第20話 ようせいさん……6

 あの男と再会することになったのはあまりにも意外な形であった。

 母親がいないときにあの男が家を訪ねてきたのだ。


 男が行った行為に私は強く警戒するとともに困惑を隠せなかった。あの男は母親が連れ込んでいる男だ。なのにどうして母がいないのにこの家を訪ねてくるのか?


「なんの用ですか? 母ならいませんよ」

「知ってるよ。今日は良子さんじゃなくてきみに用があってきたんだ」

「私にはありません」

「そう言うなって」

「帰ってください。目障りです」


 私の失礼極まりに言葉を聞いても男は笑みを浮かべたままだ。


 だが、やはりその笑みにはどこか違和感を感じるものだった。この男に対して抱くこの感覚はこのなんなのだろう?


「僕はきみのことを心配しているんだ。僕が言うのもなんだか、きみの母親である良子さんは親としての義務をまったく果たしていない。そんなことは本来あってはならないことだ。それが子供を産んだ人間の責務のはずだ。でも、彼女はきみのことを放置している。恐らくずっとそうだったんじゃないかな?」


 男の言う通りだった。それは間違いない。あの母親は育児放棄をしている。自治体やらなんやらからの勧告を受けても知らんぷりだ。母親がそのような人間だったせいで私はいつもひどい扱いを受けてきた。あの母親がまともであったのなら、今までの私の人生は多少ましになっていたはずだ。


「僕はそういうことが許せない性質でね。良子さんはきみのことを迷惑だと言ってはばからなかったけど、ろくに育てられもしないのに勝手に子供を産んで、自分勝手極まりに理由で放置する――良子さんよりもよっぽどきみのほうがいい迷惑じゃないか。きみが今まで舐めてきた辛苦はほとんど彼女の自分勝手な行いのせいなんだから」

「…………」


 私は男の軽やかな弁舌に言い返すことができなかった。男が言っていることは紛れもない事実であったからだ。いまの私を支配する色々な困窮の原因はすべて、あの阿呆丸出しの母親が作ったものなのだから。


「そのような境遇にあったにもかかわらず、きみは道を踏み外していない――そう僕には感じる。そんな子を見過ごすことなんてできない。きみのような強い子をこのままにしておくのは、きみにとっても、またこの国にとっても大きな損失だ。だから僕はきみのことをなんとかしたいと心の底から思っているのさ」

「……どうしてそんなことを知ってるんですか?」

「おいおい。冗談はよしてくれよ。きみくらい頭が回る子ならわかるだろう。それくらい、その気になれば誰だって調べられるんだよ。もしかしてそういうことを知らなかったのかな?」


 男はくすりと笑ってそう言った。やはりその笑みにはどこか異質なものを感じる。


 いまの世の中、男が言うように他人のことなんて、その気になれば簡単に調べられるということくらい知っている。そう実感させられるような出来事は何度もあった。私は自らあの、ろくてもない親の話や、自分を取り巻く環境の話など他人に一度もしたことはなかったのに、いつの間にかまわりの人間――主に同級生の親などがそのようなこと知っている――というようなことに出くわしたからだ。プライバシーなどろくにありはしない。それがこの陰湿極まりない日本という国のお国柄なのだ。


 男が母との関係を持ったのはいつか不明だが、今のようなことを調べるのにはそう金も時間もかからない。それになにより、この男の身なりからすれば、高い調査能力を持つ興信所を使う金くらいは持っているだろう。


 見知らぬ他人に自分のことを調べられたことに不快感は感じなかった。そんなこと今まで当たり前のように行われてきたことだったからだ。


 陰湿なこの国の陰湿な国民は自分たちと違うものを弾圧するためなら、金も時間も惜しまないという人間がごろごろしている。私は今までそのような人間にずっと標的にされ続けた。だからこの程度のことではなにも思わなくなったのだ。


 この男にどこか言いようのない異質さを感じていながら、どこか惹かれるものがあった。


「これでも僕はきみ一人くらい大学院まで通わせられる経済力を持っている。とはいっても、きみはまだ未成年だから、いくら十六歳から結婚ができるといってもあまりよろしくない。養子にするのも、僕はまだ未婚で、結婚の経験も子供を持った経験もないから、恐らく認可されない。となると、残されるのはきみが高校を卒業するまでの間、僕が良子さんと関係を持つことだ。そうなれば堂々と関係を持っても問題はなくなるわけだ」

「それなら、母のことはどうするつもり?」


 私のその言葉を聞いて、男はせせら笑った。


「おいおい。まさかきみはあの育児放棄して、親とすら言えないようなあの女のことを心配しているのか? 僕の予想ではチャンスさえあれば真っ先に切り捨てると思っていたんだけどな。もしかして勘違いだったかい?」


 その通りだった。チャンスさえあればあのクソババアなど殺してしまおうとすら思っている。そういった自分の中にある邪悪な思惑を、目の前にいる男に的確に言い当てられてしまって思わず黙り込んだ。


「ああ。もしかしていきなりこんなこと言われて信用できないのかな? それはまったくその通りだ。今まできみには無条件で信用できるような相手なんて一人もいなかったんだから」


 男は軽やかに語る。その軽やかな弁舌に私はどんどんと惹かれていた。このような人間は今まで一度も私の前に現れたことがなかったから。


「では、どうすれば信用してもらえるだろう? 僕がきみのことをなんとかしたいという気持ちが本当だということを。できることならなんだってしようじゃないか。ま、僕にできる範囲に限られるけどね」


 揺れに揺れている私の心境を知ってか知らずか、男は冗談めかすようにそんなことを告げる。私はもうどうすればいいのかわからなくなってしまった。


「……少し」

「ん?」

「少しだけ考えさせてくれませんか? その、どういう風に気持ちを整理したらいいのかよくわからなくて……」

「ああ。構わないよ。いきなりこんなことを言われて、すぐ頷ける方がどうかしている。急かすつもりはない。じっくりと悩んで、考えてから、後悔がないようにすればいい」


 男はそこで一度言葉を切って、


「もし、答えが決まったらここに連絡してくれ。メールでも電話でも構わない」


 と言って、仕事で使っているものと思われる名刺を差し出した。私はそれを恐る恐る手に取った。

 その名刺にはメールアドレスと電話番号と氏名が書かれている。


「では、今日のところはこれまでにしておこう。いい答えが返ってくることを期待しているよ」


 そう言って男が颯爽と立ち去っていく。その軽やかさと鮮やかさにはとても惹かれるものだった。


 私はドアを開けたまま、呆然としていた。

 私は手の上に在る名刺に視線を落とした。

 そこには、斎藤健太郎というらしい男の名前が書かれていた。


 私はどうするべきなのだろう――色々な感情が複雑に入り混じってしまって判断することはできなかった。

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