第2話

 そんな移動が秘密裡に行われた、翌日の朝。


 登校してきた朝比奈さんは、席替え後の窓際の机へ自分のカバンを置こうとして、はっと驚いたように目を見張った。


 それはそうだ。昨日離れたはずの机が、新しい場所へ自分を追うように移動してきていたのだから。



 彼女は、不思議そうに辺りを見回して……少し首をかしげるように微笑みながら、平司さんにぽそっと話しかけた。

「……もしかして……

私が何度も弱音を吐いたから、心配でついて来てくれたのかな」


 彼女が平司さんに話しかける……それは、本当だった。

 前屈みに椅子を引く拍子に長い髪がさらりと肩から落ち、ふわっと甘いその香りが、隣にいる俺のところまで漂う。


「じゃ、これからまたよろしくね」

 周囲に感づかれないよう、彼女は小さくそう囁いて微笑んだ。



 平司さんが恋に落ちるのも、無理はない。

 ……その時俺は、はっきりとそう思ったのだった。





✳︎





 梅雨が明け、明るい夏の日差しが空を満たし始めた。

 夏休みももう目の前だ。



「しばらく、あなたに会えないね」


 誰もいなくなった放課後。

 窓際の席で夕風に吹かれながら、朝比奈さんは、平司さんにそう呟いた。


「……家にいたって、仕方ないし。

休みなんていらないから、こうしてあなたの側にいられたらいいのに」


 そう言うと、彼女は机の中にそっと両手を置き、平司さんの上にコツンと額をつけた。


「机の中って、ひんやり冷たくて、気持ちいい。

鬱陶しい外の暑さを、忘れられる」



 窓の外の青葉をさわさわと鳴らしながら、風が吹き抜ける。



「——ねえ。

木って、自分が誰から生まれたかとか、知ってるの?

……ふふ。分かるわけないか、そんなこと。


……私のお母さんはね。

私がいなければよかった、と思ってるみたいなんだ」



 そんな彼女の言葉に——平司さんの呼吸が、ぐっと詰まる気配が感じられた。



「私が中学3年の時、父さんと離婚してね。

母さん、一人で私を育てることになって——それが、とても負担みたいなの。


夜遅くまで働いて。ろくに休みもなくて。

お金なんか貯まるわけもなくて。だんだんやつれて。

いつも、ため息をつくようになった。


それで、1年くらい前——夜中、母さんがキッチンでビール飲みながら一人で呟いてるの、聞いちゃったの。

どうして不妊治療までして生んだんだろう……って」



 小さくそう呟く朝比奈さんの目が、微かに潤む。


「それを聞いてから……自分が、どんどん一人ぼっちになっていく気がして。

自分がいて喜んでくれる人って、もしかしたら、世の中に誰もいないんだなあ……って。


こんな恥ずかしい話、誰にもできない。

でも——心が痛くて、寂しくて、たまらない。

いくら苦しんだって、仕方ないのに。


あなたが羨ましい。とても。

どれだけ傷がついても、痛みなんか感じない心が欲しい。

どれだけ重くても、強く足を踏ん張って生きられる心が欲しい。


————私も、あなたみたいになりたい」



 彼女の瞳は、潤みながらも涙をこぼさない。

 心の奥の何かが、それを踏みとどまっている。

 聰明な彼女は——いつもそうやって、ひとりで痛みを堪えているのだろう。



 当然だが、机の声など、人間には届かない。

 平司さんは、今、どれだけ彼女にその想いや言葉を伝えたいだろう。


 ——あなたは、一人ぼっちじゃない。

 あなたに出会えたことを喜び、あなたの側で幸せを感じている存在が、ここにいる、と。



「……不思議。

なんだか、温かい」


 その時、彼女は平司さんの身体の上にふと掌を置き、そう呟いた。



「さっきまでは、指先を冷やしてくれていたのに……

どうして今は、温かいの?」



 その通りだった。

 隣で平司さんに触れている僅かな部分だけでも、それは感じられた。

 さっきまでは熱を吸い込むように冷たかった平司さんの身体が、今は明らかに熱を発している。


 ——平司さんは、そうやって自分の全ての力を使い、必死に彼女に気持ちを届けようとしているのだ。



「……よくわからないけど……

なんだか嬉しい。すごく。


あなたに応援してもらった、って思うことにしちゃおうかな。

……おかしなヤツ、と思うでしょ?うん、私もそう思う。ふふっ。


——ありがとう」



 朝比奈さんは、もう一度手のひらで平司さんを優しく撫でると、心から嬉しそうに微笑んだ。




 力を使った疲れのせいなのか、彼女の心を思っているのか……

 その日、彼女が帰ってからも、平司さんは一言も口をきかなかった。





✳︎





 夏休みが明け、9月も終わりに近づいた頃。

 明日席替えを行う、と、担任の教師が3-Aの生徒たちに発表した。


 ざわざわとどこか浮き立つような空気の中、朝比奈さんはいつものように穏やかな表情で、まっすぐ前を向いたままだった。

 平司さんに、何か囁くだろうか——そんな俺の期待をよそに。




 その日の深夜。

 秋の始まりを感じさせるひんやりした夜の空気の中、俺は隣の平司さんに呼びかけた。


「……平司さん」


「——ん?」


 彼も眠れないのだろうか。はっきりした声で、小さな返事が返ってきた。


「夜中にすみません。——ちょっと気になっちゃって。

席の移動、今回は……どうしますか?」



「…………いろいろ考えたんだがな。

今後は、少し離れたところで彼女を見守ろうかと思うよ。

いつまでも追い回すようなのも、彼女のためなのかどうかわからないし……まあ、所詮机だしな」


 平司さんは、どこか冗談交じりにそう呟いた。

 そんな冗談を混ぜれば混ぜるほど——その裏にある、彼の本心がひしひしと伝わってくるような気がした。



「——そうですか」



 彼がそう決めているのに、俺なんかが口を挟む場面じゃない。



 そのまま俺たちは黙り込み……やがて、静かに眠りについた。






 翌日。

 席替えを終え、皆帰宅した静かな夕方。


「やった〜!私今回は平山くんだー♪男の子なのにすっごい可愛くて優しくて、いい子なのよねー。彼となら楽しくやっていけそうっ!!♡」

 真帆は、以前の三井熱をけろっと忘れ、今度移動してくる平山にハートマークを散らかしている。

 そんな彼女の様子を、ジミーはなんとなくじとっとした目で見つめていた。

「真帆ちゃん、あのさ……俺のことも、ちゃんと好きなんだよね?」

「もちろんじゃな〜〜い♪大好きよ、ジミーのこと♡」

「…………」


「よーし、とりあえず今回は交代希望はないか?今のうちにちゃんと希望出してくれよ〜」

 前回とは違い、平司さんはこれまでの彼にすっかり戻り、優秀なリーダーらしくきりりとメンバー間の調整を取り仕切っていた。

「平司さん、今回はみんな大丈夫っぽいっすよー」

 クロがそんな大掴みな返事をする。

「ん?そういうお前が一番心配なんだぞ俺は」

 平司さんの明るい冗談に、クラスの机たちがどっと笑う。


「……しっ!!誰か来るわよ!」

 何か物音を聞きつけたタカコが、そんなお喋りを鋭く制止した。

 そうして……ピタリと静まった教室に、そっと誰かが入って来た。


 ……どうやら、女子生徒だ。



 窓際まで来ると、彼女は平司さんに歩み寄った。


 そして、おもむろに彼の肩を掴んでそっと持ち上げ、大きな音を立てないように別の場所へ動かし始めた。

 やがて、ある位置へ平司さんを据えると、今までそこにあった机を窓際の平司さんの場所へ静かに運んだ。


 ——つまり、机の交換をこっそりと行ったのだ。



「……机取り替えるくらい、怒られないよね?」

 そんなことを小さく呟くと、彼女はちょっといたずらっぽく微笑み、静かに教室を出て行った。




「……………………うわああああ〜〜〜!!!??なっっっ何今の!!?」

「平司さん、もしかして朝比奈ちゃんにお持ち帰りされちゃったとか!?何それ一体どういうこと!!?」

 クラス内が一斉にどっとどよめく。


「お、おいっ!!お前らうるさいっっっ!!!

おっっお持ち帰りとか下品なことを言うんじゃないっ!!!」

 散々に浴びせられる机たちの冷やかしに、平司さんは真っ赤になって必死に抗議を続けるが、こうなってはもう隠しようもない。



 そんなこんなで、俺たちメンバーは晴れて一丸となって平司さんの恋を応援できるようになったのだった。




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