堕天使の梯子 Ⅷ


 九月十五日、午前八時半。柴田は紫煙を細切れに吐き出した。

「私には理解出来んよ。君は否んでいるが仮にも実兄だろう。そんなにしてまで執行官の任務を負いたいかね」

 直樹は所長室の机に手を置き、うんじ顔の柴田に迫った。

「これはけじめであり、総決算なんです。竹之内の不始末は、忌まわしいですが、同一の血を分けた私が決着を付けねばならないのです」

不倶戴天ふぐたいてんの敵を誅するか、それとも正義が悪を討つか」

「いえ、そのような個人的な感情ではありません。私がやらねばきっと誰も救われないと思うのです。ですから北川と交代させて下さい」

 死刑は被害者の手を汚さず国が代理で遂行する。故に本人が現場に関わるのは前代未聞であった。また、直樹がどう言い繕おうがこれは紛れもなく仇討ちで、柴田は信心こそ持っていなかったが死刑が刑務官に与える心痛は経験上熟知している。亡母の忌みも明けていないし、直樹の妻は三日後にも予定日を迎えていた。だから尚更発令簿の人選から外していたのである。

 神聖な赤子に悪影響を生じさせるのは小心が許さず暫く迷ったが、ある意味局のデータとして保存される事に気付き、一煙吐いてから重々しく了承した。

「分かった。交代を認めよう。但し、喜多野直之の身分でだぞ。君の階級は主任代理だが今更係の変更は利かん。そのままの場所を受け継いでもらうが構わんな」

 正体は明かすな、平担の代わりとの条件付きであった。九階の正担当では立場が拙く、飽くまでも補充要員である認識が必要だ、と柴田は言を強くした。

「心得ています。後、北川ですが」

「処分は無い。身内の不幸とでも理由を付けておく。それと今日の十七時にリハを行うから地下へ集合だ。君は役柄、間宮と竹之内に直面はせんが一応注意しておいてくれ」

 ここで柴田は一枚の死刑執行計画書を手渡した。それには執行時間と役割分担と名前、所定配置図が事細かに描かれていた。


『執行立ち会い 所長・柴田修 総務部長・柏木一朗 処遇部長・村上賢司 医務課長・鳴瀬駿 検察官・検察事務官』

『教誨関係 教誨師・本山恒生 藤倉ジョゼフ』

『連行係  矯正処遇官・相馬公一(呼び出し担当) 警備隊より四名─矯正処遇官・鏑木浩一 小川久斗 三塚伸 杉山邦貞』

『執行関係   執行指揮 首席矯正処遇官・堤大悟』

『執行担当 統括矯正処遇官 警備隊長・小幡忠治(地下執行補助)矯正処遇官  警備隊・笹沢和貴(地下二階執行補助)一般職員・高橋忠之(地下二階執行補助)

別所久司(執行補助 手動レバー担当) 宮本彰男(執行補助 絞縄担当)

佐竹知永(執行補助 手錠担当) 島田良一(執行補助 膝縄担当)五十嵐英彦(執行ボタン担当)伊南村宏武(執行ボタン担当) 升田訓史(執行ボタン担当)外山村二(執行ボタン担当)北川純也(執行ボタン担当)』

 随分若手ばかりを起用したなと確かめつつ直樹は北川の氏名を目で追った。

 執行ボタンを押す五人の中にその名があった。

 地下維持は警備隊の仕事である。だから刑場の構造は小幡から耳にしていた。

 地下一階の執行室に隣接する青いカーテンで仕切られたボタン室には丸く黒い押しボタンと、執行の合図と共に同時に光る緑のランプが上部に付いた灰色のボックスが横へ等間隔に五つ並んでおり、一つだけが踏み板に通じる本当のスイッチで、どこに繋がっているか解らないよう室内の壁に小扉で隠されたダイヤルで操作される。

 余談だが、ギリシャ神話には運命の三女神が古より伝わる。生命の糸を紡ぐクロト、糸の長さを決めるラケシス、そしてその糸を大鋏はさみで断ち切るアトロポスである。

 ボタン係は正に最後の断罪の女神であった。

 直樹は死に導くアトロポス役へ就けた運命にぶるっと打ち震えた。

「少なくとも任務終了までは関係者以外絶対気取られんようにしてくれよ。特に鮫島君にはだ」

 柴田は緊張で高ぶる直樹へ葉巻の火を向けた。

「副担当は知らないんですか」

「あれは住人全員に知らせてしまうだろうからな、執行に影響が出る。検察官の手前つつがなく短時間で済まさねばならん。今日は総務も処遇部も忙しい。余計な手間を掛けさせんように」

 刑事訴訟法第四百七十六条に「法務大臣が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない」とある。命令の通知は一昨日届いている。それだけでもう一日が過ぎているが、三日目の今日は各部が水面下で慌ただしく動いているはずであった。

 遺体の直接引き取りを拒否された間宮に対し庶務課は火葬許可証の手続きを事前に済ます。死亡届も同じく必要だが、嘉樹はドナーのため名私大病院へ極秘で連絡を付けねばならない。

 会計は領置金に絡んだ事務を、用度課は棺や華や線香などの供物の購入、火葬場への手数料支払いが実務となり、処遇部の企画課でも、担当であった教誨師へ、間宮には浄土真宗の本山を、嘉樹にはジョゼフを当てるため急遽出席を要請する。

 医務課でも人選はある。検死と死の時間を計るため二名の医療従事者が必要となる。一人は医務課長の鳴瀬だが、もう一人はその課長が決める。死亡診断書の作成も医務課の仕事である。

 直樹は所長室を出ると九階へ向かった。そしていつもの通常任務に就いたものの五時までの一時間一時間がとても長く感じられた。巡回している時も聴覚に鋭敏な坂巻から動揺を見抜かれそうになったが子供が産まれそうだからと巧く誤魔化した。

 夕方の点呼が済み、やがて五時になると、代務の相馬が直樹を呼びに担当台へやってきた。

「いよいよ明日ですね」

 口数少ない相馬がすれ違い様に呟いた。

 執行官の選定は主に首席の仕事である。堤は相馬も連行役に選んでいた。

 最近の刑場連行は首席が当日房に出向いて直接口頭で本人に伝えるか、馴染みの刑務官が「面会だ」の「面接だ」の虚偽理由で引っ張っていく。

 寝首を掻くような騙し討ちであるが、無感覚で態度の変わらない代務はうってつけであった。それは死刑囚舎房に不要な動揺を与えないばかりか、連行する刑務官にとっても危険は少なくなる。エレベーターで降りる死刑囚とて奥向きに立たされるため地下に連れて来られた感覚がない。

 開いた扉の向こうには屈強な警備隊が待ち構え死刑囚を瞬時に取り囲む。ここまで来たら逃走は不可能となり、屠殺場に向かう牛のように後ずさりしながら前へ進まざるを得ない。

 鮫島に担当台を譲った直樹は相馬とエレベーターに乗り、Bのボタンを押した。

 今現在、基本的に死刑のリハーサルは行われていない。しかし、今回は日本切っての猟奇犯と、東海地区最大のヤクザ幹部の連続処刑という事もあって念には念を入れ復活させたという。

 陽が射さない蛍光灯だけの薄暗い地下廊下には既に各部から十八人の刑務官が塊を成していた。

「時間です。皆さん集合して下さい」

 総務部長の柏木一朗は刑場の無粋な観音開きの鉄扉を厳めしく開け全員を中へ誘導した。

 通称「開かずの扉、もしくは地獄の門」を最後に潜った直樹は一息に気を張った。

 先ず入って狭い真っ直ぐな廊下があり、直ぐ左手に最期の祈りの場となる六畳ほどの教誨室がある。教誨室の扉の真向かいには吹き抜けになった立会室が見え、ここは検事や所長専用の監視室となるのであるが、丁度手すりを挟んで正面の執行部屋の壁が総ガラスになっており、立会室からは死刑囚が首に縄を掛けられる地下一階と、死刑囚が落とされる高さ四メートルの地下二階の両方を一度に見渡せる仕組みとなっている。但し、執行終了までそのガラスは青色のカーテンで閉じられ執行の瞬間を見ることは出来ない。

 直樹達は立会室と入口廊下の間にある階下へ伸びる十七段の階段を横目に見ながら、廊下を直進し、突き当たりにある前室の扉から中へ入った。

 前室というのは執行室に隣に位置する、いわば執行の前準備をする部屋であり、執行室とは一枚の青いカーテンに遮られているだけの何もない八畳程の空間である。そしてそのカーテンが今は開けられており、目の前には明々と蛍光灯に照らされた十畳ほどの執行室と、そのままガラス越しに立会室が姿を見せていた。

 直樹達一同は、一見会議室のような木の壁で囲われた、灰色の絨毯が敷いてある執行室の中央まで進むと、六列縦隊をなし、回れ右でリハーサルの最高責任者である村上賢司に黙礼した。

 厳粛な死地の中、村上は固い形相で口を開いた。

「本日お集まり頂いたのは昨日所長より任命を拝した方々です。故に今更告辞は述べません。本番は明日午前九時、そして十時の二回執り行いますが失敗は許されません。明日の本番同様油断無きよう不退転の決意を持って臨んで下さい。今から約九十分の猶予を与えます。その間にあらゆる角度から様々な想定をして、首尾よく対処出来るよう体で覚えて下さい。手順の詳細は各部課長の指示を仰ぎ、諸事万端事故の無きように。以上」

 村上は敬礼した。一同も真剣な顔付きで敬礼を返した。

 そうして死刑執行リハーサルは開始される運びとなったのだが、その前に点検用の真っ白い手袋が配られた。皆は早速両手に嵌めると所定位置に着いた。

 首にロープを掛ける執行補助役は宮本彰男である。この役は執行において重要なため、執行経験のある中堅の宮本が選ばれた。宮本は処遇部が保管していたロープ箱を開け、中から直径三センチ、長さ十一メートルのナイロン製ロープを取り出した。鉄環で先が丸められていたロープは執行後清掃されているのか思ったほど汚れていない。

 革製ワッシャー付きの金属環を滑らせ、わらびの先端のように丸まっていたナイロンロープの円を拡げると、そのまま首が当たる部分にバックスキンを巻き付け、天井のはりに固定された滑車に通し掛ける。

 それが済めば次にロープの長さ調節である。事前の健康診断で各人の身長は把握しているからデータに応じ長さを調節せねばならない。執行室の隅に縄を固定する頑丈な金属リングが壁に二つ、そして床に二つ直線的に設置してあり、そのリングにロープを通して墜落の衝撃で外れないようしっかり結ぶのである。

 宮本は手慣れた手つきで長さを調節し、絞め方の訓練に入っていた。

 死刑は厳密には縊首いしゅ刑である。絞首縄を首に巻かれた囚人は足下の、突然開かれる穴へ落下する。その際衝撃で頸動脈が破砕し、椎骨の神経索が毀損きそんしてやがて絶命する(気管が潰れる事による窒息死とされる説も有る)。法務省が踏み板式開落方式(絞架踏板式・地下絞架式)と呼ぶこの落下絞首は元々イギリスの「ロング・ドロップ処刑法」が原型であったが、瞬く間に世界中へ広がり、現在殆どの絞首刑がその方式を改良したものを受け継いでいる。

 縄が長過ぎれば足がついてしまい、かといって短過ぎれば椎骨が折れず長く苦しめる。足底が地面から十五センチから三十センチ浮くのが理想とされるも、年齢によりロープの長さは若干異なる。また絞め方にも要訣こつがある。鉄環の部分を首の真後ろに持ってきて隙間を無くすよう一瞬で絞り込む。もし、緩い縄が顎にでも引っ掛かったら中吊りになった死刑囚は絶息に至らない。

 絞めの特訓に勤しむ宮本の正面では四人の刑務官が手の空いている別所を死刑囚と見なし、態と暴れさせ、敏捷に縛る練習に励んでいた。

 死刑は首にロープを掛けるまで三つのプロセスを通過する。

 先ず前室において白布で目隠しを当てられ、次に後ろ手に手錠をめられる。前者は警備隊長の小幡が、後者は柔道部中堅の佐竹が任じられていた。前室から執行室へ進むと、死刑囚は次いで膝に厚さ四ミリの長い紐が巻き付けられるが、これは剣道部島田良一の役目になっていた。続いて三名は刑場の中心にある一メートル四方の大小二重の赤枠に囲まれた、片側が外れる地下垂下式の踏み板へ連行し、次のバトンをボタン係へ渡す。

 直樹を含めた執行ボタン係は隣室のボタン室で待機していた。

 ボタン係は地下室二階と密接な連携がある。

 白い壁で覆われた地下二階も普段は青色カーテンで仕切ってあるが今は全開されている。そこはり抜かれた小部屋となっていて、蛍光灯が点いているとはいえ非常に暗い。四メートル程の高い天井には油圧式の踏み板がある。死刑囚はここから落下して医官の前に吊られた姿を晒す。

 一階の階段の前では白衣を着た医務課長の鳴瀬が首から聴診器を垂らし、ストップウオッチを手にしていた。執行の合図と共にスイッチを押して、二階へと駆け下り、命脈が尽きるまでの時間を計る。

 鳴瀬と共同して作業を行うのも執行ボタン係である。踏み板にはリハ用の砂袋が置かれ、ボタン室と執行室の間には合図役の堤が、1から5まで番号の記された押しボタンの前に立ち並ぶ五人をじっと見据えていた。

 ボタン室はクリーム色の壁に囲まれた三畳ほどの狭い縦長の空間で、そこからは執行の様子は壁に阻まれていて窺う事が出来ない。そのため、ボタンは押すタイミングが大事となる。見えないとはいえ、多少なりとも踏み板の外れる音は聞こえる。故に押し遅れた者は自分のボタンが踏み板に繋がっているかどうかを知り得てしまい、後に良心の呵責に苦しむ。まして今回は二人の執行で、一度目に位置が発覚すれば、さすが二度目のダイヤル設定は変えねばならない。手間が増える。

 ボタン係が五人(ボタンが三つで三人の場合もある)というのは行刑施設なりの配慮であり、立つ順序に強制はされないが最初に並んだ、目の前にしているボタンが持ち場となり明日も同位置に立たされる。もしかして今晩にでも設定が変えられるかもしれない。

 右から二つ目の「2番」と位置を定めた直樹は工場の操作盤に見られるような黒ボタンと、薄暗い緑色のランプカバーを凝視した。

「これより落下訓練に入る、ボタン係、用意」

 堤が執行室とボタン室の間に立ち、声を出すと、係の皆は腕を伸ばし、自分のボタンに指を置き堤と緑ランプを見た。

 さっと確認指揮の左腕が挙がった。同時にパッと緑色のランプが五つのボタンの上に点灯した。

 五人は反射的に揃ってボタンを押した。

 プシュウという圧縮空気が一瞬で抜ける音に伴い、どすん、と砂袋の重量ある落下音が地下の壁を僅かに揺らした。大きな音ではないけれども慣れない状況に皆は緊張を隠せない。しかし、何度も執行を経験している堤は一度の成功にも顔色を変えなかった。

 それから三十分は経っただろう、五回ほど繰り返し落とされた砂袋に頷いた堤はそのまま全員に伝えた。

「では今から総合演習を行う。全員正規の配置へ着け」

 総合演習は散り散りに行っていた練習を一連の動作に繋げた本格的な模擬訓練シミュレーションで等身大の人形ダミーを使用する。連行は配置確認だけで練習らしきものは無いから模擬訓練の手順は教誨師による祈りの儀式が終わってからが始まりとなる。

 一人の刑務官によって立たされた人形は首席の第一の合図で機敏に目隠しがなされ手錠が掛けられる。そしてそのまま開けられたカーテンの間から踏み板の上へ誘導され膝に縄が巻かれる。と、同時に首席はボタン室と執行室の間に移動し、踏み板周りの刑吏は後ろに飛び退き、首席の第二の挙手によってボタンが押され人形は地下へ落下する。

 時間は十秒も掛からない。まるでピットインでのタイヤ交換を彷彿とさせる。

 任務を終えた刑務官達は首席の命令で階下へ向かった。持ち場を離れ、敢えて立ち入らない階下へと進ませたのは死刑に携わる刑務官としての使命を刻み込ませるのが首席の目的のようで、本番もリハーサルと同じく連行の係を除いた刑務官がその現場に立ち会うとの命を改めて聞かされた。

 消毒液の臭いがツンと鼻につく階下に降りた彼らは、踏み板の下で待機していた警備隊の笹沢と一般看守の高橋が揺れる人形の胴体を直ぐ様掴まえるのを見た。次いでストップウオッチを手にしつつ駆け降りていた医官が聴診器を薄汚れたダミーの胸に当て心停止を確認すると、今度は二階に残った執行補助に、滑車から伸長したロープを、遺体を抱えた刑務官の合図で力任せに引き上げさせる。ある程度まで引っ張り上げると今度は一気に降ろす。そうすれば縄が緩み首から容易に抜け出せるようになる。

 最終段階である検死が終わり湯灌ゆかんの後には、遺体は棺へ移され、簡単な葬儀で安置所に運ばれ、それ以後は遺族へ亡骸を返したり、身寄りのない者は火葬されたりし共同墓地へと埋葬される。

 これが国家により定められた粛清行為、死刑執行の概要であり、全てを大過なく終了させるため首席は状況を変えながら演習を手抜かりが無いよう三回行ったが、緊迫した全員の鼻息だけが揃っていく。

 選出された一握りの刑務官のみが負う通過儀礼とされれば本来名誉なのだろう。

 しかし使命感が機械的に皆を動かしているに過ぎないし、こんな刑場で駄弁が出るはずもない。だが、そんな中たった一人だけ例外がいた。

「明日は本物がぶら下がるんだなあ、楽しみだ」

 麻縄に揺れるダミーを恍惚と眺める五十嵐へ直樹は「不謹慎だぞ」と小声で窘めた。

「あれえ、喜多野さんは北川君の代わりに自分から売り込んだって噂小耳に挟みましたけど。じゃあ前もってパパに頼んでいて執行官にしてもらった僕と同じじゃないですか」

 見下す五十嵐へ直樹は反論しようとしたが堤に私語を注意され思い止まった。

 そうすると丁度その時誰かの腕時計がピッと鳴った。

 気付くと七時を過ぎていた。村上は全員を二階へ上げ、場を締めた。

「以上をもちましてリハーサルは終了です。明日は所長と、高等検察庁から検事がお見えになります。粗相のないように。また、執行官を固辞したい者はこの場で挙手して下さい。明日休まれるよりは今抜けてもらった方が我々も手間取りません」

 礼容な口調で見渡されたが誰一人拒まなかった。

「解散」の声と共にどこからともなく「はあ」と沈鬱な呼吸が洩れた。シミュレーションとはいえ余程の緊張を強いられたから肩の力が抜けて当然であったが、直樹はまだ安堵しなかった。


「今日は夜勤を交替したんだってね」

 午後八時、何をする訳でもなく漫然と待機室の置き時計を仮眠用布団から眺めていたら、

 突然村上が入室してきた。腕を枕に寝ころんでいた直樹は布団から跳ね起きた。

「休息の所を済まんな。ほら、特上の差し入れだ。一緒に食わんか」

 村上は手に持っていた水玉模様のビニール風呂敷を机の上で拡げた。積まれた漆塗りの寿司桶に直樹は明日への専念で食欲がある訳でもなかったが、折角なので好意を受ける事にした。

「お気を遣って頂き申し訳ありません。今晩は出産予定日にかこつけて副担当と替わってもらい、カップ麺で済ませていたので助かります」

「ならばお茶を二杯淹れてもらえるかね。但し湯飲みは三つ用意してくれ」

 急須に粉茶を入れつつ寿司桶を数えれば三段ある。残り一つは現在担当台についている川瀬の分だろう、命じられるまま直樹は厚手の湯飲みを三個テーブルに置いた。

 村上は箸を割り静かに食し始めた。茶を二人前注いだ直樹も黙って食べた。

「泊まり込んだのは眠れそうに無かったからか、それとも官舎へ帰りたくなかったからかね」

 ウニの軍艦巻きを箸で摘み村上は質問した。直樹は半分噛んだ寿司を呑み込んだ。

「──は?」

「君が夜勤を申し出た本当の理由を訊いているんだよ。執行官の過半数は別室で花札や麻雀をやっているか、仮眠室のベッドで漫画を読んどるよ。君はどっちだね」

「明日午後からはお休みを頂けるとの事なので、眠るのは全てが終了してからにしようと」

「うん。私も前日は熟睡出来た試しがない。後で戻るがとても寝付けんだろうな」

「あの──このような時に付かぬ事をお伺いしますが、よろしいでしょうか」

 箸を置いて直樹は真顔で村上へ向いた。

「何だね」

「部長は最初立ち会われた時、どんなお気持ちだったんですか」

「それか。君みたいな初心者にはよく訊かれるよ」

 村上はカッパ巻きを口に放り込んだ。

「私は君も知るように死刑廃止論者だ。しかし同時に責任ある立場にもいる。だから出掛けに床の間に飾ってある不動明王の掛け軸に手を合わせていくんだ。どうかお許し下さい、とな」

「そうすれば気が静まりますか」

「いや、現場ではそんな決心は立ち所に吹き飛んでしまう。終わった後は嫌な気分だけが残る」

 再び箸を持ち寿司を平らげながら直樹はダミーが人間に替わった姿を想像したが、今回処刑される者は共に極悪人であるため今一感じるものが無かった。

「ところで、東君」

 こちらも早々と完食した村上が茶を飲みながら再度語り掛けた。

「君はボタン係だが、あの五つの内どれが本物か判るか」

「いいえ、もちろん判りません」

「実は、儀装を点検整備する用度課長を除けば所長と柏木君、堤君と私だけは知っているんだよ。何番目を踏み板に直結させているかをね」

 四人は責任者であるから当然である。直樹は淡々とおしぼりで口を拭った。

死人シニンのボタン」と村上は呟いた。

「──え?」

「正面向かって右から四番目、左から二番目。つまり『4番』、それが明日の当たりボタンだよ。あの係では君が一番の古株だから自由に選んで構わない」

 突飛な告白に直樹は手を止めた。それはつまり嘉樹を己の手で殺す選択権を与えられたのか、或いは「外せ」との婉曲命令なのか判別が付かなかった。

「さて、事の序でに熱い茶をもう一つ淹れて九階へ付いてきてくれんかね」

 村上は残った寿司桶を提げ、ゆっくり立ち上がった。やはり川瀬に渡すようであった。

 直樹は新しい茶に蓋を被せると廊下へ出てエレベーターに乗った。しかし、この後村上の取った行動には開いた口が塞がらなかった。目指す階に到着するなり老刑務官は担当台の川瀬には目もくれず九一七房へ歩き、消灯が近付いた房内を覗いた。

 そこには聖書を読み耽る嘉樹の姿があった。

 村上は視察孔から囁くように呼び掛けた。

「やあ、起きてるね、竹之内君」

「おや、村上部長。こんな夜分に珍しいですね」

 顔を上げた嘉樹へ村上は「ちょっと外に出て貰いたいが」と誘った。構いませんよ、と本を棚へ戻し、嘉樹は開けられた房扉から廊下に出た。

「東君、検身はいいから」

 村上は湯飲みを廊下に置こうとする直樹の腕を掴み、そのまま嘉樹を和室へ連れて行った。

「どうだね、竹之内君、日常に差し支えないかな」

 扉が閉められるや足を崩すよう命じられた嘉樹は気楽に胡座を掻いた。

「代わり映えしない毎日を送っているだけです、いつも通りに」

「体調の方は?」

「快調です。これでもドナーですから健康管理は心がけていますよ」

 嘉樹が己の厚い胸を自信ありげに叩くと村上はにこりと頷いた。

「それは何よりだ、と言いたいが実は君の執行は明日なんだ。東君も官として任務に就く」

「部長、そんな機密を本人に漏洩ろうえいしたら!」

 茶を卓上に置いた直樹は驚いて迫ったが、非難は遮られた。

「彼は特別だ。取り乱したりしない」

「ですが」

「やっとですか。やれやれ長かった」

 嘉樹は悠然と背伸びした。村上は寿司と茶を前に置き、自分も胡座で対面した。

「これは私からの餞別せんべつだ。よかったらどうだね」

「それは有り難い。丁度小腹が減っていたんです」

 嘉樹は箸を取ると遠慮無く食らいつきながら尋ねた。

「で、私は何時の予定ですか」

「君はゴヤ君の後だから多分十時頃になるな」

「殿下もか、そりゃあまた多いですね」

「選挙に乗じた火事場泥棒みたいな執行だ。指定日があったらしいから揃って東京や福岡でもやるだろう。二人とも平均的な拘置年数より短いが、君の場合、半年前に発生した組同士の抗争で民間人が死亡した事件が引き金になっただろうし、ゴヤ君は立て続けに起こっている通り魔殺人や猟奇殺人への戒めに選ばれたに違いない」

 すると嘉樹は陽気に相好を崩した。

「ふふふ、村上さんは所のホットシートでなく、むしろこの階のホットシートに相応しい」

 村上は首を傾げたが、直樹に語義を解説され、愉快げに笑った。「重責を負う立場」と「電気椅子」を同じ単語で掛けたのである。

「ははは、日本に電気椅子は無いが、褒め言葉と取っておこう」

「そういえば僧籍をお持ちなんですよね」

「ああ、今はこんな俗体をしているが退職したら寺に籠もるつもりだ」

「では、私は六道りくどうのどこへ落とされますか」

 嘉樹は鯛握りを頬張りながら訊いた。ちなみに六道とは仏教用語で、衆生が生きているときの行いによって、死後住む事になる「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の六つの世界を指す。村上は感心しつつも驚いた。

「ほう、よく知っているね。君はてっきりクリスチャン一筋かと思い込んでいたよ」

「娑婆にいる時、部下に詳しいのがいましてね。それで?」

「地獄か餓鬼か、畜生か。全てはごうによる。でもこの世が六道みたいなものじゃないか。甘美この上ない天上界に暮らしている少数もいれば、亡者の如く金銭に群がる餓鬼もいる。情炎に身を焦がす畜生もいる。戦いに明け暮れる修羅もいれば死の恐怖に怯え続ける地獄もある」

「その地獄から明日漸く解放されるんですね」

 嘉樹はガリまで綺麗に食べ尽くし、割箸を箸袋に仕舞うと緩りと茶を啜った。その臆することなく悠然とした立ち居振る舞いは開悟した僧に見違えそうであった。

 村上は心底感じ入った。

「本当に君は不思議な男だ。普通は執行の言い渡しをすれば大抵落ち込むか、自棄になるものだが自若としている。開き直って引かれ者の小唄を歌っている風でも無い」

「曲り形にも代紋を背負っていますから、みっともない死に様は晒したくないんです。それだけです」

「いやいや、どんな大組織の親分でもいざ執行となれば脅えるもんだ。君の場合輪廻から遠く離れ、仏果に座しているようにも見える」

「買い被り過ぎですよ」

「そんな事はない。君がアラードクの発起人となってから荒んでいただけの住人の意識は変わった。反面、担当は大変だったかもしれんが、君は皆に生きる希望と人権を与えた。全く、君のような有能で清々しい快男子とは塀の外で会いたかった」

「──部長、もう消灯の時間です。そろそろ九二〇〇番を房に戻さねばなりません」

 どうしてか誰も彼も嘉樹へ肩入れする。直樹の胸には忽ち悪感情がうねった。

「そうだな。では竹之内君、今日はもう眠りなさい」

「寿司、旨かったです。ご馳走様でした」

「これくらいしか私にはしてやれないから。いや、そうだ。明日特別に欲しいものはないかね」

 そうですねと嘉樹は暫く考え込んだ。そして何かを閃いたようで、村上の側に寄ると密かに耳打ちした。村上は希望の品が意外であったのか、聞き終えると可笑しそうに了承した。

 直樹は最後の最後まで一人疎外された嫌悪感を顔一面に浮かべていた。



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