Strange shop

あかさや

1章 運は奪え!

第1話 お前の運を奪うぞ1

 控えめに言って俺は運が悪い――今まで起こった数々の不幸を聞けば大抵の人間は納得してもらえるだろう。


 まず、物心ついてから数十回は財布を亡くしている。

 無論、中には俺の不注意もあるだろう。


 だがしかし、今年に入ってから六回も財布を亡くしている。電車の中ですられたのが三回。まだ新しいはずの鞄にいつのまにか穴が空いていて落としたのが二回。夜のバイト帰りに原付に乗ったひったくりに鞄ごとひったくられてなくなったのが一回。これで俺の注意力が病的に散漫していると言えるだろうか? ただの注意力散漫なだけでこのようになるとは思えない。


 当然、自分の注意力になんらかの問題があるのではないかと思って、いくつかの病院で脳検査や心理学的検査を受けたが、異常らしきものは見つかなかった。


 開運セミナーの類や雑誌の裏で見かけるいかにも怪しげな開運グッズなども一応は試してみたものの(当然だが)効果はまったくなかった。


 セミナーで受けたことを実施してみても、怪しい開運グッズを身にいても自分の注意力のせいとは思えない原因で財布は消えているし、それ以外の不運も頻繁に起こっている。


 何故このような目に遭わなければならないのか?


 俺は今まで犯罪など一度もしたことがない。小学生のとき、まわりの友達はよく駄菓子屋で遊び半分で万引きを行っていたが、それにだって抵抗を覚えてできなかったくらいだ。駄菓子屋で万引きすらできないやつが他の犯罪ならできるとは思えない。


 そしてついさっき、今月七度目になる財布消失が発生した。


 当然、俺が使っている鞄は安物のトートバッグのように破れたりしやすかったり、空いた口から簡単に手を突っ込めるようなものではない。チャックでしっかりと空き口を閉められる、かなり丈夫な生地のショルダーバッグだ。


 そこらへんで引っかけただけで生地が破れてしまったり、ほつれてしまったりするようなものではない。そのうえ、財布が入れてある場所には自分で鍵までつけていたのだ。


 それにもかかわらず、財布はどこかに消えていた。鞄の生地は破けていなかったが、財布を入れていた場所につけていた南京錠が壊れていた。


 南京錠が壊れされたのか、はたまたなんらかの拍子で壊れてしまったのか、どちらなのか判断できないが、どちらであっても自分の注意力が欠けているのが原因とは思えない。まあ、自分でつけた南京錠が百均で売っている安物だが――そんなものでも、単純な構造の南京錠が簡単に壊れないはずだ。


 そのうえ、南京錠を開錠する鍵もどこかに消えていた。

 はあ、と思わずため息が出てしまう。


 かれこれ十四、五年ほどあれこれと対策を考えては実践してきたもののまるで効果がない。


 というか、こちらが対策を練って実施すれば、それをあざ笑うかのように、通常なら絶対起こらないような信じがたいことが起こって財布がどこかに消えてしまう。


 何故このようなことが起こるのだろうか?

 もしかして自分は前世にとんでもない悪行でもしたのだろうか。


 民衆から税を搾り上げ、パンがないならケーキを食べればいいじゃないてきなことを言って贅沢にやりたい方だいやったり、自分の意に沿わない人間を厳しい環境の不毛の地にある強制収容所にぶち込んで次々と粛清していったり、優生学的な価値観を用いてアパルトヘイト政策の実施やホロコーストを実行していたのだろうか。


 それとも逆にとんでもなく運がよかったので、それと吊り合うような形でいま現在不運となってしまっているのか。


 自分の前世の行った行為のせいで、いまを生きている俺が不運になっているのだとしたら対処のしようがない。


 わけのわからないカルト宗教に救いを求める人間が多いのも頷ける。


 カルト宗教にはまる人間というのは、いまの俺のように自分ではどうにもしがたい理不尽に襲われ、救いを求め、探し続けた結果、神様などの超自然的な存在に救いを求める以外なにもなくなってしまっている人たちなのだ。


 そして、その理不尽を『自分の信仰心が足りないから』などとすり替えることもできる。さらに言うなら、簡単に理不尽の原因を作るのも可能だ。こうやって原因を作れば、原因がなんだかわからない、あるいは原因などない、というよりも救われた気持ちになる。カルト宗教というのはそれをうまく利用しているのだ。


 まあ、そんなものを信じようなどとは微塵も思わないけれど。


 神様を信じて救われるのなら、人間誰も苦労などしないし、誰も困らない。もっと誰もが生きやすい幸せな世界になっているはずだ。当然、俺の身のまわりの世界も、そうでない世界もそのあたりにかんしてはそれほど変わらない。


 神様は人間の妄想なのだ。


 いたとしても、神にしてみれば人間なんて犬や猫と同じ生物の一種に過ぎない。俺たち人間の多くが虫に興味を持っていないように、神は人間に対してまったく興味も持っていないのは確実である。


 全知全能である(らしい)神様という存在が取るに足らない、惑星の表面で滅茶苦茶をやっているわけのわからない生物に関心など抱くわけがない。


 少なくとも自分が神だったのなら、人間などという生物はなんとも思わないだろう。


 こういった考えも極めて人間的ではあるけれど。


 だとしても、神様は人間に興味などまったくないはずだ。神様は色々なものに出てくる存在だが、実際に神様が現れて『人間よ、悪行はやめなさい』などと言った記録、信頼に値する文献にはどこにもない。神のお告げを聞いた――という逸話は、大抵はてんかんかなにかを患っている者の妄想か、あとの時代に生きる人間によって創作されたものばかりなのだから。


 だから神様などいやしない。

 神様なんて人間の妄想だ。

 いたとしても人間にとって意味などない。

 それが俺の結論であり、信条だ。


 いてもなんの意味もない存在などいないのと同然だ。それならば、幽霊粒子とか言われてるニュートリノの方が百億倍くらい意味がある。


 それに、俺だって人間だ。何度も何度も理不尽に襲われれば慣れてくるし、ある程度の対処もできる。


 俺の不幸はどういう理由なのか不明だが、やたらと『財布を落とす』という出来事に偏っている。


 まあ、もっというのなら他にも色々と小さなものも起きているのだが――いま現在で一番実害を被っているのがこの『理不尽に財布がなくなる』ことなのだ。


 もう何年も前から、ちょっとした外出であっても財布は複数持つようにし、なおかつ中身は均等に分散して入れるようにしている。


 何故分散して入れているのかというと、ただダミーを用意するだけでは意味がないからだ。


 いくらダミーを用意し、本命の財布を厳重に『なくさないように』していても、俺に襲いかかる理不尽な不幸というのは、狙いすましたかのようにダミーは一切狙わず、なくならないようにあれこれ駆使して厳重に保管してあるはずの本命の財布にのみ狙いを定めてくる。まるでこちらの甘い考えを看破しているかのように。


 強い悪意すら感じるほど『不幸』は正確に狙いをつけてくる。

 それで、次第にこうなっていった。


 分散してしまえばいいと。


 ダミーを用意しても効果がまったくないのなら、失くしたときのリスクをできるかぎり均等に分散する以外ほかにない。


 あれこれと『不幸』に対する方策はやったが、明確に効果を発揮してくれた『対策』はこれだけだった。


 財布を複数用意し、なおかつ中身をできる限り均等に分散するというのは面倒なことこのうえないが――これをやれば突然襲いかかってくる不幸で受けるダメージを軽減できると考えれば安いものだ。


 それだけ俺の身に襲いかかる『不幸』は切実な問題なのだ。


 それに人間というのは、自分が思っている以上に行為や出来事に対して簡単に慣れてしまう。面倒なことであっても毎日やっていれば気にならなくなるし、そのうち面倒であるとすら思わなくなってくる。


 そして、そのおかげで何度も財布がなくなっているにもかかわらず無一文なっていない。


 そのうち中身を分散させた財布をすべて一気に落としてしまうということが起こる可能性は充分あり得るが、運がいいことに(本当にいいのかどうかわからないが)それは未だ起こっていない。


 しかし、できることならこの面倒を避けたい。この不幸と決別できるのなら決別をしたいのもまた事実だ。


 決別は無理でも、軽減はできないものかと考える。


 どうにか、この身に襲いかかってくる理不尽な不幸をなんとかできないものか。

 ふらふら、ふらふらと。

 ただあてもなく思索にふけりながら自分が暮らす見知った街を歩いていく。


 少し考えてため息をつく。

 無理なのだろうな――と、いつもと同じ答えに帰結する。


 俺の身にたびたび襲う不幸は『理不尽』な出来事の一つなのだ。


 理不尽。

 そう――理不尽だ。


 理不尽というのは自分でどうにもできないものだ。どうにかできる理不尽など、それほど理不尽などではない。


 俺の身にたびたび襲いかかる不幸は、どうにもできない『理不尽』である。


 荒波の中に流される海草のように。

 砂嵐に捲き上げられる砂粒のように。

 輝き続けて自重で潰れる恒星のように。


 宇宙を支配する自然の力のごとく――自分では本質的にどうすることもできない――これが俺の『不幸』なのだ。


 だから、あれこれと工夫してもダメなときはどうにもならない。


 自分の人生の残り時間がどれほどかはよくわからないが、(恐らく五十年から六十年というところだろう)何十年もあるだろう残りの人生でもこの不幸には延々と悩まされて、そして実害も被るのだ――そう考えると死にたくなるくらいの絶望を抱いてしまう。


 死ぬまでこの理不尽――不幸はつきまとって離れてくれないのだ。

 いや――


 死ぬときですら、俺はこの『不幸』という『理不尽』に翻弄されるのだろう。

 下手をすれば死ぬ原因ですら、この『不幸』が原因で起こった出来事となるかもしれない。


 切実に。


 心の底から切実にこの理不尽極まりない『不幸』をなんとかしたいと思う。

 そんな風に考えていたとき、あのみょうちきりんな店を見つけたのだった。

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