星の果ての孤独より

らん

コーヒーブレイクのような一ヶ月の休暇<上>

 二一二九年八月八日


 足を一歩踏み出すと蒸し暑い熱風を感じて私は慌てて建物の中に戻った。今、日本のつくば市は夏真っ盛りの八月だと聞いていたが、半年も離れているとこの八月の熱をすっかり忘れてしまうものだ。ほんの一瞬だったのに、頬にはじわりと汗が浮かび、髪が張り付く。外の空気を吸いたいという数分前までの渇望はしゅるしゅると萎み、私は大人しく地下のBRTの駅へと向かった。幸いこの研究所の作りは私にとっての半年前と――絶対的スケールで言えば七年前と変わっていなかった。

 片手にはトランク。レトロな作りが気に入って、ずっと使っているものだが如何せん目立つ。宅配便を手配しようかと言われたが、見た目ほど重いわけでもないので断った。少しの衣類と身の回り品が詰められているだけだ。なんなら中身は捨ててしまってもよかったのだけれど、空っぽのトランクほど味気ないものもないだろう。

 私はBRTの駅で手元の携帯端末を開いてかざす。最近では日本でもすっかり量子配置確認システムによる決済が浸透しているようだけど、なにぶん地球に帰ってきたばかりの私は古風なやり方をするしかない。行先は東京。下りる駅を登録すると目を閉じた。眠るつもりはなかったけれど、じっと座っているには、1時間は長すぎた。




 『量子物理学の目覚め』と呼ばれる二〇五〇年代、ある天才科学者によって量子物理学は目覚ましい発展を遂げ、様々な分野でブレイクスルーを起こすことになる。一番の恩恵を受けたのが宇宙開発だった。どれだけロケットの性能をあげようと到達できる距離には限界がある。空間切断移転航法(SCTN)は時間という壁にぶつかった宇宙開発分野の救世主だった。

 空間距離を無視して宇宙飛行士を送り出せるようになったのが二〇五六年。「もはや宇宙は飛行ではなく跳躍をする場所である」という最初の宇宙跳躍士へクター・マーティンの言葉はまたたく間に世界中へと広がった。そして私は三十四人目の宇宙跳躍士として三十九光年先の星へと旅立った。

 それから私の主観時間では一年半。そして、絶対的時間では四十五年が経った。

 空間切断移転航法は確かに時間の壁を取り去った。それでもなお、宇宙はあまりに広かった。空間切断移転航法はある一定以上の距離(一説には二十光年とも三十光年とも言われる)を跳躍した際に、シャトルと地球で時間の進み方に大きなギャップが発生することが判明した。船内では半年しか経っていないのに、地球に帰還したら何年も経過しているということがざらに起こるのだ。


 私たちは宇宙跳躍士は一人で星の海へ旅立ち、戻ってきた地球は常にいつも違う顔を見せる。

 だからこそ、私たちは孤独だ。




 東京の隅田川沿いにあるマンションが一ヶ月ほどある私の地球滞在の宿になった。私が半年の任務を終え、地球に帰還すると絶対時間にして七年五ヶ月が過ぎていた。最近の宇宙跳躍は宇宙船と地球の時間のずれを三年から十年に収めるように計算を重ねている。だからおおむね想定内の帰還といえるだろう。他の国の事情はともかく、JAXA所属の宇宙跳躍士である私は、日本を拠点にしている。何年も不在にするため家はなく、少ない持ち物はJAXAが管理してくれていて、こうして割り当てられた宿にすでに運び込まれている。前回地球に住んでいた時の居所は世田谷にあった。この辺りは訪れたことは何度かあれど、暮らすのは初めてだ。

 地下鉄の駅からは徒歩三分。しかしながらすっかり忘れていたが、大江戸線の駅は地中深くにあって、駅の出口までが長い。BRTから地下鉄に乗り換えずタクシーを使えばよかったと後悔しながら地上へと這い上がって、真夏の一番暑い時間帯を歩くとへとへとになっていた。

 マンションのキーは顔認証になっていて、すぐに扉が開いた。1LDKの部屋は荷物に大して少し広すぎる。トランクをリビングに置くと、私はソファの上にダイブした。今日はほぼ移動しかしていないのに、久しぶりの地球だからか少し疲れた。時刻は午後三時。エアコンの聞いた部屋は涼しいが窓の外では太陽がまだ元気に地面を照り付けている。

 起き上がって冷蔵庫を覗いてみる。ミネラルウォーターが三本。そのうちの一本を取り出して、喉を鳴らしながら飲むと少し生き返った気がした。携帯端末から他に欲しいものを入力すればすぐに届けられるが、キッチン、バスルームを一通りチェックするとだいたい必要なものが揃っている。食べ物を頼むにはまだお腹が空いていない。

 携帯端末から自分宛てのチャットがないかを確認する。一応地球についてから、私のオープンなタイムラインにはそっと地球にいることを書いてある。とはいえ、私の学生時代の友人とは四十歳以上年が離れてしまった。JAXAの同僚もそう。同じ宇宙跳躍士の知り合いは、偶然地球で一緒になることは滅多にない。

「寝るか」

 私はそう決めるとベッドルームを覗いた。クローゼットには私の洋服が掛けられている。箪笥の中から楽なルームウェアを引っ張り出して着替えると、すでにベッドメイクされていた寝床に潜り込んだ。

「おやすみなさい」

 私の音声に合わせてブラインドが下がり、電気が消える。家内システムの設定は七年前に私が残したものをそのまま使用しているようだ。昼寝の際はあえて遮光カーテンは引かず、わずかに陽の光が漏れるように。滲むようなオレンジ色に、私は地球に帰ってきたのだと実感した。




 昼寝から目を覚ますと夜の七時を回っていた。

「寝すぎた……」

 外を窺えばさすがに薄暗くなっている。特段用事があるわけでもないのに、暗くなるまで昼寝をすると勿体ない気持ちになるのは何故だろう。

何か食べに行くか、もしくは食べるものを買ってこよう。私は音声入力で部屋のモニタを起動する。

 最近配信されたファッションマガジンを適当に何冊か購入して、部屋の壁一面に適当にページを並べる。近頃の日本で二十七歳の私が着ていておかしくない服装をだいたい把握して、クローゼットからブルーのシャツと白い膝丈のパンツを引っ張り出す。久しぶりに地球に帰還して地味に困るのが洋服だ。女性のファッションは移ろいやすく、七年も経つとがらっと流行りの形が変わっている。これが二十年もすれば逆に流行も一回転するのだろうが。服に合わせた黒のサンダルを箱から取り出して玄関に並べる。前回地球にいたときも夏だった。このサンダルはその時に買ったものだ。あまり履いていなかったからかまだ新品に見えた。

 化粧もそこそこに部屋を出ると、幾分大人しい夏の空気が体を包んだ。散々暑い暑いと文句をつけたが、私は夏が好きだった。隅田川沿いもぱっと見た印象は記憶の中のものと代わりない。記憶の景色が果たして、何年前のものかを計算するのはやめる。百年前ならともかく、ここ最近の日本で風景が変わるような開発は行われていない。

 記憶の中にもある馬鹿でかい鉄塔が、川の向こうに見える。川べりを歩くと、同じように散歩をする人々が目に入った。家族や恋人、時々私と同じように一人で歩く人もいる。道を行く人は私のことは目に入っていないようだった。

 川沿いにカフェがあった。そこでご飯にしようと思ったのは店の前に出ている、薄い電子ボードに「開店から三ヶ月経ちましたが~」という記載を見つけたからだ。最近できた店らしい。

「いらっしゃいませ」

 カウンターに立っている店員は私と同じか少し若い青年だった。

「コーヒーとクロワッサンのサンドイッチを一つ」

「はい」

 携帯端末を見せるとそこからお金が引き落とされる。つくばの研究所で聞いた話によれば、すでに携帯端末からの支払いは「古い」もので、今は量子配置確認システムによってそこに立っているだけで済むらしい。最初の設定に少し手間がいるというからしばらくは古いやり方を通すしかない。

 コーヒーを淹れながら、店員は私に尋ねた。

「初めてですよね」

「ええ」

「ご旅行ですか?」

「いえ、仕事で長く海外にいたんですが、久しぶりに日本に戻ってきたところです」

 こう言っておけば、多少頓珍漢なことを言っても日本の事情に詳しくないと勝手に受け取ってくれる。知識こそ太陽系軌道まで戻ってきたシャトルの中でも、戻ってからでも得ることはできる。けれど、その時代の空気感や社会の流れのようなものにはどうしても疎くなる。

「そうでしたか。この辺りは変わらないでしょう」

「そうですね」

 私は曖昧に微笑んだ。コーヒーとサンドイッチを受け取ると、川に面したガラス窓の前に座ってささやかな夕飯を楽しんだ。薄暗い中を声を上げて走っている少女たちがいる。手を繋いで歩く男女がいる。そのありふれた光景は七年前もそこにあったし、七十年後もそこにあるだろう。あればいいな。

 携帯端末を開けばここが七年経った故郷地球だと教えてくれる。けれど、知り合いとの交流もなく、待っているものもいないこの世界で、私にとってもはや過ぎた年月というのは大きな意味を持たなかった。ただ、同じ風景がそこにあることを密かに祈っている。

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