第6話
サイリスは一晩中、うとうとしては目を覚まし、浅い眠りを繰り返していた。ふと目覚めて、カーテンの隙間から日が差しこんでいるのに気づいた時は、逆に疲れた気持ちになってしまっていた。
ユウコが大人しく眠っているのを見て、サイリスは、ユウコを起こさないように自分の部屋へ戻った。顔を洗いに行く前に、少し休もうと、そのままベッドに倒れ込んだ。そして、そのまま眠り込んでしまった。
「先生」
サイリスは目を開ける。キャサリンがサイリスの肩を揺すぶっていた。
「起きてください。かけ布団の上で寝ちゃだめですよ」
「ああ……」
「マードックさんがいらしてます」
「また?」
サイリスは起き上がる。
「やれやれ」
仕方なく、髪をなでつけながら玄関へ向かった。
ドアを開けると、いつものマードックの笑顔があった。
「おはようございます。今日も曇り空ですね」
「そうだね。実は今立て込んでてね」
「そうでしたか。さっき、郵便局に寄ったんですが、そこも立て込んでるみたいでした。なんでも、逮捕された強盗女が脱獄したらしくて、警戒態勢を整えるのに忙しいらしくて。本当は営業を休みたいって言ってました」
「ふーん」
「女は鞭を隠し持ってたらしいです。警察は仕事が雑ですからね」
「へえ」
「先生も気をつけてくださいね。で、今日は、寄付をしてくださった方々の名簿をお持ちしました。これを見てくだされば、先生のお気も変わること間違いなしです」
「悪いけど、変わらないよ。じゃあ、もう戻らなくちゃ」
「待ってください、お願いします!」
マードックは、ドアを閉めようとするサイリスに強引に身を乗りだしてくる。
「空気を綺麗にしたいんです!ご協力お願いします!」
マードックのせいでドアが閉められない。
「どうしてそこまで必死なんだ」
「わかりません!青い空を見たいんです!本の中でしか見たことありませんが、それを実際にこの目で見たいんです!どうしてこんなに焦がれるのかはわかりません!これは愛なんです!理由がない情熱が、本当の愛なんです!わたしは、青空を愛してます!」
マードックの熱に押され、サイリスは謎の感動がこみ上げてくるのを感じてしまった。
マードックが玄関ホール内に侵入してくる。
「わかっていただけます?はい、名簿です。この前の計画書はご覧いただけましたか?今日も持ってきたので、よろしければどうぞ」
サイリスは書類を受け取り、我に返った。
「ちょっと、勝手に入らないでくれよ」
「お願いします、寄付を!」
「不法侵入で訴えるぞ」
「警察は怠慢です」
しばらく押し問答で騒ぎ、マードックが去った時には、またもサイリスは疲れてしまった。
食堂へ戻ると、キャサリンが朝食を用意していてくれた。
「いつもよりも騒がしかったですね」
キャサリンが呆れたように言う。
「ああ、しつこいやつだ」
サイリスは苦笑する。
「そうだ、ユウコの様子は見たか?」
「はい、先生を起こしたあとに朝食を持っていきましたが、特にいつもと変わらない様子でした。傷が治るのはまだかかるでしょうけど」
「そうか。よかった。なるべく鎮静剤は使いたくないからな」
薬を打つのはかわいそうだし、血に不純物を入れたくない。
サイリスは、朝食のあと、念のためにユウコの様子を見にいった。
しかし、いなかった。ベッドは乱れ、スリッパはそのままだった。
サイリスは、談話室にいたアメリアとサリーに尋ねたが、見ていないという。青井の姿は見えず、キャサリンと二手に分かれてユウコを探すことにした。
「まったく……」
不安のつぶやきを漏らし、サイリスは、昨日ユウコがいた天窓のところへ向かった。
そこにもいなかった。サイリスは、使われていない病室をひとつひとつのぞいていった。生活空間の二階と玄関ホール以外は廃墟と化している。埃が積もったまま放置されている部屋はいくつあるのかもわからない。一体、見つけるまでにどのくらい時間がかかるだろう。
その時、反響して鈍くなった叫び声が聞こえた。
「ユウコ!?」
サイリスは白い廊下を見渡す。もう一度響いた叫び声をたどり、階段を下りた。
「ユウコ!」
階段を下りた先にいたのは、アメリアだった。
「先生!見て、この大きなクモ!気持ち悪い!」
「ミス・ゴールドウィン、わたしのデータベースと照合した結果、そのクモに毒はないとわかりました。害はありませんよ」
カートに乗ったトビーもいる。
サイリスは勘違いに苛ついた。
「暇だったら、ユウコを探すのを手伝ってくれよ。トージもいないし」
その時、キャサリンが階段の上に現れて叫んだ。
「先生!屋根にユウコと青井さんが!」
サイリスは急いで階段を上がる。また屋根か。入れ違いになったか。
屋根に上がると、縁のぎりぎりのところにユウコが立っていて、数メートルの距離を置いて青井が近づきたくても近づけない様子でいる。
「ユウコちゃん、ちょっとだけ僕の話を聞いてよ。きっと僕たち、話が合うと思うんだ。あのさ、五年前くらいに日本で、悪魔憑き系洋画ホラーのリバイバルブームがあったの知ってる?僕それが大好きなんだけど、ユウコちゃんも好きなんじゃないかと思って。しゃべり方が映画とそっくりだから。ねえ、ゆっくり話ししない?」
青井は必死にしゃべっている。
「黙れ」
ユウコは喉を潰した声で言う。目は血走り、裸足で、寝巻のままだ。
「お前も外の世界を持ち込む気か」
「ユウコ」
サイリスは構わず前に出る。
「こっちに来い。本当に怒るぞ」
「嫌だ」
「きみを連れ去る外の世界なんて、ないんだよ」
「ある。今日も外から誰か来た」
「マーティンか。こわがることはないんだよ。きみのお父さんとお母さんは、遠く離れたところにいて、絶対に来ないから」
「知ったようなこと言うな!お前はそれが来たって困らないから、そんなことが言えるんだ。それと、悪魔に親はいない。俺はルシファーだ!」
「言ってることがめちゃくちゃだ」
「彼女はルシファーなのですか?」
突然後ろから声がした。アメリアが、抱えていたトビーを足元に置く。
「なんで連れてきてるんだ」
「だって、役に立ちたいって言うんだもの」
振り向いたサイリスに、アメリアは澄まして言う。隣には、白ネコを抱えたサリーもいた。
「ユウコ、ネコタンだよ。一緒に遊ぼう」
サリーの無邪気な声。
「こっちに来い、ユウコ」
ユウコは頭をかきむしってうずくまった。
「嫌だ嫌だ」
声が普通に戻っている。
サイリスが肩をたたかれて振り向くと、キャサリンが背後で注射器を構えていた。
「危険な状態です。早く注射を打たないと」
キャサリンはささやく。
「そうだな。飛び降りはしないと思うんだが……」
「先生、ルシファーはどうしたのですか?」
床のトビーが言う。
「ルシファーじゃない、ユウコだ。ちょっと黙っててくれ」
「わたしの経験からして、ちょっと黙っててくれと言われる時ほど、人はわたしの助けを必要としています」
「今回はきみに助けを頼むような事柄じゃない」
「彼女はそこから飛び降りようとしているのですか?」
「頼むからちょっとだま――」
「ルシファーというのは、堕天使の名前ですよね。どういうことです?」
「ユウコは悪魔憑きなんだ。今は危ない状況なんだ、わかったか?」
サイリスはキャサリンから注射器をもぎ取り、足音を殺してユウコに近づいていった。
ユウコはまだ下を向いている。行ける。
サイリスはユウコに飛びかかった。暴れるユウコに、注射器を突き立てようとする。
「嫌あああ!」
ユウコはサイリスの手にかみつく。サイリスは耐えようとしたが、予想外の噛む力に、注射器を落としてしまった。
ユウコの足が、注射器を踏む。注射器は砕け、ユウコの足は赤いしずくを散らした。
「だめだ、やめろユウコ!」
「ルシファーだああ!」
ユウコはサイリスのシャツの胸元をつかんで振り回すように叩く。
サイリスは後ずさり、へこみに足を取られた。後ろに倒れ、頭が屋根からはみ出る。一瞬で血の気が引いたサイリスは、悲鳴を上げて飛び起きると、とにかく落ちないように縁から離れた。
見れば、落ちそうなギリギリのところで、青井がユウコを捕まえていた。正面から抱きしめるようにしている。それはいいが、青井が口を開けた。尖った牙が露出する。
「ちょ、なにやってんだトージ!」
サイリスは叫ぶ。
「わたしの牙には、鎮静作用のある薬を出す機能があるんだ」
ユウコを抱きしめたまま青井が言う。
「緊急措置として、こうするしかないだろう」
「え、ええ?」
戸惑うサイリス。
「血が飲み足りないわけじゃないんだよ。きみの女を横取りした気分を味わいたいわけでもない」
「うーん」
サイリスが迷っていると、なにかを朗読しているような朗々たる声が聞こえてきた。
「トビー?」
アメリアが不思議そうにトビーを見下ろす。
「悪魔祓いの呪文です。悪魔憑きに効果的とされています」
トビーは、音声を二重にして答えた。
「ユウコは悪魔憑きのフリをしてるだけだ」
サイリスは言ったが、その時、ユウコが笑いだした。青井に抱きしめられたまま、体がひくひくと脈打つ。
「もしかしたら効くかもしれない。そうだトビー、それを日本語にできるか?」
青井が言うと、すぐに言語が切り替わった。
ユウコは手足をバタバタさせるが、青井に攻撃を加えようとはしない。
「おおおのおおれえええ!」
ほんの少しよだれを垂らす程度の狂態を演じ、ユウコは力を失くした。代えの鎮静剤を持って走ってきたキャサリンは、ぐったりしたユウコに、戸惑った表情を見せた。
サイリスは、青井と共にユウコを支える。
「ミス・ゴールドウィン、サリー、下に戻るんだ」
アメリアとサリーは指示に従った。トビーもアメリアと一緒だ。
サイリスは、気を失ったユウコを脚立で下ろすという、昨日に引き続いて二度目の困難に取りかかった。
サイリスは、医療道具を置いている部屋から久しぶりに聴診器を持ってきて、ユウコを調べた。ベッドに寝かされたユウコには、特に異常は見られなかった。目は閉じられ、呼吸は静かだ。まぶたの下で、時折眼球が動く。もしかすると、寝たふりをしているのかもしれない。
今日は自分が付き添うと申し出てくれたキャサリンに任せ、サイリスは食堂へ戻った。
青井が勝手になにかを出してきて飲んでいる。
「お疲れ。せっかく僕が買ってきたこの海水酒、全然飲んでないじゃないか」
「それ、しょっぱいんだよ」
サイリスは椅子に崩れる。
「そりゃ、地下水に塩を入れてるんだから。そういうものなんだよ」
「悪い、遠慮する」
サイリスは、グラスに注ごうとしてくれる青井を制止した。
「ユウコちゃんはどうだ?」
「多分、寝たふりしてるよ」
「やっぱり、自分が悪魔だと思い込んでるから、トビーのあれが効いたのかな」
「どこまで思い込んでるのか、正直言ってわからないんだよ。今日は、どうしてあんなことになったんだ?」
「ユウコちゃんが廊下を歩いてるのを見かけたんだよ。なんだかただならないものを感じて、きみを呼びに行こうかとも思ったんだが、見失うとまずいと思ってそのまま追いかけたんだ。屋根に出るのをとめられなくて申し訳なかった」
「いや、謝ることじゃない。逆にお礼を言うよ」
「こういうこと、前にもあったの?」
「似たようなことは。ユウコは怯えてるんだよ。かなりひどい目に遭わされてきたらしいから。恐れって、原因が取り除かれれば消えるというものでもないだろう」
「そうだな。悪魔憑きの演技も、それが原因で?」
「だろうね。でも、結構普通の時もあるんだけどなあ」
「普通の時は、甘えてきたりもするの?」
「それはあまりないけど。性格的に。素直な時はあるよ」
「僕にはちょっと想像がつかないけど」
「本当に、ユウコはなにを考えてるのか」
翌朝は、まだユウコに付き添っているキャサリンに代わり、サイリスが朝食を準備しなくてはならなかった。
サイリスがユウコの部屋に顔を出すと、ユウコはシャープペンシルで熱心に机に傷をつけていて、キャサリンはユウコのベッドでしどけなく眠っていた。
「キャサリン!」
「は、はい」
サイリスの声に、キャサリンは半開きの目をして起き上がった。
「寝るなら自分のベッドにしなさい。疲れたなら、そう言ってくれていいから」
「はい、すみません」
キャサリンは、目をしょぼしょぼさせて出ていった。
サイリスは、ユウコに向き直る。
「ユウコ、体調はどうだ?」
ユウコは、サイリスを上目づかいに見上げるが、なにも言わない。
「ユウコ、自分が迷惑をかけてるのがわかってるか?きみがつらいのはわかるが、みんな少なからずつらいんだ。生きてるっていうのはそういうことなんだよ」
「うるせえわ!」
ユウコはシャープペンシルを投げたが、サイリスがよけるまでもなく、壁に当たって落ちた。
「もう子供じゃないんだから、少しは自制してくれよ」
サイリスは腕を組み、厳しい姿勢を崩さない。甘い態度はよくないような気がするのだ。なんとなく。
「わかったから出てけよ」
すごむユウコにサイリスは肩をすくめ、ユウコの言った通りにした。
サイリスはサリーのところへ行き、ユウコと遊んでくれるように頼んだ。なにかあったらすぐに言いに来るように、とも。サリーは嬉しそうにうなずいたが、サイリスは、ユウコのことを情けなく思った。再び落ち着けばいいが、ひどくなれば、部屋に鍵をかけることも検討しなくてはならない。
サイリスが食堂で青井と将棋を打っていると、カートにトビーを乗せたアメリアがやってきた。
「ミス・ゴールドウィン」
サイリスは、少し緊張して言う。そういえば、アメリアとの問題は放置したままだ。
「トビーが、ユウコの悪魔祓いを引き受ける、ですって」
アメリアが言った。
「はい。わたしが、ユウコを助けて差し上げます」
トビーが堂々と言う。
「トビー、ユウコには本当に悪魔が憑いてるわけじゃないんだよ」
サイリスは呆れて苦笑した。
「しかし、昨日のわたしの呪文は効いたじゃないですか。あれだけでルシファーが出ていったとは思えないので、もう一度、きちんとした儀式を」
「昨日のはたまたまだ。ユウコは、悪魔憑きのフリをしてる、ちょっと不安定な普通の女の子なんだよ」
「フリをしていると判断する根拠はなんですか?わたしの中のデータベースによると、悪魔憑きの対象となるのは、極普通の人間です。それも、正気に戻る時間もあり、その時は、ほかの人間となんら変わりません」
「え、そうなの?」
サイリスは青井を見る。
「そういう風に描いてる映画もあるよね」
青井は、自信なさげに言った。
「いや、とにかく、ユウコのあれは演技なんだ。それは確かだ」
「印象というやつですね。人間のその判断基準は理解が難しくて厄介なんですよね」
トビーは、ため息でもつきそうだった。
「いいから、トビーに任せてみたらどうですの?あの子には、わたしだって迷惑してるんですもの。言葉遣いは汚いし、しゃべり方はウザいし」
「そうだよ。やってみて損はないんじゃないか?」
アメリアと青井がそう言い、サイリスは、反対する理由もないか、と思い始めた。ユウコが、自分には悪魔が憑いていると本気で思い込んでいるなら、悪魔祓いも効くかもしれない。
決まったとあれば、すぐに準備に取りかかった。サイリスと青井とアメリアで、その辺りのもので即席の十字架を作った。ヴァンパイアは十字架を嫌うというのも、流布された知識の中で間違っているもののひとつだ。ニンニクも大丈夫だし、聖水も同じだ。ヴァンパイアは、一般に思われているほどやわではない。
夜、キャサリンとサリーも駆り出され、ストローや注射器などで作った十字架を手に、一同はユウコの部屋へ押しかけた。
「な、なに?」
早くもベッドに入っていたらしいユウコは、丸い目をしばたたいた。
「これから、悪魔祓いを執り行う」
カートに乗ったトビーが、いつもとは違う、低く威厳のある声で言った。
サイリスとキャサリンが、素早くユウコをベッドに拘束する。
「なにすんだよ!?」
両手をあげた格好で、手首をベッドに手錠でつながれたユウコは、喉を潰すのも忘れて叫んだが、みなは真剣な表情で見下ろす。
「ごめんな、ユウコ。少しの間の辛抱だ」
サイリスは、卵の緩衝材だった藁を束ねて作った十字架を胸に、みなと一緒にベッドを囲む。
「では」
トビーは、悪魔祓いに有効だとする呪文だか聖書の一部だかを唱え始めた。原典の言語、英語、日本語で繰り返す。みなは、固唾を飲んでユウコを凝視した。
しかし、ユウコは暴れもしなければ、叫びもしなかった。眉をひそめ、じっとしている。
トビーは懸命に繰り返すが、サイリスは、しびれを切らして制止にかかった。
「トビー、もういいよ」
「でも、先生、この儀式には根気が必要で」
「ユウコを見ろ。どうすればいいのかわからなくて困ってる顔だ」
トビーは大人しくなった。
「悪魔祓いは失敗だ」
サイリスの言葉で、みんな十字架を下ろす。アメリアとサリーは、つまらなそうに出ていこうとする。
「おい、いきなりこんなことして、俺に対する謝罪はないのか」
ユウコはもっともなことを言った。
「ごめんなさい」
初めに謝ったのはトビーだ。
「ですが、あなたの中の悪魔はどこに行ったのですか?」
純真無垢な声色で尋ねる。
「えーと、それは」
「今は眠っているのかもしれませんね。また改めて儀式を行うことにしましょう」
「ふざけんな」
ユウコは拘束された手首を引っ張る。
「もうこんなことは勘弁だよ」
「でもですね、悪魔が憑いたままでは、なにかと不便でしょう。先生は、悪魔憑きは演技だとおっしゃっていましたが」
「そうだよ!悪魔なんか憑いてるわけないだろ!」
ユウコの叫びに、みんな沈黙した。アメリアとサリーも振り向く。
「なんだよ」
凝視されたユウコはみんなを睨む。
「あなたにはルシファーが憑いているわけではない、と」
冷静に確認するトビーに、ユウコは吐き捨てるように言った。
「わたしは庭池優子。それ以外のなにかだったことはない」
「おお、ユウコ!」
サイリスは両腕を広げた。
「なんてことだ!初めて自分が自分だと認めたじゃないか!すごい進歩だ」
サイリスは感動で泣きそうだった。
「先生は気違いがお好きなんじゃありませんでしたか?」
キャサリンの冷静な突っ込み。
「あ、そうだった」
ユウコがまともになってしまった。これはこれで大変なことになった。
「どうしよう。退院させなくちゃだめかな?でも、ユウコの引き取り手なんていないし」
「わたしを外に放りだすつもり?」
ユウコは可能な限り身を乗りだす。
「わたしは、ユウコだったらずっとここにいてもらってもいいと思うんだが。どうだ、キャサリン」
サイリスは、ユウコの剣幕は無視するフリをする。
「異論ありません」
即答するキャサリン。
「まあとにかく、おめでとう」
おざなりに手を叩く青井。
サイリスは、ユウコの手首の手錠を外してやる。
「なんだかすごく安心したよ。やっぱりちゃんとわかってたんだな」
「自分のことくらい、はっきりくっきりわかってるだろ。普通は」
ユウコはつぶやいた。
「昨日、トビーのあれが効いたのは演技か?」
「引っ込みがつかなくなってたから」
ユウコは決まり悪そうに言う。
「本気出せば女優だな」
いつものお粗末な演技よりは真に迫っていた。
「もう、あんな真似はしないでくれよ。大丈夫だから」
ユウコはうなずいた。
おやすみの挨拶をして、やれやれと部屋を出ると、サリーがサイリスの白衣の袖を握った。
「ユウコは元気になったの?」
テディベアと十字架を持ち、無垢な表情でサイリスを見上げる。
「そうだよ」
「よかったね」
サイリスは、笑顔を向けるサリーの頭をなでる。すると、サリーは無表情になり、頭痛を振り払うように目をぎゅっと閉じては開いた。
「サリー?」
サリーはテディベアと十字架を取り落し、下を向いた。と思えば、すぐに素早く顔を上げる。
頭から離そうとしたサイリスの手首をつかむ。
「先生」
サリーはサイリスを捕まえたまま、大人びた口調で言う。
「さっきからずっと見てたけど、正気に戻ったからって、ユウコはくだらない女のままよ」
「あ、見てたのか、サリー」
大人のサリーは、子供のサリーの中で目覚め、視界を共有していることもあるらしい。
「今日はわたしのところに来る?」
「今日はもう寝るよ」
サイリスは手を振りほどいて逃げようとする。
「つまんない。双六しでもしましょ。ね?」
サリーはサイリスに体を擦りつける。
見れば、アメリアが二人を睨んでいた。
「トージ、厄介ごとに付き合せて悪かったな」
サイリスは戻ろうとしている青井にすがり、頬を膨らませるサリーに背を向けた。
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