夜深く、庭で鳴きしきる虫の声だけが聞こえる僕の部屋に、由梨花ちゃんが訪ねてきた。

「ちょっと、寝られへんから」

 彼女は言い訳をするようにそう言ってはにかんだ。いつものことだ。三日に一度は必ず、宿のなかが静まってから、この部屋に来る。

 僕は布団は敷いているが入らずに、畳に座って卓に凭れかかり、酒を飲んでいた。由梨花ちゃんは、こちらまで歩み寄ろうとして、ふと窓の前で立ち止まった。窓の向こうの夜空へ、視線を投げている。

「どうしたの」

「月が……」

 由梨花ちゃんは、恍惚の滲む虚ろな口ぶりで呟く。

 僕は彼女の横顔に、

「月が、どうしたのさ」

 と問いかける。

「あんな、月がな、すぐそこで、座ってるみたい」

「すぐそこに?」

「うん」

「……」

 僕の無言に、伝わっていないことを察したらしく、由梨花ちゃんはもどかしそうに、

「ええとなあ、なんていうかなあ。……いっつもより大きいねん」

「ああ。そういうこと」

 納得した僕に、由梨花ちゃんは嬉しそうに頷いて、窓へ身を寄せる。窓枠に半身を腰かけ、ガラスに手を添えて、月ののぼる夜空を仰いでいる。

 僕は、仰向いた彼女の、冷たい感じのするほど静かな横顔から、やさしい首筋にかけてのなだらかな流れを見つめた。黒髪は血に濡れた鴉の羽のように豊麗な黒髪が、首の後ろにかかり影をつくって、腰のすぐ上までたなびいている。

「満月?」

 僕は言いながら立ち上がった。知らぬ間に酔いが回っていたらしく、足元がふらついた。

 由梨花ちゃんは慌てて僕に歩み寄り、僕の胸ほどしかない身体で、僕を支えた。

「大丈夫だよ。いきなり立ったから、ちょっと足がもたついただけ」

 僕はそう言って、示すようにしゃんと立った。

 その様子が可笑しいのか、彼女はくすっと小さく笑った。それから、自分がまだ僕の胸に手を置いたままなのに気づいて、乙女の敏捷さでさっと身を離した。

 誤魔化すように由梨花ちゃんはまた、窓枠の木に小さな尻を半分のせて、夜へ視線を逃がした。彼女の纏う寝間着のワンピースの首は広く、白い肌が清潔を匂わせながら温かく染まるのが見えた。裸が剥き出しになったような烈しい魅惑だった。髪の深い黒との溶け合いが、なお官能を焚きつけるのだろうか。

 なにも言わず彼女の後ろに立ち、身体を少しかがめると、月が見えた。均整な円ではなく、楕円である。満月よりもやさしい。うすい雲がかかり、まだらな星の輝きは鈍い。

 だいぶ落ち着いたらしく、由梨花ちゃんが敷いてある布団にうつ伏せに寝転がり、唐突に軽い笑い声を立てた。

「兄ちゃん、夜はいっつも酔うてる」

「でないと、うまく寝れないからね」

「兄ちゃんの身体、火みたいに熱かった」

 由梨花ちゃんは、恥じらいを微かに含んで、頬をやわらげた。

 僕はふと、紗代ちゃんの身体も熱が迸っているのを思い出した。しかし彼女のそれは生命の燃焼で、僕はといえば陶酔の果ての爛れである。

 由梨花ちゃんの肌はどんなだろう。やはり紗代ちゃんのように熱いだろうけれど、底に冷たさの流れている、あわれな温度だろうか。雪に消えゆく炎だろうか。

「お母さんもな、お酒飲んだら、赤ちゃんみたいにあったかなるねん」

「ふうん。親子が入れ替わるわけか」

「そうそう。ほんまにそうやねん。もう寝ようって言うても、まだ嫌やってぐずんねん」

 由梨花ちゃんは、話しながらその姿を思い出すのか、ころころと笑った。

「ほんでな、うちがお母さんみたいにな、頭撫でたらな、顔溶けそうなぐらい嬉しそうに笑うねん」

「意外だね。僕には見れないいちめんだ」

「うちとか紗代にも、滅多に見せへんけどな」

「そんな可愛い姿、見せてくれればいいのに」

 僕が何気なく言うと、途端に、由梨花ちゃんの眼がぼんやり曇った。

「うちは、お酒飲まへんくても、いっつもそんなんやで?」

 彼女はそう言ってすぐ、はっとしたように唇を結んだ。自分の母親へのささやかな嫉妬も、口をついて出た言葉も、自分で信じられなかったのだろう。

 僕も、由梨花ちゃんの思いがけない激しさに、言葉を失った。

 しかしすぐ、

「知ってるよ。由梨花ちゃんがまだいつも、赤ちゃんみたいなのは」

 と、沈黙を埋めた。

 由梨花ちゃんは、頬を薄ら染めながら、たよりなく視線を泳がせた。その視線は、寝転ぶ彼女へ向いている僕の身体の、爪先の辺りに漂った。

「ほんまに?」

「うん、いっつも言ってるじゃん。急に大きな子どもができたみたいだって」

「そんなん、言ったことないやんか」

 由梨花ちゃんは、安堵の息をもらすように、やわらかく笑った。それから一呼吸おいて、

「ほんならな、兄ちゃん」

 と切り出した。

「うちのどこが赤ちゃんみたい?」

「どこが、か。挙げだすときりがないな、紙とペンある?」

 僕が笑いながら言う。

 由梨花ちゃんは、僕の足元に目を逸らしながら、しかし真剣に、

「もうっ、茶化さんとって」

 とぐずるように言った。

 僕はすかさず、

「今の怒り方とか、幼い子みたいだ」

「もう、またふざけて」

「ふざけてないよ」

「じゃあ、他には?」

「ううん……すぐに拗ねるところとか」

「うち拗ねる?」

 由梨花ちゃんは首を傾げて、しかし嬉しそうに目を細める。

「ほんで、他には?」

「まだやるの?」

「うん、当たり前やんか」

 僕は、いつもは恥じらい深いのに、堰が切れたようにあまえを隠さぬ由梨花ちゃんに、温かい驚きを覚えながら、

「そうだなあ……ジュースはオレンジジュースしか飲めないのとか」

「あれ? なんで知ってるん?」

「この前、自分で言ってたよ」

「あれ、そうやっけ」

 由梨花ちゃんは思い出すように目を伏せて、

「ああ、そうやそうや。でも、兄ちゃんもオレンジジュース好きって言うてたやんか、その時」

「僕も子ども舌だから」

「ふふ、でっかい子どもやなあ。可愛くないわあ」

 由梨花ちゃんが揶揄うような眼差しで、こちらを見上げた。上目をつかう面持ちは、いつもよりもあどけなかった。あまえのせいもあるのかもしれなかった。

 それからも、彼女は自分の幼いところを僕にいくつも言わせて、そのうちにいつしか眠りに落ちた。いつも、眠れないという言い訳などすっかり忘れて、僕の布団で、寝息をたててしまうのである。

 僕は彼女の身体に薄い毛布をかけて、再び卓につき杯を傾けながら、布団の方へ自然と目が惹かれた。

 由梨花ちゃんの寝顔は、それこそ、あわれなほどに幼気であった。いじらしい唇が、咲きかける蕾のように微かに開いていて、そこから可憐な歯がのぞき、ささやくように静かな息がもれている。こころもち垂れた綺麗な眉に、眠りのやすらぎが漂っている。

 寝顔の無垢がはずみになって、さっき並びたてた彼女の美点が、次々と僕の胸に浮かんできた。食事を済ませばすぐにぷっくりと膨らむ真っ白なお腹、紗代ちゃんと言い合っている時の頑強さ、歌を口ずさむときのたどたどしくも清澄な声音……。

 彼女には言えなかったものもあった。湖面のように艶やかなささやかな胸、可愛いくぼみと瑞々しい張りのある掌、なにかを弄ぶときの指のなめらかな動き、触れればかなしい冷たさが流れていそうな首筋……。

 言えなかったものばかりが、蠱惑的に揺らめきながら、浮かんでは消えた。


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