Ⅶ あの夏の日の記憶(後編)

──完全に、ネタ切れだった。


 好きな小説家の話は初めにした。特に好きな一冊の話も、その翌日くらいにした。互いに好きな本を持ち寄ってみたりもしたし、挙句の果てにはレーベルごとの特徴なんて話もした。


 それはそれで楽しくはあるのだが、これではただの本好きの読書談義である。後輩のことを知るという目標には至れないし、何より読書談義もそろそろネタ切れだ。何か新しい会話のきっかけを探さなくてはならない。


 とにかく、振る話題がなくなってしまった私は、ひたすら読書をするだけの文芸部員とは言い難い部活動に戻ってしまった後輩を尻目に、悶々と執筆をするより他ないのであった。


「……暑いねぇ、後輩くん」


「そうですね」


 もちろん時候の挨拶から会話が続くほど、私たちは会話上手ではない。


 夏休みも半ば。

 蝉時雨は一層騒がしさを増し、耳を劈く蝉の声は容赦なく降り注いでくる──正に蝉だ。この言葉を最初に考えた人に尊敬の念を贈りたい。

 開け放った窓を閉めたくなるような五月蝿さだが、かといって本当に窓を閉めてしまえばきっと、無風となった部室でムッとするような夏の熱気に押し潰されてしまう──どこか遠く、意識ごとあの高い空と夏草の向こうへ飛んでいってしまう。窓から時折吹き込む風と、それが連れてくる夏の匂いだけが、私をこの部室に繋ぎ止めているのだった。


 ──こんなにも蝉の声が五月蝿いのに部室は妙に静かで、時折後輩が文庫本のページを捲る音だけがやけに響いていた。


「──あっ」


 突然、後輩が声を発した。

 後輩の方から声を発するなんて珍しいこともあるものだな、と思いながら私は尋ねる。


「どうした、後輩くん?」


「いや、別に大したことじゃないです。今この本を読み終わったんですが、次に読む本を自宅に忘れてきたのを思い出して」


 それこそ珍しいこともあったものだ。彼の鞄なんて、いつも五冊は文庫本が入っていた筈だが。


「…………暇になっちゃいましたね」


「いや、同意を求められても、別に私は暇じゃないけどね」


 ──こんなふうに軽口を叩けるようになったのは、確かにこの夏の進歩ではあると思う。けれど結局私たちの会話は互いの表層をなぞるばかりで、互いをよく知るには至れないままだ。


 焦るようなことではないのは分かっている。焦ってどうにかなるような話ではないのも分かっている。けれど、一度気になり出してしまったからには、無表情な後輩の、その内面を見たい、知りたいという好奇心が、さながらあの入道雲のように沸き立って止まないのだ。


「そうだねぇ……私の鞄に入ってる本を貸してもいいんだけど、シリーズ物の七巻なんだよね。それにあんまり後輩くんが好きそうなジャンルの本じゃないし」


「ミステリが好きとは言いましたけど基本的には乱読派なので、ジャンルはいいんですけどね。シリーズ物の七巻っていうのは流石にちょっと」


「だよねぇ」


 なるほど……乱読派、と。


 こんな些細なことも心の内に書き留める程度にはこの後輩に興味を持っている私が、自分でも少し意外ではある。そもそも私は、後輩相手に軽口を叩いてはいるが、そんなに他人と会話をする方ではないのだ。こうも他人の内面を知りたいと思うことが相当に稀な出来事なのである。


「ていうか、後輩くん。読むものがないなら書けばいいんじゃない? 文芸部だし」


「え、俺がですか? 無理ですよそんなん」


 なんで文芸部に入ったんだ。


「じゃあ……あ、そこに山ほど積み上がってる部誌でいいじゃない。クオリティは正直保証しないけど」


「面識がないとはいえ先輩になんてことを」


 こっちの台詞だ。


「……部誌っていうなら、俺としてはが気になってるんですが」


「え、どれどれ?」


「それです」


 彼が指さす方向にあるのは、長机の上に乱雑に広げた、私のネタ出し用の大学ノートと原稿用紙の束であった。散らかり具合や完成度なんかを考えても、とてもじゃないが他人に見せるような代物ではない。


「あのさ、一応確認なんだけど……それっていうのは、この、ゴミの山みたいになってる原稿用紙の束のこと?」


「なんで唐突に自虐するんですか。それですよ。俺も一応本好きですし、先輩が何書いてるのかは正直気になってたんです」


「────えっ、あ、そう……なんだ」



 一瞬——ほんの一瞬、蝉の声が消えて、静寂が私の身体を駆け巡って支配した。



 一体全体、何だっていうのだろう。


 ひと夏かけて、この無表情で不愛想な後輩のことを知ってやろうと思った。表面からは全く見えない後輩の内面を覗いてみたくて、色々と試行錯誤をしてみたりもした。彼の内側にある感情が、ちらりとでも垣間見える度に嬉しかった。


 それが、逆にこうして、ある意味私の内面そのものとも言える私の文章に興味を持たれて──まるで、心の奥底を鷲掴みにされたような、そんな心地で。



 どこまでも高い夏空との間に広がる空虚と、その内側を徒いたずらになぞって胸をざわつかせる郷愁。夏が来る度に私を気怠い気分にさせていたそれらを、一瞬で満たし、消し去ってしまう程に──質量と熱量を持った、しかしそれでいて酷く静かな感情。



 それはきっと、少し前からそこに在った。ただ、それに──その感情の名前に、気付くに至らなかったのだ。こんなに激しくも静かで、淡いのに色濃く、明るくも昏くて楽しくも辛い感情の名を、私はひとつしか知らない。



 そして、それが併せ持つ切なさやらどうにもならなさやらは、さっき消し去られた筈の、夏の郷愁にとてもよく似ていて──



「……参ったな」


「どうかしました?」


「いや? どうもしないよ、後輩くん」 


「そうですか」



 ──だから、私はこの夏の空虚に、この感情と同じ名前をつけてやることにしたのだ。


 


「はい、これ。あとこれも」


 長机のゴミ溜めから原稿用紙をかき集め、赤鉛筆を添えて後輩に渡す。自覚してしまった感情を気取られないように──感情を抑えきれなくならないように、長机の端の木のささくれを見つめたまま。


「どうせ読むんだったらさ、校閲やってよ。なんか文芸部っぽいじゃない? 自分で誤字脱字とか文末表現の乱れとか探すのって、案外面倒臭いんだよね。読み返してるうちに深みにはまっちゃうし」


「校閲ですか。校正記号とか知りませんけど大丈夫ですか」


「そんなの私だって知らないよ。なんか適当に、分かるように書いてくれればいいから」


 これ以上後輩と言葉を交わしているのが気恥ずかしくて、「じゃあそういうことだから、よろしく」と原稿用紙の束を強引に押し付けて会話を切り上げる。

 視線のやり場に困って窓の外を見遣ると、やっぱり今日も四角い空は馬鹿みたいに青くて、この空の下に広がる世界は、全てが私の抱く感情と同じ色──郷愁と蝉時雨と夏草の香りと雨樋に絡みつく一輪の朝顔と、そういうの全部引っ括めた夏の色に、染まっている気がした。




 

 ──最終下校時刻を告げるチャイムの音に我に返り、膝に埋めていた顔を上げた。


 耳の中であんなに五月蝿く鳴っていた蝉時雨は夢から醒めるように鳴り止み、後輩の居ない部室だけがここに残っていた。当然窓の外に広がるのは突き抜けるような夏空なんかではなく、すっかり陽の落ちた、澄んだ紫紺の冬空だ。


 どうして忘れていたのだろうか。


 感情が分からないなどと宣う後輩の感情探しを手伝うだなんて言って──あの後輩の感情を知りたいと願っていたのは、他でもない私自身だったのだ。


 ──すっかり冷え切って感覚を失くした手足をどうにか動かして、立ち上がる。

 否が応でも後輩が残した退部届が目に入る。


 全く以て、本当にらしくもない去り方をしてくれたことた。ああも無愛想で素っ気ない態度を取っておいて、最後の最後でそんな気遣い、なんてことは幾ら何でもないだろう。


 ──そう、幾ら何でもそんなことがあっていい筈はないのだ。らしくもないことをするには相応の理由があるだろう。そして、その理由……否、原因を作ったのは、間違いなく私だ。


 ならばこんな所で膝を抱えている場合ではない。淡い感情を抱く少女である前に彼の先輩である身として、そんな、らしくもない行動に出た後輩を放っておいていいものか。

 それに、淡い感情を抱く少女としても、だ──どんなものであれ彼に何かしらの感情を自覚させてしまったのなら、責任と覚悟を持ってそれと向き合わなければならない。


 だから、明日──部活動に来なくなった後輩を、こちらから迎えに行ってやろうじゃないか。


 迷惑がられるかもしれない。行ったところで逃げられるかもしれない。あの退部届の一文で緩やかに拒絶したにも関わらず察し悪く姿を現す奴だと、嫌われるかもしれない。或いはもう既に嫌われているのかもしれない。


 それでも私は行かねばならないし、それでも私は彼に会いたい。嫌われたって、避けられたって、今までずっと自分の感情を自覚せずに過ごしてきたのに突然感情を自覚してしまった後輩を放っておくなんて到底出来ない。例え後輩にどう思われようと彼を迎えに行ってやることが、私なりの、先輩としての責任であり、矜恃であり、見栄であり、意地なのだ。



 それに、あの部室での時間が二度と戻らないだなんて──私は、嫌だ。



 それなりに楽しくやっているつもりだと後輩が言ってくれたあの空間が二度と戻らないだなんて、私は絶対に嫌だ。



 思考は今ひとつ纏まらないし、最終的には私の我儘である気もする。だが、とにかく明日だ。明日、私の感情とも、後輩の感情とも、向き合おう。物語にして綴るのではなく、直接、顔を見て。


 私は通学鞄を手に取り、部室の扉を開け放った。



 今まで迷子だった、後輩の感情に向き合おうというのだ。

 ──私が迷子では、居られない。

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