贖罪 Ⅳ

 

「今日から六階へ戻ってくれ」

 九月二十三日、所長室で直樹は配置替えの命令を受けた。

「竹之内が刑に服した今、もう君がクラウド・ナインに、いや、もう転房して各階に分散したが、ゼロ番にいる名分は無くなった。矯正局も特免した。後継は既に決定している」

 柴田は憔悴し切った直樹に哀れみを感じた。これだけ死別が一度に集中したケースは初めてで、それ故執行後一週間の長期休暇を与えていたのである。

「一年間よく忍耐強く努めてくれた。あの拘置区は鉄心であるか、確定者と同じように狂わねばとても務まらない。七階から上への夜勤は暫く免除するから、ぼちぼちやりなさい」

 特務が終了しても直ぐ他所へ異動させるのは難しいらしく、柴田にしてはこれが精一杯の激励であった。

 だが、直樹は軽く頭を下げたのみで敬礼も無く漫然と部屋を出た。これでもう所長とは二度と顔を合わせる必要もなく、住人に振り回される辛さも無いのだが心は依然曇ったままとなっていた。

 あれ以来、森本の家で静養する事となった瑞樹からは何の連絡もなかった。

 輝樹へ電話を掛けても「孫娘の弔いが済んでからは特に魂が抜けたみたいに毎日海を見ている」との返事しかもらえなかった。

 直樹はサングラスでなく普通の黒縁眼鏡を掛けた喜多野直之として六階の通常勤務に就いたけれど、クラウド・ナインで過ごした一年が幻に感じて仕方なかった。九階専用待機室は撤収され、アーベントも序でに廃止された住人はバラバラに七階から九階の各房へ移され互いの接触は出来なくなった。

 直樹は巡回しながら全く異なった六階の喧噪に奇怪な心持ちを抱いていた。

 死刑まで時を過ごす住人は七階より上がついすみかとなるが、六階は釈放される者、或いは微罪で刑務所に入獄する者達の吹き溜まりである。仮に長期刑の宣告を受けても十年から十五年辛抱すれば娑婆の空気を胸一杯吸える。

 前途は苦しくても生きている限り希望は残っているのである。

「上が地獄で下が天国か。逆さまだな」

 直樹は俯き笑った。すると時しも、房の何処から壁を叩く喧しい音が鳴った。

 もはや日常茶飯事と化した収容者同士の揉め事に直樹は騒がしい雑居房へ入り、血の気に逸り殴り合いをしている二人を見比べ、優勢になっている方の腕を捻じ上げた。

「いい加減に止めろ。喧嘩は懲罰だぞ。軽屏禁になってもいいのか」

「へん、懲罰なんて怖くねえよ。何なら死刑にでもしてみろよ」

「──何?」

 腕を離されたチンピラ風の若い未決はたかぶったまま調子付いた。

「知ってんだぜ。ここにはあんだろ、シケーダイ。ほら、何ならこの首吊ってみろよ」

 男は直樹の肩を押し、挑発的に首を向けた。直樹は即座に血相を変え、その顎を掴み、壁に押し当てると片手で持ち上げた。そして呼吸困難で足を藻掻かせる男を叩き落とし大声で怒鳴った。

「チャラチャラと遊び感覚で犯罪に走るクソッタレなんぞに何が解る。絞縄は喉頸のどくびを直接締め上げるんだぞ。大体、惨たらしい執行現場も碌に知らないくせに軽々しく死刑なんて口にするな、馬鹿野郎」

 法務省は矯正施設での処遇状況を定期的に公表しているが、実際、処刑場に生で触れるのは執行される死刑囚と手を下す刑務官だけで、特に直接関与した刑務官は押し付けられた罪業を一生背負ってゆかねばならない。

 房の未決達は周囲を圧する直樹の怒りに直ぐさま静まり返った。

 それから重ねて一週間が経ち、世間は総選挙のニュースで持ち切りであった。

 新聞は自民党有利のデータを挙げ、早くも次期総裁有力候補二人の関連記事を掲載していた。

 名拘内でもどちらが政柄せいへいを握るかの話題に集中した。党二大巨頭の公約の違いが刑場有する施設の将来を握っていたからである。

 中泉総理の親戚筋であり、官房長官の足立龍介は元警察庁長官で、「全ての再犯予防において最も効果的なのは絞首刑」と国会で発言し、物議をかもし出した死刑強硬派であった。

 一方、元幹事長の酒井庄馬は弁護士出身らしく、「死刑廃止議員連合」を超党派で結成し、足立とは逆に「死刑は世界から取り残された遺物」とする徹底した死刑廃止論を金看板に掲げていた。

 だが、死刑廃止の提言は一般に受けが悪く、酒井不利はどの方面からも明らかであった。

 世評のまま足立が首相になれば死刑が存続されるだけでなく、四ヶ月に一度の割合で済ましていくよう陰で法務大臣に指示してくるかもしれない。

 堪らんな、と直樹は空恐ろしくなった。嘉樹を亡き者にしたとはいえあんな凄惨な殺害現場には二度と関わり合いたくなかった。

 法務省の死刑廃止への議論は死刑存置を支持する国民の総意に従っている。裁判員への関わりを六割もが拒否し、死刑の実態に疎い国民が国に対して唯一信頼を置いているとすれば、それは紛れもなく「死刑続行」である。

 執行官を避けて通れない行刑職員の皆は出来得れば酒井の選任を祈っている。少なくとも刑場で執行に関与した正常な神経の持ち主ならば、正義の代理人という刑務官の仮面で自分の弱さを隠しきれない人間ならば続行を願う者はいない。

 直樹は仕事が終わると官舎で一人天井の木目を眺めていた。人殺しと叫んだ瑞樹の恨めしそうな顔がいつまでも忘れられず、いつ頃別れ話を持ち出されるだろうと悲嘆に暮れていた。

 悪夢なら覚めてくれとどれだけ願っても現実は遠慮会釈なく怯えを責めた。

 と、その時、突然電話のベルが響いた。

 直樹は受話器を恐る恐る取り上げた。

「輝樹だがね。携帯が切れているようだからこちらに掛けた。今少しいいかな」

 森本の義父であった。平生と異なった口調に遂に来たか、と直樹は離婚を覚悟して用件を尋ねた。

 だが、話は予想外の展開を見せた。

「警察がうちの家宅捜索をした?」

 輝樹の急報に直樹は驚愕した。

「そうなんだ。五人の警官が今日の午後君達の住まいに入ってね」

「令状の、いや、捜索状の事由には何と書いてあったんですか」

「それが強制捜査だと強引に入っていったんだよ。私も立ち会いに協力させられた。何か解らないが台所や俊昭の部屋を重点的に探していたようだった。持ち物もいくつか押収していったし、指紋も採った。俊昭の生前の写真を貸してくれともいうから登山時のスナップを渡しておいたけれど」

「被疑者の逮捕じゃあるまいし。お義父さん、その集団は本当に警察でしたか」

 憲法三十五条に、捜索押収には令状が必要だと記されているし、刑訴法にも明記してある。違法に踏み込まれた直樹は義父に身分の確認を取った。

 輝樹は肯定して言った。

「間違いない。手書きではあるが押収の目録交付書と、愛知県警察本部捜査第一課課長の名刺を置いていったからね。念のため県警に照会したが正真正銘偽りはなかった」

 管轄の田原署でなく県警一課が動いている。何やら事件性を匂わせる警察の行動に不安が過ぎった。

「お義父さん、後は」

「早々に引き上げていったよ。それとこの件は機密にするよう注意もあった」

「それはどういう意味ですか」

「ううん、生憎、私には何が何だかさっぱり目星が付かない。頼りにならず申し訳ないね」

「いいえ、ご連絡下さって有り難うございます。あ──それより瑞樹は今何を」

「相変わらずだよ。恋路ヶ浜で椰子の実の詩ばかり譫言うわごとのように歌っている」

「そうですか」

「電話でなく一度様子を直接覗きに来てはどうかな。娘も本心では君に会いたがっているはずだ」

「いえ、今は顔向け出来ません、とても」

 直樹は死産だけでなく瑞樹の心を疑った悪心にも恥じていた。

 すると自己嫌悪で気落ちする声へ輝樹は不意を衝いて切り出してきた。

「瑞樹から全部聞いた。直接嘉樹君を手に掛けたんだってね」

 緩衝も全く無い核心に直樹は受話器をぎっと握り締めた。

 輝樹は立て続けに伝えた。

「処刑は不幸だが、私も晃子も君を軽蔑したりしない。君は刑務官としての仕事を全うしただけだ。それに私も俊昭の義弟だ。哀しみは痛いほど分かる。君は被害者遺族でもあるし同時に加害者の遺族でもあるからだ。家庭内殺人で残された者は板挟みの辛い立場に追い遣られる。だから何も案じず渥美へ帰ってきなさい。待ってるからね」

 思いも寄らない優しいいたわりであった。不覚にも泣きそうになる口を押さえた直樹は、義父から発せられた嘉樹との関係をもう否定しなかった。


「東君、ちょっと」

 九月のカレンダーが捲られた十月一日、登庁した直樹は待機室を出た所、突如腰のベルトを引っ張られた。振り向くと村上賢司がいた。

「これから私と共に所長室へ向かいたまえ」

 直樹は目を丸くした。もはや柴田から何の用事も言い付けられないだろうと思っていたのに再度呼び出され、その上、村上の顔付きには徒ならぬ緊迫感がみなぎっていた。

「命令一下、可及的速やかに移動しなさい。火急な用向きだ。急げ急げ」

 村上は直樹の尻を叩くなり急き立てた。直樹はまた逃走事件か、はたまた死刑囚のグループを作られその正担当に再任され、前任の尻拭いをやらされるのかと苦い想像をして柴田の許へ直行した。

 ところが入室するなり下された指示は推測を裏切るものであった。

「たった今から休暇を与える。石川県警へ行ってくれ」

 柴田は葉巻を指に挟んだまま吸いもせず直樹をキッと睨んだ。

 有給ならばこの間取ったばかりである。まして警察という奇妙な目的地に合点が行かない直樹は理由を尋ねた。しかし、柴田は一切応じず、火の点いていないモンテクリストを何度も神経質に灰皿へ叩いた。

「いや、休暇とは適切じゃないな。出張だ。但し制服もその伊達眼鏡も要らん。だが、昼前には必ず到着してくれ。行刑のるお方がお見えになるからな。それと、君には伝えねばならない一大事がある」

 村上以上に堅い顔の所長は躊躇ったような呼吸を一つ置き、重々しく述べた。

「実は君の父親の亡骸が発見された。金沢の石川県警から連絡があった」

「──金沢?」

 青天の霹靂へきれきであった。

 嘉樹に殺害された父が何時か見付かるよう心の片隅でいつも願っていた直樹には朗報であった。だからその報せにはさして驚かなかったが、発信元が石川県という点が解せなかった。俊昭の死体は太平洋に投棄されたのである。それがどうして逆の日本海側の県で見付かったのかとても理解できなかった。

 柴田は困惑する部下へ向かい、厳めしい口調でもう一度言い付けた。

「君の父の白骨が医王山の山中から掘り出されたんだ。一刻も早く石川県警へ向かいなさい。そしてそこで君は衝撃的な事実を知るだろう。さあ、ともかく急ぎなさい、早く、早く」

 直樹はあっという間に追い出された。遺骸ならば愛知県警に運搬すればいいではないか、と訝しがったが命には逆らえない。直樹は袖を通したばかりの制服を私服に着替えると官舎に戻ってエンジンをふかした。

 石川へは最短ルートでおよそ三時間半である。

 直樹は逸る心を抑え一路金沢へ向かった。

 午前十一時四十分、兼六園に隣接する石川県警察本部に車を停めた直樹は、突然ナンバープレートを覗く痩せた男から呼び掛けられた。

「東さんですか」

 無精髭の濃い、よれよれのスーツに日下部を重ねた直樹はドアから出て男を眺めた。恐らく刑事だろうが、狐に似たどこか狡猾そうな面差しが不審さをより滲ませていた。

「私は石川県警一課の桃原です。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

 スキップする様な妙な足つきで県警内部に案内する桃原に直樹は黙々と従った。

 遺体が発見された報告を受けても涙は出なかった。それより現場が三河湾周辺でなく何故石川山中であったのかが最大の謎であり、車中、必死に推理したが錯綜する状況に尤もらしい答えは導き出せなかった。

 暫くして桃原は一番突き当たりの部屋で立ち止まった。

 入口に掛かっている白いプレートを見上げると「鑑識課」のゴシック活字が薄明かりに浮き出ている。そのまま桃原はノックして部屋へ入っていき、直樹は後から扉を潜った。

 見ると中には既に三人の男が別個の椅子で黙座していた。

 丸眼鏡を掛けた四十半ば程の、白衣を着た馬面男はビニール革の丸椅子に腕を組み瞑想している風であった。その面長と似通った紺スーツの男は焦茶のビジネス鞄を事務椅子の肘掛けに載せており、三人目は、窓際で本革張り椅子を外へ向けていたので顔形は判別出来なかったが、大振りな椅子からはみ出た広い肩が堅剛さを如実に物語っていた。また、「後程お目に掛かります」と桃原が異常にへりくだり退室していったので、社会的地位がかなり高いのは自然と推し量れた。

 しかし、三人とも揃って面識がない。

 一人放られたような直樹は手前の白衣に父の遺骸の場所を訊こうとした。正にその瞬間、窓際の男が椅子を回転させ、正体を露わにした。

 真っ黒いスーツを着た男は煙草を厚い唇に銜え、ゆっくり火を点けると鷹に似た鋭い眼光で直樹を見据えた。オールバックに固めた薄髪から判断して年齢は五十代半ばだが、こめかみまで届く太い眉と突き出た鉤鼻が一面に漂う威圧感を一層鮮明にした。

「全く君の一族には誰も彼も困ったものだ」

 ダビドフ・マグナムの赤い煙草箱を弄りながら黒スーツは口角をいびつに曲げた。

(何だ、この不躾に傲慢な男は)

 直樹は高飛車な態度を崩さない革張り椅子へ嫌な顔を作った。

 ここで紺スーツが横から口を開いた。

「東さん、そちらは溝口矯正局長ですよ」

「──こ、これは失礼致しました」

 直樹は矯正の極官に慌てて敬礼した。国会中継の記憶を辿れば答弁している顔を思い出した。法務省の鬼才と広く評されている溝口昌資である。

 そしてその溝口はというと徐に煙を吐き、隣へ通じる扉に黙って首を向けた。

 するとそれが合図であったのか、紺白の二人が性急に立ち上がり直樹を隣室へ招き入れた。

 扉が開かれた途端、ステンレス張りの机上に横たわった、暗褐色の、綺麗に並べられた俊昭の遺骨が視界一杯に飛び込んできた。

 少し立ち止まり直樹は変わり果てた亡骸をじっと見た。

 但し遺骸といっても完全骨格でなく左右大腿骨と頭蓋骨、胸椎や寛骨、そして右の上腕骨しか置かれていない。

 しかし、長く眺める間もなく直樹は脇に設置してある長椅子に座らされ、中年二人は足の短いテーブルを挟み、丁度直樹と向かい合う形で腰を下ろした。

「初めまして。私は石川県警科学捜査研究所の安田と申します。こちらは──」

 と、氏名経歴を明かした馬面白衣が、そのまま隣人を紹介しようとしたが、紺スーツの男は直樹に頭を下げながら自ら素性を名乗った。

「私は科学警察研究所から参りました韮崎と申します。この度は遅れ馳せながらお悔やみを申し上げます」

 直樹は丁重な挨拶に応じながら戸惑った。鑑識課なのに職員が消えているのも異様だが、特に警察庁から出向いてきた韮崎には怪しまざるを得ない。局長と何かの関連があるのだろうが、柴田は出掛けに衝撃的な事実を知ると予告していた。

 科捜研も科警研も共に科学鑑定のプロフェッショナルである。それが両方揃って出張ってきているのは父の死因に何か秘密が隠されているのだろうかと気を揉んだが眼前の二人は冷静であった。

 安田は白手袋を嵌めると、背後のボール箱に収められた透明なビニール袋を直樹の前に差し出した。中にはもはや原形を留めていない、薄汚れた細かな布片が散乱していた。

「東さんは、このポロシャツに見覚えはありますか」

 いいえ、と直樹は即座に否定した。ポロシャツと示教されねば到底分からない程潰散したオレンジの布切れに記憶は無かった。

「ではこちらは」

 と、次に呈示されたのは『ホテル犀星さいせい』と印刷文字が載った半透明ランドリーバッグであった。

 安田は慎重にその中からどす黒い血に染まった半袖のゴルフウェアとズボン、それにアーノルドパーマーの白い帽子と靴下を取り出した。

「──父の服です。その帽子は私が初任給でプレゼントしたものです」

 直樹は目を覆った。永没した場所は異なっていたが父はやはり殺されていた。それも供述とは違い、刺し殺されていたのだろう。改めて現場の光景が目に浮かんだ直樹は堪らなくなった。

 科捜研は次いで濃紺の筆記用具を差し出した。

「ならばこの万年筆もそうですか」

「はい、昇進祝いに母が送ったものです」

「現金が千円残っていたこの鰐革財布もお父様の物ですか」

「ええ、アジア研修旅行で購入した一番のお気に入りでした」

「にしてはクレジットカードも免許証も有りませんでしたが」

「無いのは父の習慣のせいです。一度に紛失しないよう現金用の財布とカード用の財布を別々に分けてあるんです。免許は車のグローブボックスに入れていました」

「成程、ではこの縁無しサングラスも俊昭さんの品ですね」

 安田は悲しみに浸らす隙を与えず次から次へ遺品を差し出した。

 直樹は正直不快であった。遺骸を引き取りにきただけなのに何故こんな形式的な尋問を繰り出すのだろうと苛立ち始めていた。

 だが、安田が次に呈出した遺留品には一驚せざるを得なかった。

「遺体発見現場に残されていたこちらの靴は?」

 机上に置かれたのはインソールにべったり黒い血痕が付いた薄茶色のトレッキングシューズである。泥や疵におかされていたが父の靴に間違いない。しかし、俊昭はどんな親しい人間を訪れる時でも登山靴だけは人様の玄関が土で汚れるからと決して履いていかない潔癖な性分であった。それが遺体の現場で発見され、中敷きに血が残っているのは本人が使用した証拠に他ならない。

 服装からしてゴルフシューズかスニーカーなら一致はするが、何故父は橋爪の屋敷にトレッキングシューズなどで出掛けていったのだろう、と直樹は膨れ上がった疑問を思い切ってぶつけた。

「この骨は本当に私の父なんですか。大体どういう状況で見付かったんですか」

 安田は韮崎と顔を見合わせた。返答に窮した安田の代わりに韮崎が言った。

「詳しくはのちに申し述べます。先ず急務である遺留品のご確認をお願いします。間もなく終わりますので、それまでお付き合い下さい」

 丁寧だが有無を言わせない口調は脅迫に近かった。

 直樹が不承不承に頷くと安田は次の品物を見せた。

「この防水加工を施してある牛革製のバッグはお父様の所有ですか」

「はい、シューズとお揃いの柄ですから父のです。ナイロンでは破れやすいからと鞄屋に頼んで造ってもらったオーダーメードです。ナップザックと同じ大きさにした割には軽くて丈夫、防カビと気密性に優れていると常々自慢していましたので」

「では、最後となりますが、これはお父様が渥美でお使いになられていた出刃包丁と認識してよろしいでしょうか」

「!」

 乾燥した血液が所々付着したタオルに包まれた片刃出刃包丁へ思わず息が止まった。

 刃渡り三十センチの特殊合金の根本にはマーメイドのロゴが彫金されている。丸太をも切断する世界最硬度との仰々しい宣伝文句に惹かれ俊昭がデンマークから取り寄せた特注品で、指の形に削られた象牙のグルーブは、父の遺品である事を絶対的に証明していた。

「ならばこの左利きの一本紛失している包丁セットも当然俊昭さんの所有物ですね」

 何故か安田はグレーの強化プラスティック箱を空けながら強調した。

 直樹は渥美の実家にしまってあった俊昭所持のナイフケースの中身を見せられた。文化包丁、出刃包丁、肉切り包丁、菜切り包丁、パン切り包丁、ペティナイフと六本揃っているはずの出刃が無くなっていた。このケースは愛知県警が押収していった品である。

 直樹は益々混乱した。

「そうです。父愛用のローズダール社のナイフセットです」

「分かりました。私からの質問は以上です」

 安田は遺留品を元通りに片付けた。今度は韮崎が説明を交代した。

「私は結論から申し上げましょう。ご遺体はお父様の俊昭さんです。遺留品の潜在指紋、血液型、DNA分析の結果百パーセントご本人であると断定しても差し支えなく、いや、鑑定で百パーセントとは語弊がありますから限りなくそれに近い数値でとお考え下さい」

 韮崎は登山帽を被った俊昭の顔面に頭蓋骨が重なった写真を示した。

「これは多重焼付けスーパーインポーズ法という、生前の写真と掘り返された頭蓋骨の映像をコンピューターで照らし合わせる手法でして、共に符合をみました。また、残されていた歯から採取したDNAは俊昭さんの毛根試料のDNAと一致しました」

「毛根?」

 直樹は骨しかないむくろを不可解に眺めた。

 韮崎は手許にあった名刺サイズの木箱を開けた。見れば敷き詰められた脱脂綿の上に数本の長い髪の毛が並べてある。

「この品は足を使った愛知県警の手柄ですよ」

 韮崎は上蓋の裏を示した。そこには「東俊昭常務取締役 国際部門・市場営業部門・投資営業部門統括責任役昇進記念」と細筆で書かれていた。

「これは萬有銀行からお借りしてきた俊昭さんの毛髪です。設立以来常務まで出世した幹部には、何でも祈祷的な目的で、髪の毛を何本か抜き、地下金庫に永久保存するという変わった社則があるらしいんです。だから俊昭さんの物も勿論丁寧に保管してありましてね、少々切り取らせて頂き、最新の検査機器にかけたんです。すると──」

 韮崎は鞄から数組の不規則なバーコード模様が写っている一枚の鑑定写真を取り出した。

「ラダーマーカーによるDNAバンドの大きさとパターンは寸分の狂いもなく完全に同型と見なされました。以上からご遺体は俊昭さんです。疑う余地はありません。というものの、毎年増加する身元不明者の白骨を俊昭さんだとするには些か無理がありました。火事で焼けてしまった渥美歯科にはカルテが残っておらず、頭骨に粘土付けすれば復顔の輪郭は掴めますが、書置かきおきがなければ我々とて到底正確な身元確認は難しかったと思います」

「書置?」

「実は白骨自体は医王山の倒木の下から一年前に発見されていたんですが、骨が少ない上、頭部は消失しており、何せシャツやズボンの風化した繊維片と靴、そして朽ちた麻縄しか残っていなかったので、年齢や性別、身長の判定は出来てもそれ以上の捜査は難航していたんです」

「朽ちた、麻縄?」

「貴方の提出していた捜索願により愛知県警は名古屋港周辺にしか捜索網を張りませんでしたから、石川県警も俊昭さんの身元照会は除外していました。ところが、ある日一人の青年が桔梗ガ原の奥まった土中に鞄の肩紐が飛び出ているのを見付けまして、掘り出してみたら、それが俊昭さんの登山鞄だったという訳です。中の書置を目にした青年は慌てて石川県警に届けました。鞄の脇には頭骨も埋まっていました。以前の発見現場より然程離れていない事から、多分野生動物か何かが血の臭いに釣られ遺品の入った鞄と頭部を持ち去り埋めたんでしょう。残りの骨も同様に消えたと推測されます。しかし、鞄は大きな手掛かりでした。中から見付かった書置がこれです」

 韮崎は透明フィルムに包まれた一通の封筒を直樹の前へそっと置いた。

 表には万年筆で書かれた「遺書」の文字が、全体が左に傾く父独特の手跡で記してあり、裏を返すと渥美の住所と直樹の名前が載っていた。

 韮崎は言った。

「筆跡鑑定も萬有銀行の決算書類から俊昭さんの文字と同筆であると判断しました。つまり偽装でもなければ偽造でもありません」

「何故遺書があるんですか。父は殺されていたんじゃないんですか」

 血にまみれた包丁ローズダール、そして真筆の遺書。直樹は意識が朦朧もうろうとなりそうに惑った。

「真相は中に事細かく記されています。どうぞご覧下さい」

 既に開けられていた封書から直樹は慎重に便箋を取り出し、黙読し始めた。


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