試練 Ⅴ


 それから六日後の帰宅時間が迫る頃、内ポケットの携帯が振動した。

 画面には名私大の表示が出ていた。直樹は万一を考慮し病院には番号を知らせてあったので至急担当台に戻り通話ボタンを押した。

「はい、東です」

「直樹さん? 私、RTCレシコの吉住佐和子です」

「え──あ、ああ、吉住さん」

 直樹は意外な人物の着信に戸惑った。移植の返事は二週間待ちなのに突然の連絡である。嫌な予感が頭を掠めたが、勤務中のため一旦通話を切った。

 そして勤めが終わると裏の公園に歩を進めながら電話を掛け直し、口調低く切り出した。

「やはり移植は却下されましたか。こんなに早く結果が出るようでは」

 症例的に見れば直ちに拒まれるのが普通で、待つ事さえ本来意味がない。

 だが、予想に反し佐和子の声は明るかった。

「いいえ、逆です。基準審査をクリアしたんです」

「は? えっ?」

「お母様、生体肝移植を受けられるんですよ。移植適応判定委員会会議の席で正式に認定されたんです。それでドナーの貴方に検査を受けて頂いた上で手術の日程を決めなくてはいけませんから取り急ぎお電話したんです」

「本当ですか!」

 嬉しさのあまり直樹は電話に向かって何度も頭を下げ、官舎へ大急ぎで走った。

 瑞樹も歓喜してくれ、話はとんとん拍子に進み、移植に掛かる費用も森本家が負担してくれる事となった。

 ここ暫く暗いニュースばかりで気が滅入っていた時にこれは最高の吉報と言えた。

 直樹は佐和子と何かしらの協力をしてくれただろう和幸にも直ぐ報せを入れていた。

「よかったな。そうか」

 ところが、和幸は喜んでくれているものの、他人行儀というか、妙によそよそしかった。

 直樹は急に佐和子と名私大内科脳血管部の三者会談を知りたくなった。

「なあ、吉住さんとはどんな密議を凝らしたんだ」

「密議とは事々しいな。研究発表の余談に終始しただけだ」

「余談に脳血管医が必要なのか。お前おかしいぞ。多分アルツハイマーの件なんだろう」

「直樹、医者にも守秘義務がある。残念だが教えられない」

「おい、俺はお袋の身内だぜ。ドナーの俺に伏せてどうするってんだ。患者にはカルテ開示を求める権利だってある。何ならお袋の代わりに俺が請求したって──」

「馬鹿野郎、止めろッ」

 冗談めいた軽口に和幸は嘗てない怒りを発した。それもカルテの単語を出した途端出し抜けに声が尖った。

 直樹は驚いた。

「悪い、何か気に障ったか」

「いや、俺も怒鳴って済まなかった。とにかく佐和子さんの方も一生懸命業務を全うしようとしている。お袋さんを助けたいならこれ以上訊くな。後、病院関係者にも何も話すな。これは友でなく一医師の指示として従ってくれ、分かったな」

「ああ、了解したよ」

 直面しているのが母の移植である。含みある念押しだが直樹は無理矢理納得した。

「直樹、それよりお前もいよいよドナーになるんだ。今まで以上に肝臓を労れよ。悪いが急患が来たみたいだからオペの日取りが決まったらまた知らせてくれ、じゃ」

 愛想も無くガチャリと電話は切られた。

「そう、さっきの電話で和幸君がそんな忠告を」

 夕飯時、瑞樹は鍋に煮立つポトフをかき混ぜながら、夫が愚痴る通話の顛末てんまつにじっと耳を傾けていた。

 直樹は冷蔵庫から生人参を取り出し、ジューサーをセットしながら首を捻った。

「奇っ怪なんだ。今まで患者の知る権利とか、セカンドオピニオンの現状なんかを何度も討論したのに今日に限って一方的に守秘義務ときたもんだ」

「──」

「瑞樹、何か焦げ臭くないか」

「あ、いけない。ジャガイモが底にくっついてる」

 瑞樹は慌てて鍋を移し替え、ブイヨンスープを足した。

「ぼけっとしていると危ないぞ。どうした」

「ごめんなさい。今さっきの話で少し気になる点があって」

「どこが?」

「吉住さんは最初お義母さんの移植はアルツハイマーが壁になっていると判断していたんでしょう。和幸君と相談しただけで適応になるのかしら」

「そう、そこなんだよ。隠し球を持たれてるのは間違いないけど、さっぱり見当付かないし、あそこまで言われては詮索も出来ない」

 気心の知れた親友に事を秘され、とても悔しそうに人参を破砕する姿を瑞樹は微笑ましそうに眺めていたのだが、その拍子にはっと閃きが走った。

 麻生はカルテ開示の部分に異常に神経質になった。そしてコーディネーターと脳血管医の秘密会議。その後に続く移植のゴーサイン。

 全てを結び付けるキーワードを推知した瑞樹は唖然と唇を動かした。

「もしかしたら和幸君達、カルテを──」

「あ、ジューサーの音で聞こえなかった。和幸が何だって」

「ううん。別に何も。ところで最近お仕事の調子はどう」

「奴はいつも通り、図々しいまま変わりない」

 瑞樹は料理を盛り付けたスープボウルを置いて黙った。

 名前を出さないよう苦心しているのに九階の業務について訊くと全部嘉樹に抵触してしまう。直樹も敢えて意識しまいと心懸けているのだが、その気遣いが却って二人の間を陰暗にしていた。

 瑞樹は九階へ上がってから少しずつ変化している夫の心中に気付いていた。

 親殺しの兄が存在するだけが理由ではない。死刑囚という特別な人間への交わりが大きな要因になっているのは明白であった。

 微罪な囚人達、特に薄倖な環境から発生したやむを得ない犯罪にはいつも寛大であるのに、反省のない重罪人には容赦なく批判した。話では殆どの死刑囚が冤罪無罪を主張し、特別処遇の要求を繰り返しているばかりで、その気儘で傲慢な態度が癇に障り、九階に流れる空気を日に日に硬化させていくようであった。

「瑞樹、おい、聞いてるのか」

 瑞樹はスプーンとフォークの叩き鳴らされた音で我に返った。

「ごめん。またちょっと考え事してて、何だった」

「俺の検査。吉住さんは早く受けて欲しいって言ってたから明日にでも部長と所長に掛け合ってみるよ」

「三ヶ月の休職ね。貰えるかしら」

「断われんさ。ドナーの範囲は限られるから血液型の関係上俺しかいないしな」

「私はA型で不適合。また直だけに負担を掛けるのね」

 直樹はポトフをさらえ、口周りに付いた粒マスタードをティッシュで拭った。

「俺は自分の意志で助けたいだけだ。吉住さん曰く、家族間とはいえ臓器提供の無理強いはしないのが鉄則らしい。特に名私大の場合生体肝移植では二親等の血縁条件がついている。お前が悩む必要はない」

 生体肝移植のドナーは基本、移植学会の倫理指針によって、成人で、親族六親等以内、姻族(配偶者の親族)三親等以内でとの理解になっている。ただこれは学会の指針で、より厳しい基準を提示している施設もあり、名私大病院の場合かなり限定的な条件に絞られていた。

「でも、直、私のお父さんはお義母さんの実弟よ」

「だけど血液型はお前と同じ。弟の真輝まき君もA型。晃子義母さんはB型。病院の規約がどこまで民法に絡んでいるのかは不明だけど、ややこしい所だ」

「もう少し融通が利けばいいのにね。それはそうと吉住、佐和子さん、レシピエント移植コーディネーター(RTC)とかドナー移植コーディネーター(DTC)って裏に幾つも肩書きがあるけど」

 瑞樹は食器棚の小物入れから写真入り名刺を取り出し興味深げに眺めた。

「ああ、彼女はネットワークから試験的に主任を任せられていて後進の育成にも努めているんだと。後はティッシュ移植コーディネーター(TTC)といって心停止後の組織移植専門家もいると話してた。ま、担当医の腕も指折りらしいし、手術の成功率も高いと評判だから大船に乗った気持ちでいるさ。癌と肝硬変が治癒したら今度は和幸の病院でアルツハイマー治療を継続してもらおう。そうすれば俺も安心して任務に専念出来る」

「それにしても佐和子さんて有能なのに可愛い人ね。直がのぼせるのも無理ないわ」

「おい、俺はお前に惚れているんだぞ。何言ってるんだ」

「あら、浮気常習犯の常套句よ、その言い回し」

 席を立ちエプロンを着た瑞樹はわざと疑いの視線を送り、後片付けを始めた。

「まぜ返すなよ。俺はお前をずっと好きだったんだぞ」

 直樹は洗い物を手伝いながら照れ隠しに顔を背けた。

 瑞樹は少し頷いた。

「知ってた。昔から」

「なら随分振り回されたな。好んで俺の気持ちを弄んでいたのかと恨んだ時もあった」

「私はそんな酷い真似しない」

「判ってる。でもお前に嫉妬を感じていたのは事実だ」

「異性なのに変ね」

「確かに変だ。だけど嘘じゃない」

 キッチンに立って会話を交わす二人の声は徐々に低くなっていく。

「そうか、俺の気持ちには気付いていたのか」

「直、私ばかりを見てたから」

「迷惑だったか」

「そんな事なかったけど」

「けど、何だ」

「直の気持ちには気付いていたけど、あの頃私にはもう──」

 その時直樹は急に妻の唇を唇で塞いだ。そして口を僅かに離した。

「いつでもお前は俺に優しくしてくれた。いっそ徹底的に無視を決め込んでくれた方がどれだけ楽だったか。でも今は感謝してる。お前が女房でいてくれるのが俺のたった一つの誇りだよ」

「だから浮気はしない?」

「より愛している方が、敗者としての苦悩を強いられる」

 ドイツの小説家、トーマス・マンの一節を引用した直樹は手にしていた厚底のステンレス鍋を拳で叩いた。錆びずに硬い身持ちとの暗喩に瑞樹は忽ち噴き出した。そしてこれがこの人の純情だとも改めて思った。


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