第三章 もう一人の国家賢人

立ち込める暗雲

 分厚い雲の間隙から、細い日差しが梯子のように伸びていた。


 雨季の合間の中休み。連日降り続けていた雨はようやく止んだものの、空は暗雲に覆われており、依然として地上は薄暗いままだ。


 だが、もう少しすれば雲は流れ、太陽が顔を出すだろう。


「……ということは、やっぱり蒸してくるよな。うん」


 うんざりとしたような呟き。


 ミランは農道に転がっている石の上に腰掛け、竹筒の水筒を気だるげに口に運んでいるところだった。


 実際、彼の言う通りである。


 まだ昼前ではあるが、じんわりと汗ばむ陽気。加えて、今朝方まで降り続けた雨のせいで湿気がまとわりついて何とも鬱陶しい。日が照るとなると、午後からは更に蒸し暑くなるだろう。それを思うと、ミランのただでさえ愛想のない顔つきがますます陰鬱になっていく。


 そんな彼とは裏腹に、ファウナはいかにも明朗という感じであった。


 動きやすいように結い上げられた長い金髪。珠の汗が流れる白いうなじ。上下ともに裾を大胆に捲り上げた衣服。露わになった肩や太腿が眩しい。


 まるで水辺で戯れる妖精のような可憐さ。


 ただし、ファウナが立っている場所は清澄な渓流でも長閑な湖畔でもなく――ただの水田である。


 トゥアール村の田畑は米と麦の二毛作だ。


 麦は雨季前に実りを迎える。それを天候を見ながらぎりぎりまで乾燥させ、村人総出で刈り入れを行うのは麦秋の農村ではお馴染みの光景だ。


 刈り入れが終わると慌ただしく耕起、代掻きをして、水稲の準備に入る。ついこの間まで田畑を埋め尽くしていた黄金の麦穂は見る影もなくなり、何もなくなった田園には代わりにたくさんの水が張られていた。


 麦刈り唄、田打ち唄、そして田植え唄。田畑の景観と連動するように労作唄が目まぐるしく入れ替わっていくのも、この時期の農村特有のものである。


「おーい、どんな感じだー?」


「うじゃうじゃいますよ!」


 覇気のないミランの呼びかけに、ファウナは元気よく答える。


「ほら!」


 足を取られないようによたよたと体の向きを変え、小さな手のひらいっぱいに掬い上げた水田の泥をミランに向けて掲げた。


 液体とも固体ともつかない糊状の土壌。農業用語でトロトロ層と呼ばれる部分である。


 その中に赤いひも状の生物がうじゃうじゃと蠢いているのが見えた。ミランの優れた視力のなせる技であるが、今ほど目が良いことを後悔したことはない。


 ――そう。水棲の蚯蚓みみずである。


 思わずミランは上体をわずかに引いた。蚯蚓に、というよりはそれを満面の笑みを浮かべて見せつけてくるファウナに、だが。


 護衛役として雇われてそろそろ一ヶ月が過ぎようとしていたが、ファウナの生き物に対する物怖じのなさにミランは驚かされっぱなしであった。正直、軽く狂気すら感じる。年頃の女の子ならば、ああいったものに嫌悪感を抱いてもおかしくなさそうなものなのに。


(やっぱり賢人っていうのは、変人の集まりなのか。せっかくの器量良しなのに、嫁の貰い手があるのか心配だ)


 などと遠い目をしながらミランは思う。


 甚だ無礼な考えではあるが、ファウナが泥にまみれ、蚯蚓を掴んでいるのには一応の訳があった。


 事態は昨日まで遡る。


 ミランとファウナは降り続ける雨の中、とある交渉のためにトゥアール村の村長の家を訪ねていた。


 ミランの生活は基本的に自給自足である。とはいえ、森の中に必要な物が何でも揃っているわけではない。個人で生産するのが困難なものは物々交換で入手するのが常だった。


 例えば麦や米と言った穀物類。刃物や鍋などの金属類。あるいは、衣類などがそうだ。


 単刀直入に言えば、ファウナの着替えが尽きたのである。


 うすうす感づいてはいたのだが、ファウナは運動が得意ではないようだ。


 生態調査に出かけるたびに転ぶ、滑る、落っこちる。わずか一ヶ月で、予備の服も含め、あっという間にぼろぼろになってしまった。繕うにしても布が足りない。


 ファウナはもともと最低限の荷物しか持ってきていなかった。余分な荷物は移動時の負担になるからだ。必要な物は現地で調達する腹積もりだったが、ここは都市から遠く離れた奥辺境。絵に書いたような田舎村。商店はおろか、行商もめったに立ち寄らない僻地である。ゆくゆくは街に買い物に行くにしても、当面の衣装は確保しなければならない。


 村長宅に、嫁に行った娘たちの衣類がまだ残っているらしいと聞きつけたミランは、それを譲ってほしいと村長に願い出た。


「構わんよ。どうせ着る人間もおらんのでな。ばあさんが着るには、年齢的にも体型的にもかなり無理があるしのぅ――あ、すまん。ちょっと茶碗を投げるのはやめてくれんか。打ちどころ悪かったらお迎え来ちゃうから。本当に」


 頭から血を流しつつも、村長はミランの申し出を二つ返事で了承したが、一つだけ条件を課した。


「その代わりと言ってはなんじゃが、どうか水田を。ぼちぼち田植えを始めようと思っておるからの。皆を安心させたいんじゃ」


 占いという言葉にファウナは微妙そうな顔をしたが、ミランを含め、民草というものは学問に縁がない。彼らにとって賢人のすることなど、と大差がないのである。


 とはいえ、その申し出はファウナにとって渡りに船だった。辺境の生物相を知るうえで、水田の生態系はとても重要だからだ。調査もできて、かつ当面の衣装も手に入るのだから、いいこと尽くしである。


 かくして、二人は朝から水田のあちこちを調べ回っているのであった。


「蚯蚓は土壌に潜り込んで、その中の微小な生物を食べて生きています。そして、その排泄物が表層に堆積することで、このような糊状の土に変化させるのです。土壌が微細化すると養分が水の中に溶け出し易くなり、結果として稲の発育がよくなるわけですね。また、この層が形成される過程で他の植物の種子を埋没させるので、雑草が生え難くなります。すると、雑草に地力を奪われずに済むので、ますます稲はよく育つというわけです。羨ましい限りですね。わたしもトロトロ層に漬け込んだら、もっと大きくなったりしませんかねぇ」


 蚯蚓が詰まった泥をそっと元の場所に戻しつつ、ファウナが解説した。

 が、最後の言葉には特に反応しないでおく。彼女は自分の体型について自虐的な言い回しをする癖があるのだ。そのくせ、それを指摘すると落ち込む。まったくもって面倒くさい。


「蚯蚓以外にも、何か見つかったか?」


「ええ、たくさん!」


「どれどれ……」


 ミランはよっこらせと爺むさく立ち上がって畦際まで歩み寄ると、そこに置かれている桶を覗き込んだ。


 桶の中には、ファウナの手によって捕獲された様々な生き物が泳いでいた。両生類、淡水甲殻類、水棲昆虫――多種多様な幼生が元気よく泳ぎまわっている。ファウナの話では、田植えが終わればもっと増えるらしい。


「水田は急な川の流れの中では生きることができない水棲生物の拠点となり、小型の両生類や魚類、昆虫類などの様々な生き物が集まってきます。さらにそれを食べに森から中型の鳥や獣が下りてきて、それらはやがて森の中に棲んでいる大型の生物の糧になります。そして、最終的に大型生物の死骸や排泄物が土壌に還元されることで森の草木が元気になるんですね。水田や水路は里地里山の生態系において、とても重要な役割を果たしているんですよ。特に……」


 言い置いて、ファウナは桶から一匹の巻貝を取り出した。


「この沼貝は水田の水草を食べてくれるので、稲の成長を助けてくれます。おまけに我々も食べることができるので、森とっても人間とっても有り難い存在です」


「そうだな。沼貝なんかは、この時期のご馳走だ」


 獲っても獲っても湧いてくるので、この時期の農村の汁物には大体沼貝が入っている。こういっ淡水生の貝類は農村の手頃な蛋白源たんぱくげんだった。


「沼貝は水路のほうでも確認できました。結構な数ですね。これだけ生息数が多いのなら……ひょっとして、このあたりって蛍が飛びます?」


 ファウナの問いに、ミランは眉をひそめた。


「蛍って、尻が光る飛び虫だろ? 沼貝とどう関係があるんだ?」


「蛍の幼虫は水棲なんですよ。陸棲の蛍もいるんですけどね。どちらにしても幼虫は貝類を捕食するんです。成虫は水しか飲みませんが、幼虫時代は獰猛な肉食昆虫なんですよ」


「へえ、意外だな。つまり、沼貝が多いってことは、それを餌にする蛍にとって棲みやすい場所ってことか」


「まあ、わたしも本で読んだ知識だけで、現物は見たことがないんですけどね。王都じゃ土地の開拓が進みすぎて、数が減っているらしくて……」


 蛍は生息環境の変化に敏感だ。水路整備や護岸工事の影響で、あっさりとその数を減らす。


「ふうん、そうなんだな。……ちなみに、さっきの質問だけど、お前の予想通り蛍はいる。この辺じゃ、初夏の風物詩なんだ。そりゃもう、わんさか飛ぶぞ。まるで足元が星空になったみたいになる」


 ミランがそう答えると、ファウナの顔がぱっと明るくなった。


「それはきっと絶景でしょうね! 見てみたい、いえ、見に行きましょう!」


「ああ、いいぞ」


 ミランは静かに微笑んだ。こうやって知らない生き物、見たことがない生き物に出会った時のファウナの表情は見ていて飽きなかった。大人になるために捨て去ってしまった、何か懐かしいものを思い出させてくれるような気がして。


「水田で見かけるということは、グレンボタルなんでしょうか。楽しみです」


「え、蛍って何種類もいるのか?」


 ミランはイール地方の野生生物について幅広い知識を持っているが、だからといってその全てを網羅しているわけではない。危険でない生物、食べられない生物への関心はどうしても薄い。まして、牙もない、毒もない、ただ光って飛ぶだけの虫の種類など気に留めたこともなった。


「水棲の蛍で有名なのはビャクレンボタルとグレンボタルですね。ビャクレンボタルは渓流に、グレンボタルは止水域に生息しています」


「なるほど。この辺りは水田ばっかりだから、生息しているならグレンボタルってわけか」


「ええ。でも、蛍が飛ぶのは夜ですから、気を付けないといけませんね。水田には蛇やひるといった人間を害する生き物もやってきますから」


「ほう。蛇」


 ぎらり、とミランの瞳が輝く。


「いや、目を輝かせないでくださいよ。どれだけ蛇肉が好きなんですか。ともかく、たくさんの生き物が暮らしているほど、生態系の基盤としては強固なのです。水稲耕作は人類が開発した農法の中でも画期的なものですが、生態学的にも人間と自然の共存共栄する一つの事例として――」


 聞いてもいない解説と蘊蓄うんちくの続きを嬉々として語り始めるファウナ。賢人とは専門分野を語らずにはいられない生き物らしい。


 こうなるとファウナは止まらない。しばらくは聞き手に徹することにした。内容はほとんど理解できなかったが、ただ相槌を打つだけでも喜んでくれる。


「うん。確認できただけでも田植え前の水田としては、十分な種類の水棲生物が生息しています。これだけの数と種類がいるなら問題ないでしょう。まあ、あくまで動物学からの見地なので、確実なことは言えないんですけど」


「そっか。村長も喜ぶな」


「はい。さっそく報告に行きましょう」


 ファウナが満足げに調査に区切りをつけようとした、その時である。


「――ようやく見つけたと思ったら。相変わらずね、ファウナ。まだ動物学なんてやっているの」


 呆れたような、見下しているような、そんな声が背後から聞こえてきた。


 ぴたり、とファウナの視線が硬直した。動揺か。それとも驚愕か。これまであまり見ることのなかった表情に釣られ、ミランも後ろを振り返る。


 そこに、一人の少女が立っていた。


 目の覚めるような美少女である。年の頃は十五、六だろうか。女性としては標準的な背丈。左右で束ねた雪原のような銀髪に、燃えるような紅玉の瞳が印象的だ。


 何より目を引くのは、身に着けている衣装だ。白を基調とした外套とも法衣とも取れる独特の意匠。それが国家賢人の制服であることをミランは知っていた。


 つまり、この少女も――


「……フローラ」


 ファウナが茫然と呟いたのは、その少女の名だろうか。


 少女は答えなかった。ただ、ファウナを厳しい瞳で見つめるだけだ。


 涼やかな風が吹いて、重苦しい雲が流れていく。


 遮るものが失せ、本領発揮と言わんばかりに太陽の威光が地上の薄暗さを払ってもなお、ファウナの顔は曇ったままだった。

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