第5話 ポケットモンスターソード(Switch)

 秋がもう終わる。足早に近づいてくる冬に先んじて、今年は早々に炬燵を準備した。つい先日まで、まだたまに冷房をつけていたくらいなのに、何をそんなに慌てる必要があるのだろう。


 この年になると、一年などは「あっと言う間」を通り越し、ほぼ意識を失っていたかのように過ぎていく。それでいて、一向に向上しない自分はまるで、時間に置いていかれているような気持ちになってくる。いや、向上しないくらいはまだいい。体力や記憶力、集中力などは、目に見えて退化している。


 四十を過ぎてもまだ焦燥を感じるのは、異常なことだろうか。このまま朽ちていくのではないかという不安は、稀有なものではないはずだ。それでも、自らの中にはもう、急激な変化に身を投じる気迫がないことは明らかだと、これはこれでいいのだと、言い聞かせるしかないこの状況に、一種の安堵を覚えるのもまた、正常の範囲なのだろう。


 概ねは抵抗なく通じる炬燵の中からの電波が、ごく稀にわずかな抵抗を示し、キャラの動作が鈍くなることがある。


 こいつは俺とは違い、まだ生まれたばかりの「新型」なのに、すでに世の中に対して自身を主張しているのだ。だが、角度を変えられたり、それこそ炬燵から外に出されるだけで、抵抗むなしく言うことを聞かされる宿命にある。


 俺は炬燵からそいつを、新型Switchのコントローラーを出した。抵抗を感じたわけではない。単純に、攻略本のページをめくる必要があったからだ。


 俺はSwitchでプレイする最初の作品に『ポケットモンスター ソード』を選択した。現在はクリア後のおまけストーリーを進めているところだ。


 ドラクエ・FF世代である俺は、やはりポケモンにハマることができなかった。購入前から、それはわかっていた。


 この『ソード・シールド』は現時点のシリーズ最新作ではあるものの、従来の作品と同じように「ポケモンを捕まえて強くして、ジムを回ってバッジを集めて、最後にリーグに挑戦して終わり」という内容であった。多少、物語に起伏はあるものの、どこか物足りなさを感じてしまう。やはり子ども向けだと感じてしまう演出が多いのも、テンションが上がらない原因だ。


 子ども向けの演出が悪いわけではない。ポケモンは子どもたちのものであり、子どもたちはその世界に胸を躍らせる。俺が躍らないのは、俺の所為なのだ。


 楽しくなかったとは言わない。現にちゃんとクリアしているし、クリア後のストーリーも終わらせるつもりだ。


 だが結局、気合を入れて購入した分厚い攻略本を見ながら、何かに追われるように「終わり」に向かっている。まるで、次へと急ぐ季節のように、俺はこのゲームを早く終わらせて、次に進みたがっているのだ。



 ポケモンは、通常のRPGにはない、もう一つの楽しみ方がある。


「対戦」だ。


 インターネットを通じて、世界中の人と鍛え上げたポケモンを戦わせることができる。


 それがとても素晴らしいことだというのはわかる。


 だが、俺にはその楽しみ方ができない。


 その理由は、俺がケチだからではない。Switchでオンライン機能を活用するには、ニンテンドーSwitchオンラインという、有料制のサービスに加入しなければならないが、年払いなら月額200円である。社会人である俺が、支払うのを躊躇するような額ではない。むしろ、百円均一の店で、百円だからと言ってろくに使いもしない雑貨を、ホイホイとカゴに放り込むのを躊躇すべきだと思う。


 ではなぜ俺がオンライン対戦をしないのか。それは、負けず嫌いなうえに、頭が良くないからだ。


 昔のゲームは尖ったものも多かったが、俺が愛したRPGのジャンルでは、そのほとんどがレベルを上げてキャラクターを強化すれば、敵を力で圧倒することができた。


 だが、昨今のRPGはその尖った部分だけが美化され「ギリギリの緊張感」やら「ゲーム性」がやたら重要視される傾向にある。ソーシャルゲームなどはその典型で、キャラクターの編成やらなんやらを、トライアンドエラーを繰り返しながら、プレイヤーが思考し、挑戦し続けることとなる。


 そこに面白さを感じる人も多いのだろうが、俺はそうではない。レベルを上げて、ラスボスを圧倒したい。なんの不安もなく、敵を駆逐したい。


 その意味でも、ポケモンは当初から俺に合わなかった。例えレベルが100になったとしても、相性によっては簡単に負ける。むろん、相性が良ければ、高いレベルの敵を容易に撃破できたりもするのだが、俺が求めているのは、そういうことではないのだ。


 対人戦となればなおさらで、トライアンドエラーどころの話ではなく、時の運や、その時その時の両者の判断によって勝敗が分かれる。


 それが悪いと言っているわけではない。


 この際正直に言おう。俺は、そういうことが、もう面倒くさいのだ。


 ゲームの中でまで、あれこれ考えたくない。思考停止と言われるかもしれないが、それが、俺のプレイスタイルなのだ。


 もちろん、アクションなどのプレイヤースキルや、ある程度の思考が必要な時は、俺だって考える。だが、俺の場合、プレイするのはほとんどがRPGである。


 ストーリーが楽しい、戦闘が楽しい、アイテム収集が楽しい、レベル上げが楽しい、そういうことで、十分なのだ。その流れの中での思考や、プレイヤーとしてのスキル向上(戦闘時に的確な選択をするなど)くらいが、心地よい。


 格闘ゲームではないのだから、ギリギリの勝負など必要無いし、アクションゲームではないのだから、何度も同じところでの失敗を繰り返す必要も無い……と思うのだが、そのような感覚はきっと、現代ではもう「特殊」と分類されてしまうのだろう。


 そのように考えると、ポケモンとはある意味、時代を先取りしてきたゲームと言えるのかもしれない。


 ストーリー上では「あの敵はこのポケモンを使ってくるから、手持ちには相性の良いこのポケモンを入れておこう」と言った、敵によって持ち駒を代える戦略的思考のパターン。そして、同時に、対人戦という要素によって、ストーリー攻略用とは別のポケモンを用意し、その目論見が見事に当たって快勝した時などは、えも言われぬ達成感を得られるのだろう。


 まさにソーシャルゲーム然としていると言えるのではないだろうか。


 そのキラキラとした世界が進化したのが、昨今のゲームの主流なのかもしれない。


 俺に合わないのは残念なことではある。だが、それでいいとも思う。俺の愛した世界は確かにあって、その世界を愛した俺が変わらずにいる。それでいい。



 おまけのストーリーももう佳境である。おかしな髪型をした敵との最終決戦の後、いよいよ伝説のポケモンを仲間にする。それで仕舞いだ。


『アルセウス』発売までのつなぎとして購入した『ソード』であったが、終わらせたとして、発売まではまだ二か月近くある。


 その間にプレイするゲームはまだ決まっていない。早く終わらせて、俺はどうするつもりなのだろう。


 本当は、可能な限りのポケモンを仲間にして、それぞれ一体ずつ最高レベルまで上げて、姪や甥に自慢するつもりだった。


 分厚い攻略本はストーリークリアのためではなく、完璧なポケモンライフを送るためのものだった。


 だが……。


 もともと飽きっぽいい性格ではあったが、年齢を重ねるにつれて、悪化しているように感じる。今回のやる気は一か月も持たなかった。


 ストーリーだけは終わらせると決めたのも、惰性だ。意気込んで追加コンテンツを購入しなくて良かったとさえ思ってしまう。


 こんな自分が嫌だ。


 だが、これが自分だ。


 憎みはしまい。


 信じている。次がある。まだ見ぬ世界がまだまだある。


 必ず、また必ず、心からゲームを楽しめる。


 あの頃のような、目の前の世界を愛することができる自分はまだ死んでいない。


 信じている。

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