」


 痛みに慣れることはないから、気が狂いそうになる。皮膚の中で骨が擦れているような感覚も、折れた時に腕が痙攣して血管が跳ね上がるのも、気持ちが悪い。このまま痛覚と触覚がおかしくなって何も感じなくなればいいのに。

 ……数秒前まで何を考えていたか、思い出せない。そこまで頭が回らなくなってきた。

 骨が折れる嫌な音が、やけに大きく響いたような気がした。

 自分の悲鳴が不愉快なほど大きくて、容赦なく僕の耳を劈いた。


     ◆


「これでお互い様、というやつになりましたね」

「それは……はぁ……よかったね……」


 右手が痛い。いや、熱い? 痛いのか熱いのか判別出来ないため、両方だとみなす。

 能力を解かれた僕は、男を思い切り睨み付けた。ふざけたように彼は笑うが、生まれつきそんな顔なのかもしれない。常に笑っているような気がするけれど、それが元々の顔と言われればなるほどと納得出来る。

 とはいえ、きっとそんなことはなく、笑顔という形のポーカーフェイスだ。


「そういえば名前を聞いていませんでした。ちなみに私は東雲しののめと申します」

「……紫苑」

「名字ではなく名前ですか?」

「そうだよ……君が、名前を聞いたんだ……はぁ……」


 なるほど、とほくそ笑むと、東雲はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。折れている足は痛くないのか、それとも誤魔化すのが上手いのか、慣れたのか、唇で描かれた弧が消えることはない。


「電話番号とメールアドレスを交換しますか?」

「何……その聞き方。『はい』と『いいえ』っていう選択肢が、出てきそうだね……」

「ゲームみたい、と言った方が早いですよね?」

「じゃあ僕はシークレットの選択肢を選ぶよ。……――何の為に?」


 きょとんとしたように、東雲の目が大きくなる。彼は意外そうに僕を捉えていた。


「おや、私はてっきり、協力者になる流れかと思ったのですが」


 どうやら、考えていた事は同じだったみたいだ。少しだけほっと息をついて、僕も携帯電話を取り出す。


「なら、仕方ないか……。連絡先くらい、知っておきたいしね……」


 赤外線を使って簡単に連絡先を交換すると、僕は自分の携帯の画面を見つめる。知りたいのは時間だ。六時になればこの傷は消え、苦痛もなくなる。早く六時になれと願っていたが、あと数時間はあった。


「それで紫苑くん」

「……君付けなんだ、気持ち悪いね東雲」

「君は遠慮も礼儀も知らないんですか!?」


 別にそういうわけではない。東雲が普通の人間で、出会い方が一般的なものであったなら、年上ということも考慮して敬語も使っただろう。一戦交え、協力者になった今となっては他人行儀な態度をとる方が難しい。

 話が脱線していく空気を感じ取り、彼がもう一度口を開く前に伺った。


「で、用件は? そろそろ帰って寝たいんだけど」

「元の世界に戻されるまで寝ない方が良いのではないですか?」

「痛いからせめてベッドに寝転がりたい」

「負傷してるの手ですよね!?」

「じゃあ君とさよならをしたいから早く用件を話して」

「協力者になったそばから何言ってるんです!?」


 東雲は漫才でもやっていたのだろうか。毎回返し方に勢いと素早さがある。僕の戯言に本気で返しているというか、とにかくすごいツッコミスキルだ。

 テレビなんて滅多に見ない僕としては漫才について詳しくないし、詳しく語られてもうんざりするだろうから東雲には何も聞かないでおいた。


「情報交換をしましょう。他の能力者について」

「全員で八人。僕らを抜いた六人のこと、だよね? 悪いけど、僕は知らないよ」

「それは残念です……。私が知っているのは二人ですね。高校生の少年と、中学生の少女には遭遇しました」


 年齢的には僕とそれほど変わらない。肝心なのは年齢よりも、その能力の方だ。

 東雲が記憶の中を漁るように視線を上に向けてから、僕を瞳に映した。


「高校生の少年の方の能力は不明です。私と戦った時はバットを振るっていました。もしかしたら戦闘に使える能力ではない可能性があります」

「つまりその人は『ウサギ』じゃないってことか」

「隠している可能性もあるのでなんとも言えません。逃げられましたしね。ちなみに中学生の少女にも逃げられました。彼女の能力は自身の髪の毛を自在に操れるものです」


 どちらも『ウサギ』ではないと断言出来ない。そもそも『ウサギ』の能力に謎が多すぎる。想像の創造はいったいどの程度のものなのか。創造出来ないものは何なのか。

 なにより、『ウサギ』の目的が不明だ。分かっている情報があまりにも少ない。


「僕は、『ウサギ』は人兎に混ざってるんじゃないかって思ってるよ。木を隠すなら森、兎を隠すのなら兎の中、じゃあないかな」

「いつもは人兎を狩っているのですか?」

「そう」

「人を傷付けるのが怖いから、ですか? だから自分にそう言い聞かせ人と戦うことを避けているんですかね?」


 出会ってから少しのやりとりでそこまで読めるなんて、驚嘆するほどの観察力だ。言葉での精神攻撃が得意なのか、人を馬鹿にするような笑みを浮かべている。


「三角ってところかな。この世界にはもう何年もいるけど、正直能力者と出会ったのは君が初めて、だと思う。能力者も人兎を狩っているから、仲間のような目で見ていた……かもしれないな。敵になるなんて思っていなかった」

「……ほんと、恐ろしいくらいに冷静ですね君は。私、少し挑発したんですけど。面白みがない」

「それは残念だったね」

「ですが、仲間になれて良かったです」


 それは同感だった。僕としてもこんな性格の悪そうな――いや、訂正。こんな性格の悪い奴を敵に回し続けるなんて御免だ。


「君なら本当に信用出来そうだ」

「あ、そっちか」

「そっち?」


 なんでもない、と呟いて小さく笑う。東雲が信用に足る人間かどうかはよく分からないけれど、利用出来る人間であることは確かだ。恐らく東雲の能力は、視界内の人間の体を操る能力。僕の能力は視界内のモノを操る能力。僕との場合は相性が悪かっただけで、東雲の能力は他の能力者相手なら優位に立てるはずだ。

 東雲がもし『ウサギ』だったなら、どう想像して創造しているのだろう。想像したことの創造が可能なら、どんな能力者にだって成りすませられそうなものだ。協力者になったとはいえ、東雲に完全に気を許してはいけない。


「東雲はさ、どこに住んでる?」

せん市です。ここまでは歩いてきましたよ」


 繊市は、僕の学校がある所だ。電車で二駅もあるここまで歩いてきたと言う彼にほんの少し吃驚した。零時になる前から歩き出していたのかもしれない。

 それにしても登下校中に東雲と会ったら嫌だなと考えていると、問いかけられた。


「紫苑くんはゆみはり市ですか?」

「ああ、まあ、ここだね。わざわざ遠くまで歩いて行くとか嫌だし」


 遠くまで、と口にしてみて、この世界がどこまで続いているのか気になった。『ウサギ』の能力で造り上げられたこの世界だが、『ウサギ』の知っている範囲までしか造られていない可能性もある。


「……東雲。『ウサギ』も、この付近に住んでいるのかな?」

「はい? さて、それはどうでしょう。どのようにこんな世界を創造したかにもよるでしょうね」


 東雲は僕が言いたいことが分かったみたいだ。話が早くて助かる。けれどやはり、『ウサギ』の能力をもっと知らなければならない。

 今度暇な時、どこまで行けるか試してみようか。


「ああ、そうだ紫苑くん」

「なに?」

「君が普通の世界で能力を使うことはないでしょうが……一応忠告しておきますね。能力者を見つけ、捕まえている組織があるそうなので、お気を付けください」


 東雲は怪しそうに言っているが、考えてみればそういった組織が在って当然だ。もし能力者が犯罪でも起こしたら、政府が放っておかないだろう。

 僕は僕以外の能力者に会ったことがなかったけれど、そんな組織があるということは結構な人数の能力者がいるように思えた。しかし周りを見ている限り、少数という感じがしていたから、正確には分からない。

 そういえば、いつのことかは覚えていないが、能力は原因不明の病気みたいなものだ、と言っている人がいた。

 僕は一旦思考を止めて、東雲に微笑を向ける。


「忠告どうも」

「さて、ではそろそろ解散としますか」

「もう話すことはない?」

「はい。もしなにか話し忘れていたら、電話をかけますね」

「メールにしてよ。こっちは学生なんだよ」


 はは、と笑ってから東雲は何故か格好付けたような顔で去ろうとして、顔と上半身だけを動かし小刻みに震え出した。生まれたての子鹿、という比喩が頭に浮かび、全く可愛げのない子鹿だなと苦笑する。けれど立ててすらいないからその喩えは当てはまらないのかもしれない。


「……じゃ、僕も帰る」


 東雲の哀れな姿をじっと見ているのも可哀想かと思い、何も触れずに背を向けた。歩き出そうとした僕の両足が勝手に止まって、不覚にも肩から地面に衝突する。


「東雲お前何してるの」

「六時って、ここ人結構いますか!? これ、もしかして戻った時に『うわーなにあの人ー』『こらっ、見てはいけません』ってなるヤツですか!?」

「知らないよ勝手になっててよ。君が不審者として連行されても僕には関係ない」

「協力者になったばかりですよね!?」


 うるさいな、と思いつつ僕は左手を地面に突いてゆっくりと体を起こす。どうやら能力は解いてくれたみたいだ。


「というかさ、戻ったら零時の時自分がいた所に戻るはずだった気がするんだけど」

「え? そうなんですか? 私毎回シンデレラの気分で家まで戻ってたんですけど」

「……やったね東雲。一歩前進だ。ということで僕は帰って寝るからもう邪魔しないでくれ。僕は眠いんだ。いい? 僕は、眠いんだ」


 大事なことなので二回言って立ち上がり、東雲の前から遠ざかる。

 能力を使いすぎるとすごく眠くなる。今日は相手が能力者だったせいでいつもより集中力を使ったのか、とてつもなく眠い。ちなみに、痛覚がおかしくなってしまったみたいで、手はもう痛んでいなかった。

 家まで歩いて、自分の部屋へ入り込む。ベッドに横になり、『ウサギ』がこの辺りに住んでいるという仮説は成り立たないかもしれない、ということを思案しつつ目を伏せた。

 知っている場所を創造しているのだとしたら、おかしい。家の中まで完璧に再現出来るなんて、無理だろう。つまり『ウサギ』の能力は、見て、知っている必要はないと仮定する。

 だとしたら、こちら側の世界は外国さえも完璧に造られていそうだ。しかし完璧に造られていたとしても、電車も飛行機も車も動かないから意味はないような気がする。

 そんなことばかり考えているうちに、僕の視界は黒く塗られていった。

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