珍しく、紗代ちゃんの起こしにこない朝だった。

 それでも早起きの習慣がつきつつある僕は、目が覚めて窓からさす朝陽を見ると、もう眠れなかった。

 顔を洗って飯を食おうと、階下におりた。

 食堂の隣の居間に、話し声があるのに、気づいた。

 聞こえてくるのは、老いた女と、優子さんの声である。

 客の僕が、見知らぬ来訪者に、挨拶をするのもおかしい。かといって僕が起きてきたことに気づけば、優子さんは話を止めて僕の朝食の用意をするだろう。

 僕はこっそり、食堂に入って座り、息を殺した。話し声が止めば朝食を出してもらえば良い。

 向こうの部屋には、老いた女と優子さんの他に、紗代ちゃんもいるのが、襖越しの気配で感じられた。

「優子、あんたなあ。いっつもそんなことばっかり言うて。たまにはお母さんの言うこと聞きんさい」

「うるさいなあ。お母さんは神経質すぎるんよ。大丈夫よ」

 女は、優子さんの母親らしかった。優子さんの声はいつもより幼げで、紗代ちゃんの声にも、由梨花ちゃんの声にも、どこか似ている。

「神経質て……あんたが大らかすぎるんよ。そのお客さんて、まだ高校生の子どもなんやろ?」

「ちょっと、お母さん、声大きい。起きはったらどないするんよ」

 僕ははっとして、身体を強張らせた。

 僕の話を秘かにしているのを、こうして盗み聞きするのはいけない気がしたが、しかし今から出て行くのも憚られる。かといって、部屋に戻って寝ていたふりをするのも、途中で気づかれそうでおそろしい。

 結局僕は、じっと座り込んだままでいるしかなかった。

「だいたいなあ、お母さんの言う通り、高校生なんて子どもや。せやから、あの人が紗代とか由梨花にようしてくれはんの、お母さんがそんなに危ない危ない言うてる、意味がうちには分からへん」

「なに言うてんの、子どもやから危ないんやんか」

「なんで? ばあちゃん。兄ちゃんなんも危なないで?」

 紗代ちゃんがいじらしい声で不思議そうに言う。

 優子さんがそれに続けて、

「せやなあ。ええんよ、紗代はなんも気にせんで」

 と、微笑みの見えそうなあまい口ぶりで言う。

 すると紗代ちゃんの祖母は、優子さんの言葉など聞こえてないように、

「ええか、紗代。危なあ見えん人ほど、危ないもんや。他所から来た人なんか、なに考えてるか分からへんよ」

 優子さんがすかさず、いつになく鋭い声で割って入る。

「ちょっと、やめてよ子どもにまで」

 祖母は、優子さんの気迫に驚いたのか、一瞬言葉に詰まってから小さく答える。

「なんや、心配して教えたってんのに」

「押しつけがましいこと言わんとって。そんなアホなこと、うちの子に教えてくれんでよろし」

「うちの子て、紗代はうちの孫でもあるんや。なんかあったらたまらんわ」

「お母さんの孫であるよりも、うちの子や」

「おおそうや。あんたと、畜生の子や」

 祖母が、憎らしげにそう言った、その瞬間。机を強く叩く音が響いた。

 重い静寂が流れる。

 優子さんが、声を震わせてゆっくりと呟く。

「お母さん、ええかげんにして。子どもの前で、怒鳴らさんといて」

「子どもの前で怒鳴らんで、どうする」

 祖母は一応は言葉を返したが、もうすっかり、さっきまでの勢いは失っていた。紗代ちゃんの声もなかった。きっと、わけもわからず空気の重さだけを感じ取って、むっつり黙り込んでいるのだろう。

 それから二人は、野菜の売値や山に出た大きな猪のことなど、他愛ない会話を、盛り上がりもせずに淡々と交わした。最後には、祖母が気まずそうに、宿を出て行った。

 玄関まで彼女を見送った優子さんと紗代ちゃんは、居間に戻ってくるなり、気を紛らわせるような明るい声で、

「母ちゃん、今何時?」

「ええと、十時前やね」

「あかん、兄ちゃん起こしたらな。祖母ちゃん来たから、つい忘れてた」

「ちょっと待ち、紗代。あんた毎日毎日兄ちゃん起こしてるけど、迷惑とちゃうん?」

「迷惑ちゃうよ。だって兄ちゃん、いっつもすっと起きるもん。母ちゃんみたいに二度寝せえへんもん」

 僕は襖越しに紗代ちゃんがそう言うのを聞きながら、微かに苦笑した。素早く起きるのは、そうしないと紗代ちゃんが、僕の睫毛を抜こうとしたリ、腹の上に飛び乗ったりするからだ。また、優子さんはそんなことをされてまで、二度寝に耽るのであろうか。

 と、そんなことを考えている場合ではなかった。さすがに、もう隠れきれない。部屋に起こしに行くと誰もいない、というのは、あまりにばつが悪い。

 僕は、いたたまれない気持ちで胸がいっぱいになりながら、襖を開いた。

「もう起きてるよ、紗代ちゃん」

 そう言って僕は、曖昧に笑みを浮かべて、優子さんに会釈した。

 優子さんは目を丸くして、ぽかんとしている。

 その一方で、紗代ちゃんが驚きに勢いづいてはしゃぐ。

「うわあ、びっくりした! お化けか思った」

 僕は、紗代ちゃんにも笑みで応えてから、すぐに優子さんへ向き直る。気まずさに襲われながら口を開く。

「すいません。僕の名前が聞こえて、ちょっと顔を出しづらくて……」

「はあ」

 優子さんが、気の抜けた声を出してこちらをぼうっと見つめる。それからすぐ、目に生気が戻り、顔が薄く染まる。

「あ、ああ……」

 言葉にならぬ声をあげて、

「き、聞いてた?」

「いや、まあ、途切れ途切れ、ですけど……」

 そんなはずはないことは、優子さんにも分かったのだろう。彼女はますます気恥ずかしそうに目を伏せて、

「ごめんねえ。気い悪いこと聞かせて」

「いえいえ、そんな」

「うちのお母さん、厳しい人やから……」

「ええ」

 僕は、優子さんのあまさを感じた。

 盗み聞きされていたのに、不快げな様子を微塵も見せず、むしろ醜さを吐露したように恥じらっている。

 それに、さっきの話でもそうだ。見知らぬ若い男への態度としては、優子さんよりも、むしろ祖母の方が、尋常の感覚であるように思える。

 僕はふと、祖母の呟いた、畜生という言葉を思い出した。そう蔑まれるような男を優子さんは受け入れ、子を二人産み、そして今では、男はいない。これもまた、優子さんのあまさだろうか。優子さんの心のやわらかさで居心地よい生活を送るにも関わらず、こんな風に考えるのは悪い気がして、僕はもやつく頭を努めて空っぽにした。

「でもなあ、兄ちゃん」

 紗代ちゃんが、胡坐をかいている僕の腿の辺りに座りながら、

「ばあちゃんもなあ、よう怒って怖いけどなあ、よう笑ってええ人やねんで」

 紗代ちゃんの清純が、胸に涼しく流れた。

 祖母や優子さんや畜生と呼ばれる男、そして僕、汚れたものの絡み合うなかで、紗代ちゃんの清らかさは眩かった。

 優子さんと例の男から、この命が生まれたのは、ありがたい奇蹟に思えた。

 父と母から生まれ落ちて、しかし父と母の汚濁に染まらぬのは、少女の神聖な力だ。

 僕は微笑みながら、

「そうだね。いい人にきまってる」

 と言った。

「優子さんのお母さんで、紗代ちゃんのお祖母ちゃんだ」

 自分でも思いがけぬ朗らかな声であった。

 優子さんも冴えた表情を取り戻して、話を変えるように、

「ああ、せや。あんさん、朝ごはんやね。すぐ用意するね」

 と明るく言った。

「ああ、どうも。それでおりて来たんだった」

 僕も同調するように笑顔で応える。

 優子さんは紗代ちゃんに目をやり、

「ほれ、もうできてるから、運んでおいで」

「ええ? なんでうちが」

「ええから、ほれ」

 優子さんは紗代ちゃんの肩を軽く叩いた。

 紗代ちゃんが、不服そうに唇を尖らせて立ち上がり、ぱたぱたと駆けていく。

 それを見送って、優子さんはこちらを向き直った。

「気にせんでね」

「え?」

「せやから、気にせんでねって。お母さんの言うたことね。いつまでも、ゆっくりしていってくれて、ええからね」

 そう言って微笑む優子さんに、過ぎ去りし少女の頃にあったのであろう、弾けるような瑞々しさが、色褪せてちらついた。紗代ちゃんと同じ血の流れを、まざまざと目にするようであった。


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