、き


 西の大陸は、むりょうじゅの大君が総べる地として、極東の諸国から敬われていた時代もあった。だがそれはもう過去である。西方の大陸は、浄土として説かれるほど遠いところになどはなく、所詮は壺の中にしかない。

 ましてそこは極楽とは程遠く、あるのはそこらに転がる国々と同じであった。衆生の救済を願うむりょうじゅの大君などというのは、虫たちの幻想の中にしかいないらしい。

 

 さて、そのような大陸に住まう、齢十八の男が一人いる。

 男は名を、『き』といった。

 

 妹には『りん』という名の秀才がいたが、大人を待たずに神の子のままで他界している。他に家族はない。今思えば、『りん』が実妹であったかどうかも定かではなかった。だが家族というと『りん』だけで、男は彼女を大切にしていた。病に臥せった彼女を、幼くも甲斐甲斐しく世話していた。


 そんな彼は眉目秀麗、まさにその言葉の指すとおりの青年であった。


 西方に多い、黄色の髪をしていたが、それには他四色の色が僅かずつ混じっていた。他とは異なる様相であったが、それによる不当な差別など受けはしなかった。彼は何よりも慈悲深く、優しくあったのだ。何に対しても優しく、純粋に接していたのだ。

 そのような彼は、だが、それでも大陸の掟には従うしかなかった。


 西の大陸において子供達は生を受けて十八年目をもって『大人』とされ、その中でも男には徴兵の命令が下されることになっている。徴兵されれば、大陸を、国を守るため、命よりも重たい不可視のものを背負わされて立ち上がるしかない。立ち上がることが出来なければ、神から見放されたとして置いていかれるまで。

 幸い、多才であった彼に不自由はなかった。


 だが、殺生を好まない彼にとって兵士として武器を担ぐことは苦痛以外のなにものでもない。そうしなければ生き残れないことも知っていたが、それ以上に苦痛のほうが大きかった。彼は何度も逃げ出そうとするが、その度にどうしてもそれができずに、歯がゆさに首を振るばかり。


 そうして彼は立派な『大人』になった。


 好きではない、それだけでは己は世界から弾かれるということをよく理解したらしい。苦痛というものが一回りして麻痺してしまったか、どこかへ沈んだかのどちらかかもしれなかった。

 憐れである。

 優しさゆえに、彼は救いようのない憐れな男になっていた。


 そんな彼が『大人』として兵役を務めて二年目のこと。

 大戦が起こった。きっかけなど、彼の知るところではない。


 今まで絶対不可侵としてきたしん教の聖地、極東にあるというそこへ侵略を開始したということしか知らなかった。極東大陸が具体的にどのような国であるのかも知らなかった。しん教は知っていたし、彼自身は一応きりん派の信徒であった。しかし、聖地には聖少女が祭られているということしか知らなかった。

 聖少女とは救いである。

 聖少女こそ救いである。

 おそらくは聖少女に縋りたかったのだろう。廃頽の未来しか見えない狭すぎるこの世界において、希望の光というのはどのようなものであっても縋りたいものである。

 それがしん教であり、きりん派であった。きりん派教祖、聖少女であった。

 それだけの話である。

 

 つまるところ、彼の住まう大陸は、ついに聖少女に縋らざるをえないほどに、それも唯一として縋らねばならないほどに衰退していたといえよう。


 戦線に立たず、有力な兵士として本拠地に残されていた彼は、ついにここで呼び出されることとなった。東にある聖地を奪還せよ、とのことであった。


 彼は首を捻る。

 奪還とは、これはいかに。


 もとより、あの聖地は誰のものでもなく、絶対的な中立を守っていた地ではなかっただろうか。誰のものでもなく、あえていうならば聖少女のものでしかないのではないだろうか。だが、下された命令は奪還である。

 おかしな話だ、と彼は胸中で溜め息を吐く。

 武装した兵士たちの先頭に立ち、彼は金色を思わせる髪を爆風に躍らせる。横顔は苦痛に耐えるものであった。そして全ての安寧を祈るものであった。


 聖地には聖少女に祈りをささげる巫女娘たちしかいない。女の細い腕で武器などもてるはずもなく、逃げ惑うばかり。西方の兵士たちは彼を追い抜かして、巫女娘たちを引き倒し、鮮やかな緑を切り伏せていく。今までも戦場で刃を構えたことはあった彼であるが、しかしこのような一方的なことは経験がなかった。

 お互いが武器を構え、お互いが何かしらを賭け、お互いが向き合っていたのだ。

 だが、今はどうだ。

 ただただ、逃げ惑う無力なものに容赦のない攻撃を繰り返すばかり。


 彼の足は止まっていた。

 己を追い越していく、彼を部隊長として派遣された兵士たち。それの背中をぼんやりと見て、彼は立ち止まるしかなかった。


「……どうして」


 もとより徴兵によって仕方なく戦地へ赴いていたが、それは彼だけではない。

 嫌々戦地へ向かい、武器を構え、命を落とした青年たちをいくらでも見てきた。だからこそ彼は、あえて今まで口にはしなかったのだ。


「……。どうして」


 どうして、戦わねばならないのか。


 最後まで言うことはなかったが、彼は黙祷を捧げるように瞑目した。

 それは散っていった巫女娘や、敵国とされた兵たち、あるいは己の国のためといって消えていった男たちへの祈りと鎮魂であったのだろう。

 こうしている間にも、聖地は汚されていく。


 彼は心を痛めていた。

 それが偽善であろうと、平和を祈るのはあらゆる生命の原点であると彼は信じている。


 奥へ奥へと兵士たちは向かう。

 社の中がきっと聖域そのもの、聖少女のいるところなのだろう。

 と、不意に喧騒がやんだ。

 一瞬遅れて、暴風が彼の頬を叩いた。爆音に彼が頭を抱えたところで、社へ続く道に立てられた柱が粉微塵に吹き飛んでいた。唖然とする彼の上空、ゆるりと旋回して火の粉を落とす影があった。見上げれば、漆黒と真紅を混ぜたような巨大な怪鳥の姿があった。二十年と少し、彼が生きた中で初めて見る生き物である。


 あれはなんだ、と彼は目を丸くする。

 怪鳥は巨大な翼を広げて空を叩いて炎を散らしながら、彼の姿を一瞥。火炎の冠を被った巨鳥の冥い目は、恐怖と憐れみをない交ぜにしたような色を湛えていた。

 社の方へと飛び去った鳥を視線で追って、彼は絶句する。炎の柱が、ごうごうと天を焦がしていたのだった。自軍の兵にこれほどの力があっただろうか、と自問するが答えはなかった。

 耳を塞ぎたくなるような痛々しい鳴き声が鋭く響き渡ると、火炎は社を、その周囲をあっという間に飲み込んでいく。

 燃え上がる炎と爆風とが、聖都を食っていた。食い荒らしていた。

 さすがにやりすぎだと、彼は息を詰めた。


 兵士と巫女娘たちが、わらわらと社の方から降りてくる。まるで大雨に打たれる蟻か何かのように、逃げ惑っていた。敵味方もなかった、背後から地を這う炎から逃げ惑っていた。そのような中でも果敢に武器を構える兵もいたが、あっという間であった。食われてしまった。

 惨劇である。

 美しい景色が燃えていた、赤色に、いや、漆黒に染め上げられていた。そこには青も緑もなかった。漆黒、深い闇の色でしかなかった。


 そのような中、彼もまた炎に踊らされ、狂気に飲まれた兵士の刃を受けていた。彼も群集の一部でしかなかったのである。


 地獄絵図を再現するかのような、聖都。

 業火にまかれ、一体聖なる都がいかなる罪を犯したというのだろうか。


「うん?」


 そこで、彼は澄み切った声を聞く。

 乾いていて、憐れにも全てを知らないまま諦念したような声であった。


 いつの間にか、焼けた地に伏していた彼の頬を雨が叩いた。はるか上空を、炎の怪鳥とは違う鳥が飛んでいるらしい。

 ぼんやりとした彼の視界に、真っ白な足が見えた。煤けた大地を踏む、清らかな足だった。生草さえも踏むことのないだろうと思わせる、美しい足先であった。


「おまえ」


 降ってくる声に、どうしてだか彼は心が痛かった。

 優しい彼は、ここに唯一残ってしまったこの声の主を思って心を痛めていた。


「おい、おまえだ。わたしはおまえを第三の帝國、その第一部隊長とすることに決めた、今決めた」


 高らかな声音を追って彼が顔を上げれば、そこには聖少女が微笑んでいた。その事実に、彼は雨に打たれた頬をさらに濡らす。

 彼女はただ一人ここに残っているのだ。


 全てが燃え、焼け落ちたここに残ってしまっているのだ。


 自分はきっと死ぬだろう、このまま死ぬだろう、だがこの少女はたった一人きりで残るのだろう。

 そう考えると、痛かったのである。


「起きろ、起きろ、はよう起きろ」


 目の前、差し出される手は小さかった。

 ところどころ火傷の痕と古い傷跡とが、白い肌を汚している。しかしそれにしても、ひどく小さい手であった。聖少女は、矮躯でもってこの大地に残っていた。

 燃えた地に残されていた。


「この地と教えと、そのものの意味にかけて、運のいいお前を、わたしはこれからきりんと呼ぼう」


 そのとき、彼女の微笑を、彼は確かに見た。


 誰も知ろうとしなかった聖少女の孤独に、心優しい男はいち早く気づいていたのかもしれない。しかしその孤独に添い遂げるにしては、孤独の主は罪を重ねすぎていたのかもしれない。



■     ■



 ――過去。


 極東の島国は、黄金と真珠に飾られた美しい島国として、西方の興味を駆り立てた。しかしそのような時代はとうに過ぎ、天照らす全てが生まれ出る処として、聖なる地であるという認識が広まっていた。


 そこは聖地である。

 しん教の中でも正統派、きりん派の総本山とし、聖少女を祀っている。


 所詮はどこへ行っても、世界などというと壺の中にしかないが、しかし聖地というのはまさに聖地であった。美しい色彩と澄んだ空が高々と広がる、まるで壺とは思えぬ世界であった。そこに聖少女は佇んでいるのだ。


 さて、そのような聖地に住まう、齢二十の男が一人いる。

 男は名を、きりんといった。


 西の大陸に多い黄色の髪で、それに四色の色の毛が混ざっていた。見目麗しい青年は、まだ二十年ほどを生きた程度であった。ゆえに世界を知らずにいたが、だが彼は何よりも慈悲深く、優しかった。あらゆるものの本質に寄り添い、仁義を尽くし、どこまでも純粋に接していた。

 極東の小さな国、暴君たるだきにの統べる第三帝國で第一部隊長を務める彼は、しかし戦が苦手であった。生物を食らわず、木々を愛でる彼には殺生が恐ろしかった。もちろんそれでは生きていけないと知っている。だが苦手なものは苦手であったのだ。


 それでも血に塗れただきにの傍にいるのは、血で武装した女王の孤独を、知っていたからであろうか。誰もが恐れた彼女の、その内側に彼はひっそりと、だきに本人にさえ気づかれないまま寄り添っていたのかもしれない。


「恐ろしい? 女王の声は救いだ」


 彼はきりんである。

 無から有を生み出す、仁獣である。


「……そしてあれは、きっと救いを求めているのだ」


 その仁獣がどうなるのか、それを知るのは孤独の女王くらいに違いない。

 麒麟というのは、瑞獣である。

 聖王の代に出現するとされるが、果たして第三帝國に出現したきりんは、麒麟であっただろうか。愚かな暴君には、しかし関係のないことであっただろう。


「女王、女王」

「……」

「おれは貴女の傍で貴女をお守りします」

「よく喋る口だな。閉じておけ」

「はい、女王」


 ですが、と続けるきりんのを一瞥する女王の瞳は、ただ暗い処に沈んでいる。


「ですが、おれは決して、貴女をひとりにはしません」


 その昔。

 麒麟の骸を前に聖君は涙したという。



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