XII 決定打

 終わりが見えない梅雨のぐずついた天気。体育倉庫のトタン板で雨粒が踊る音や窓を伝う流星群、無数の宝石を乗せた紫陽花なんかが素敵で、私はこの季節が好きだった。

 辺りには、五月の薫風をそのまま雨に溶かしてしまったような、湿っぽい緑の匂いが立ち込めている。思い切り深呼吸をすると、私の身体もそのまま湿気の中に溶け込んでいくような気さえするのだ。


 しかし、低気圧に弱い後輩はどうやらそうは思わないらしい。


 文庫本を鞄から取り出すことすらできず、ふらふらと部室に来てパイプ椅子に腰掛けてからそれっきりである。貴重な後輩の弱った姿を見られてラッキーなどとは思っていない、と断言すれば嘘になるが──流石に心配なのは事実だった。


「……後輩くん、大丈夫? 体調悪かったら今日は帰っても──」


「……はい?」


 ──今まで聞いたことがないくらい、苛立って棘を含んだ声。


 まぁ、所謂、八つ当たりである。


 しかし人と関わりの少ない私は、八つ当たりであることは分かっても八つ当たりをしてくる人間に取るべき態度というのは分からない。何にも気付かなかったふうを装って話を続けるより他ないのである。


「ああいや、ほら、偏頭痛とか酷いのかなぁって……ここのところずっと雨じゃない?」


「その腫れ物に触れるような喋り方やめてくれません? 俺、別にナイフみたいに尖ったりも触れるもの皆傷つけたりもしませんけど」


「そんなつもりじゃ……後輩くん駆け落ちしようとして駅で殴られたり仲間がバイク事故で死んだりしないでしょ」


 ララバイララバイ……って、よくそんな古い曲を知ってるな。


「当たり前でしょう。俺を何だと思ってるんです。あと今は平成ですよ」


「先にその話を振ってきたのは後輩くんでしょう」


「そうでしたっけ? 頭痛が酷くなるんで静かにしてもらえませんかね。まぁそもそも頭痛のタネは先輩だと言っても過言ではないですが」


「ねぇ! 今日の後輩くん入部当初より私に当たりきつくない!?」


 ロマンティックも真っ青な後輩の気まぐれ加減に、流石の私も猛抗議である。実は私はあの曲を聞いたことはないのだが。

 ……家に帰ったら聞いてみようと思う。


「そんなことないですよ。先輩の気の所為じゃないですか?」


「気の所為じゃないよ! なんで? お腹空いてるの? それとも更年期なの?」


「なんでその二択なんです。気圧ですよ、気圧」


 そう言うなり後輩は巨大なため息をつき、机に再び突っ伏してしまう。……ため息をつきたいのは私の方だ。

 窓の外では、嘲笑うようにまた雨粒が踊っていた。



 こんな天気と後輩の機嫌では執筆も捗りそうにないし、私は潔く大学ノートを閉じてペンを置く。この梅雨が明けたらこんな時間を過ごすことも出来なくなるというのに、こんなふうに後輩と話ができないまま時が過ぎていくのは──仕方がないこととはいえ、やはり、少し寂しい。


「……ねぇ、後輩くん、去年はそこまでじゃなかったよね、この時期。体力落ちてるんじゃない? ちゃんとご飯食べてる?」


 多少の恨み節も込みでそんなことを言ってやると、先ほどとは打って変わって、後輩にしてはかなり愛想の良い声が返ってくる。


「ちゃんと毎日三食食べてますよ。心配しないでください。それにしても、まさか先輩からそんな体育会系みたいな言葉が出るとは思いませんでしたね」


 ……誰だ、この機嫌の良さそうな声の主は。少なくとも私の知る後輩の声ではない。確実に。


「あのー……後輩くん?」


「何です。どうせ用もないだろうのに呼ばないでくださいよ」


 ──後輩の機嫌、山の天気と乙女心より移ろい易し。


 というかこんなふうに、機嫌を顕にしてくる後輩というのがまず以前なら考えられなかったことだ。顔を伏せていて表情が分からないのが大変惜しい。

 ──が、ともあれ後輩が何を考えているのかはさっぱり分かりそうにない。私は深いため息と共に乙女心の理解を諦める。そして、もともと今日後輩にする予定だった話をすることにした。


「後輩くん。そういえばね、今年度の部誌が刷り上がったんだ」


 伏せたまま「そうですか」と返ってくる、かと思いきや──意外にも後輩は、顔を上げてこちらを見る。

 そして、気まずそうに目を伏せた。


「その節は……その、どうも」


 らしくもないことを言う。

 もっともあの一件では、後輩は徹頭徹尾らしくもないことしかしなかったが。


 それが今ではすっかりらしいことばかり目にするのが、彼にとって良いことなのかは──正直、分からない。


「やめてよ。もともと私が悪いんだから」


 あれを読まれた以上、後輩は全て知った上で私に変わらず接してくれているということになる。私が彼に抱く感情、それが皮肉にも、私の自慢の文章力が遺憾無く発揮されて、赤裸々に描写されたあの文章を読んでもなお。

 あれは──あの物語は、あんな暴力的な形で彼に読まれる筈ではなかった。読まれるべきではなかった。もっとちゃんと時間を重ねて、少しずつ分かりあって、ただそこに彼が以前知りたいと言った感情が存在したことを伝えたかった。今となっては、叶いようもないことだ。

 物語に罪はない。作者の私に罪があるだけだ。

 それでも、役目を果たせないまま意味を失った物語がどこへ消えるのかを考えずにはいられない。あの物語が、私に重なるような気がした。──夏が来て、後輩に対して為すべきことも為せぬまま、『先輩』という接点、彼にお節介を焼く免罪符、それらを失ってしまうかもしれない、私の姿に。

 ──物語というのは、有りようまでも作者に似るのかもしれない。


 漂いかけた重い空気と梅雨の湿気を払うように、私はつとめて明るく言った。


「ちなみにねぇ、後輩くんのゴーストライターで書いた話はこれ」


「本当に書いてくれたんですか。すみませ……………………何ですか、これ」


 降りしきる雨が凍って雹に変わりそうな、絶対零度の後輩の目線。……私は目を逸らし、鳴らない口笛を吹く。


「……念の為確認してあげますけど、これは俺の名義で載るのが分かっててやったんですよね?」


「……」


「来年以降も部室に残り続けて、事によっては未来の部員に読まれるんですよね?」


「……」


「先輩?」


「……ふふっ」


 限界だった。

 堪えてた笑いが一気に吹き出す。あははははは! という如何にもな自分の笑い声が廊下に響くのが分かった。


「だってゴーストライターだもん、何書いたって私の自由だよ……ふふっ。あー、面白い」


「今、物凄く退部したいんですけど。退部届けもらってきていいですか? こんな人が仮にも俺の先輩だなんて信じたくないんですけど」


 じっとりとした視線を送ってくる後輩を余所に、私は机を叩いて笑い続けた。いつも私をからかってくる後輩に巨大な仕返しをできたことが面白くて堪らなかった。


 本当は、このあまりにも巫山戯たタイトルの物語は、部誌が刷られる頃にはこれを後輩に見られて大笑いできるくらいには良い関係になれていればいい、という切実な祈りを込めて書いたものなのだが──そのことは、後輩には内緒にしておこうと思った。


 そうか。この物語は──ちゃんと、役目を果たせたわけだ。



 ──そんなことを考えていると、ふと後輩が真面目な顔をしてこちらを見ていることに気がついた。


「どうかした? 後輩くん」


「どうかしたかって言われると俺名義でこんな話を書く先輩の頭がどうかしてるんですけど、そうじゃなくてですね」


 おうおう、随分と言ってくれるな、後輩。


「今日……というかここ最近ずっと、その……先輩に対する態度がおかしくて、あの……」


「うん?」


「……すみません、みたいな」


 蚊の鳴くような声で、ぼそりとそう言う。

 雨の音に掻き消されて耳に届いたかも怪しいが、私には後輩の言っていることがちゃんと分かった。


「君の先輩に対する態度がおかしいのは入部当初からだけど、それはさておき」


「茶化さないでくださいよ」


 意趣返しをしてやると、あからさまに不機嫌な顔をする後輩。ごめんごめんと適当に謝りつつ、私は話を続ける。


「それはさておき、どうしたっていうのさ。自覚があったのには驚いたよ」


 すると後輩は、困ったような顔をする。


「その……何を言ってるか、分からないと思うんですけど」


「うん」


「…………この間までどんなふうに先輩に接してたか、ちっとも思い出せないんです」


「…………」


 後輩が何を言っているかは──とてもよく分かった。


 だって、あまりにも知った感情だ。もうどれ程の付き合いになろうか──痛いほど切実に蔓延って、何もかもを食い破って暴れ回って、暴走して、誰かを傷付けて。

 それでも尚、それ以外の全部を偽物にしてしまうような。


 そんな、傲慢の権化みたいな感情を、更に傲慢にも彼に望んだ。あの夏の日からずっと、望んで止まなかった。ご都合主義を描いて、彼のためだと偽って、まるでのような態度と笑顔で一年彼の向かい側に座り続けた。


 そのご都合主義が、今、目の前にある。


「……後輩くん。それは…………」


 言おうとして、思い留まる。


 想像したのだ。感情をよく知らない、後輩の抱えるそれを。


 あれは、去年の晩夏。

『だとしたら、感受性や感傷に影響されない感情――ただその感情としてのみ純粋に存在している、感情のままの感情というものを、この後輩は持っているのかもしれない』

 そんなことを考えたではないか。


 きっと後輩の感情にはまだ名前がない。後輩が本で知った感情の名前と実際の後輩の感情、それが全くと言っていいほど結びついていない。

 だとしたら今の後輩は、快か不快かすら分からぬ、ただ巨大で苦しいだけの、胸に詰まる塊を抱えて生きていることになる。その感情の名前も知らないまま、『自分には感情がよく分からない』という思い込みのもとにそれを押さえつけて暮らしているのだ。


 それが、どんなに息苦しいことか。


 増して、今まで感情を自覚してこなかった後輩のことだ。それがどんなに重くのしかかるかは、想像に難くなかった。



「それは、何です?」


 後輩に尋ねられ、私は我に返る。


「ごめん、やっぱり何でもないや」


「……そうですか」


 何がきっかけだったのかは分からない。ただ、私の存在が、行動が──後輩に「やっぱり何でもないや」では済まない決定的なものを与えてしまったのは、どうやら確かなようだった。

 


 気付くと、雨はもうすっかり止んでいた。


「……後輩くん。今日はこの辺にしよっか、部活」


「そうですね。雨も止んだことですし」


 雲の隙間から日が差す。湿気を含んだ空気が、一気にムッとするような熱気に変わる。


 夏がもう、すぐそこまで来ている。


 蝉の声と共に彼の感情のことを聞いた、去年の夏。吹き抜ける風と四角い青空、古紙の香りだけが愛おしかった。


 しかし、互いに抱いたものを知ってしまった今──もう、あの頃には戻れない。

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