Ⅸ 「春に」

 ぱちり、と目が合った。



 部室を覆っていた冬の冷気もだいぶその手を緩め、パイプ椅子に腰掛ける時に一瞬躊躇わなくても良いくらいには春の兆しが見えている。日差しはどこまでも穏やかで、平和そのものを象徴しているように思える。居眠りをする野良猫がそのまま微睡みの中に溶けていってしまいそうだった。


 しかし、そんな初春の麗らかな空気とは裏腹に──部室には、未だ若干の気まずさが立ち込めていた。


 ただでさえぎくしゃくした空気の中に、予期せず視線が合ってしまったことでまた気まずさが重なる。後輩は露骨に嫌な顔をした後、何も言うことなく読んでいた本に視線を戻した。



 ──そう、「露骨に嫌な顔をして」、だ。



 以前ならこんなことは有り得なかった。ふと本から顔を上げた拍子に目が合ったとしても、何事もなかったかのように再び活字に目を落として終わり。そもそも、後輩の表情に感情らしい感情が滲むこと自体が稀だ。……否、稀だった、と言うべきに、これからなるのだろうか。



 困った私は、狭い部室にひとつだけの窓の外に視線を遣った。どうにも、先の発言やら目の遣り場に困ったり何だり、ふとした時にこの窓の外を見る習慣がついてしまっていることに気付く。


 ──そういえばあの夏休みも、こうして窓の外に目を遣って、時候の話から始めたものだ。



「…………もうすっかり春だねぇ、後輩くん」


 あの夏をなぞるように、そう話しかける。


 冬が終わって春が来て、少しすればまた夏が来る。もうすぐあれから一年が経とうというのに、こんなふうに手探りで後輩との話題を探して──まったく振り出しに戻ってしまったような気分だ。



 ──顔を上げた後輩の表情は、淡く優しい初春の空の色とは全くもって対照的な、まるで珈琲豆を噛み砕いた直後のようなそれだった。


「はぁ。そうですね。で、それがどうかしましたか?」


「……後輩くんは春に親でも殺されたの?」


 前言撤回。振り出し以下である。

 ……というか、いつもの調子で軽口を叩いてしまった。


「いえ。春は嫌いなんです、花粉症なので」


「あぁ、そうなの……」


 まあ、花粉症なら納得だ。花粉症の人たちはいつも春が来るのを憂鬱そうにしているし。


「ところで後輩くん、今は何読んでるの?」


「小林泰三の『忌憶』です」


「うん、明るい話じゃないのは伝わってきた。春なんだからもう少し楽しい話でも読めばいいのに」


「……それ、先輩に関係ないですよね?」


 ──お手上げである。

 私は後輩に隠れ、小さく息を吐いた。




 もう意味なく自責の念に囚われたりなんかせず後輩の為にやれること全てやる、そう決めた筈なのに、後輩をこんなふうにしてしまったのは私だと思うとやはり胸が痛む。


 後輩は、いったいどういう心境で、こんな素っ気ない言葉を吐き出しているのだろう。


 ……否、それが分かれば苦労しないだろう。私も、後輩自身も。



 ──不意に、ぱたりと文庫本を閉じる音がした。


 普通に閉じたにしては些か大きな音に少し驚いて、顔を上げる。後輩は無表情のまま細く長い息を吐き出すと、そのまま机に突っ伏した。


「後輩くん、調子悪いの?」


 彼のあまり見ない挙動を不思議に思い、声をかける。


「すこぶる悪いですよ。ここに来ると特に。胸の辺りに悪いものが溜まっている気がします」


 くぐもって返ってきた声は酷く不機嫌そうだ。この間部室で話した時を彷彿とさせる棘を含んでいる。──また少し胸が痛んだ。


「……そーかい。気圧のせいかもねぇ」


 返す言葉が見つからず、わざと的外れなことを言ってみる。


「先輩はいいですね。気楽そうで」


「ん、そう見える?」


「ええ、春のように」


「『春のように』の使い方間違ってない? 文芸部員」


「合ってますよ、文芸部部長」


 良かった。少しだけ以前のような軽口の応酬が出来て、私はほっと息を漏らした。




 それにしても、だ。


 一体この先、私はどうすればいいのだろう。

 こうして会話を重ねていれば、或いは元の関係にとてもよく似た関係に、戻れるのかもしれない。

 けれどそれでは駄目なのだ。元の関係にとてもよく似た関係──というのはあくまで私から見た話であって、感情を自覚してしまった後輩にとっては、私に限らず、二度と以前と同じような人間関係を築けはしない筈だ。それならば相応の責任を持って、きっと自分の感情を上手く理解出来ていない後輩を、どうにかして助けたい──とは思うのだが、如何せん具体的に何をしたらいいのかさっぱり分からない。


 きっと、胸の辺りに悪いものが溜まっている気がする、と言ったそれが何らかの感情なのだろうが──その感情の名前を知る術は、私にも、まして後輩にも、ある筈はなかった。



 私はもう一度窓の外を眺め遣る。ふと、どこかで読んだ詩を思い出した。

 ──「あしたとあさってが一度にくるといい」「ぼくはもどかしい」──。

 何かしなければ、どうにかしなければ。そんな気持ちばかりが募って、何も出来ないことが──ひどく、もどかしい。

 生命いのちが一斉に芽吹いて何もかもが動き出す中で、私だけが何も出来ないまま。あまりにも穏やかで残酷なまでに優しい陽だまり──この狭い部室の安心感によく似たそれにはぐらかされ、いつしか夏が訪れてしまうのではないか。そんな気分になる。



 それはそうと、先程の詩。あれは誰のものだったか。普段は詩など読まないので、読んだとすれば国語の教科書だろうが──はて、さっぱり作者と題が思い出せない。

 後輩なら覚えているだろうかと、詩のことを聞こうとして口を開きかけた、その時だった。


「そういえば、先輩。部誌はどうなりました?」


 ────、部誌。


 無意識に避けていたワードにあっさりと──いや、あっさりとかどうかは後輩本人しか知らないことだが──触れられ、少なからず動揺する。何せ、全ての発端は、私が部誌掲載用に書いたあの物語なのだから。


 心の揺れを悟られないように目を逸らしながら、私は正直に答える。


「ああ、部誌ね……〆切は先週だったんだけど、一ヶ月延ばしてもらったの。適当な短編でも書いて載せるよ」


「そうですか」


 ……分かってはいたが、素っ気ないことだ。自分で聞いた癖に。

 まったく先輩は悲しいよ、と冗談めかして口の中で呟き、続ける。


「あっそうそう、後輩くんは書いても書かなくてもいいからね」


「…………え?」


 文庫本から顔を上げ、少し目を見開いたままこちらを見つめる後輩。今度は露骨に嫌な顔をして目を逸らすことはしない──。


 ……あれ以来、見たことのない後輩の表情を幾つも見られて、性懲りも無くこの胸は高鳴るのだから──本当、私という奴はどうしようもない。この恋愛感情も私と同罪だ。全てこの淡い春色のせいにしてしまうことは出来ないと分かっているから尚更──。

 強いて言えば全てはこの窓から見えた四角い夏空のせいだが、残念ながらその夏はまだ遠い。


「もし書けたら〆切当日の朝までに私に渡してくれたらいいよ。媒体問わず二万文字以内ね。書けなかったらそれはそれで」


「──……いいんですか?」


 依然として驚いた顔をしたままの後輩のその表情を、ちゃっかり瞳に焼き付ける。そして、穏和な春の午後の日差しにおよそ似つかわしくない、ニヤリとした笑いを浮かべてみせると──言った。


「ゴーストライターって知ってる?」


「うわぁ職権濫用」


 私の渾身のノリも虚しく、絶対零度の視線を容赦なく浴びせる後輩。私はめげることなく「そう! 職権濫用!」と継続を試みたが、そちらは完全に黙殺された。


「……というか」


 後輩が、半眼で言う。


「そんな手があるなら最初から言ってくださいよ。ちょっと真面目に考えちゃったじゃないですか」


「いや本当は後輩くんが書くべきなんだからね? バレたら顧問に怒られるもの」


「じゃあ損害ゼロですね。……って、うちの部に顧問なんていたんですか?」


「ごめん嘘」


 後輩の非難の目線を他所に、私はこれ見よがしに文庫本を取り出して涼しい顔で読んでやる。いつも小馬鹿にしてくる後輩についに一矢報いることが出来て私は満足だ。……損害ゼロという言葉は聞かなかったことにする。



 ──以前と、何も変わらないやり取りだった。

 冬の間止まっていた生命たちが、春が来れば何事もなかったかのように動き出すように、この部室での時間も、あの冬の日のやり取りが嘘のように流れている。ともすれば、この日常に安心してしまいそうなくらいに。


 だが、この時間を後輩は──以前のように、それなりに楽しいものだと思ってくれているのか? ……恐らく、否だろう。「すこぶる悪いですよ。ここに来ると特に」──先程の、後輩の言葉が蘇る。


 ──と、そんなことを考えていると。


「……ふふっ」


 不意に、長机の向かいから、思わずといったふうに漏れた笑い声が聞こえた。


 この状況にどこか既視感を覚えながら、私は読んでもいなかった文庫本から顔を上げる。


「……どうしたの、後輩くん」


「すみません。つい可笑しくて」


 そこに在ったのは、春の陽に相応しいような、純粋に楽しくて笑っているような──そんな、笑顔だった。彼のこんな顔を見たのは、まさにその既視感のもとの秋以来だろうか。……否、その時よりもどこか純粋で、しかしそれ以外の感情もその裏で鳴りを潜めているような、そんな複雑な印象を受ける笑顔だ。


 少しばかり安堵した私は、つい意地の悪いことを聞く。


「そりゃ良かった。ここに来ると特に調子が悪い──っていうの、解消した?」


 ほんの少し、からかっただけのつもりだったのだが──返ってきたのは、思いのほか真面目な回答だった。


「…………自分でも、よく分からないんですよね」


 こちらを真っ直ぐに見つめ、言葉を紡ぎ出そうとする後輩を──私は、彼を見つめ返して待つ。


「──『よろこびだ、しかしかなしみでもある』『いらだちだ、しかもやすらぎがある』『あこがれだ、そしていかりがかくれている』……自力で言語化出来なかったので、詩の引用なんですが。伝わりますかね……」


 その詩は、まさに私が後輩に題を尋ねようと思っていた──明日と明後日が一度に来るといい、というあの詩だった。


 何か嬉しいような衝動が込み上げてきて、私は後輩の言った部分の続きを諳んずる。


「『心のダムにせきとめられよどみ渦まきせめぎあい』『いまあふれようとするこの気もちはなんだろう』──だよね?」


 一瞬驚いたような顔をした後、顔を綻ばせる後輩。──ああ、こんな表情も初めて見た。


「よく分かりましたね。先輩あんな成績ですし、昔授業で少しやった程度の詩を覚えてるとは思いませんでしたよ」


「酷いなぁ」


 少し膨れてみせると、後輩はまた「すみません」と笑う。決して大袈裟な表情の変化ではないが、それでもこうして感情が表情に滲み出るのは──きっと、彼の中でも何か変化があったのだろう。


「でもね、私さっきからこの詩のタイトルが全然思い出せなくて。何だったっけ、これ」


「ああ、やっぱり先輩ですね。安心しました」


 ……一度、年功序列は都市伝説などではないと教えるべきだろうか。


「──『春に』じゃないですか。谷川俊太郎の」


 ──ああ、なるほど。


 妙に合点がいった。奇しくもこの季節の題がついた詩──どうりで不意に思い出されるわけだ。

 そして、妙に私たちの心情と交わるのも、きっと偶然ではないのだろう。


「とにかく、何となく言いたいことは伝わりました?」


「うん、とてもね」




 何となく、ただの憶測に過ぎないのだが──後輩の感情について、思ったことがある。



 彼の中にはきちんと感情が備わっている。それは、以前も、今も同じように。だが後輩は、それを自覚出来ずに、自分には感情が分からないなんて思って生きてきた。


 後輩の感情に対する無自覚は、もしかすると、感情と、感情の名前が、彼の中で結びつかない──とか、そんな理由じゃなかろうか。

 生身の人間とあまり関わってきたようには見えない後輩は、もしかしたら、本の中で得た「感情」という知識と、自分の中に在る感情とが、結びつかなかったのではないだろうか──なんて。


 勝手な憶測に過ぎないのだが。




 私は徐ろに立ち上がると、ゆっくりと窓辺に歩み寄る。窓枠に手を掛けたあたりで、花粉症らしい後輩の「ちょっ、それだけは勘弁してください」という声が聞こえたが、無視して窓を全開にする。少し空気の淀んでいた部室に、生温い風が流れ込んだ。


 外を見ると、はち切れそうなまでに膨らんだ蕾が、まるで、今にも溢れ出しそうな私たちの感情のようだった。



 ああ、こんな日には、どうしても改めて思い知らされてしまう。

 手探りで感情と付き合おうと頑張っている後輩に。またここに戻ってきてくれた後輩に。少しずつ表情の増す後輩に。



 ──私はこの人に、惹かれている。

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