第2話 病院の日

 寝て起きれば次の日が来る。そんな当たり前はいつかは崩れる。

 それが早いか遅いか。

「おはよう」

 前髪だけが器用に跳ね上がる寝癖がついた髪形でリビングに下りる。

「おはよう。今日、先に病院だからね」

「うん、わかってる」

 短くそう返事をし、私はリビングの隣にある脱衣場へと入る。


 そこで着替えを済ませ、寝癖を直す。

「病院か……」

 ため息とともに零れる言葉。今日で生まれてすぐに言われたらしい余命十八年目を迎えた。だから健診がある。あとどれくらい生きれて、あとどれくらい運動ができて、あとどれくらい日常を送れるのか。それをちゃんと聞きに行く。



 セミでも鳴き始めるのではと思うほど暑い。まだ六月にもなっていないのにこの暑さだと夏が思いやられる。

 車を降りた私はそんなこと思いながら青雷せいらい総合病院の駐車場を歩く。

「早く終わったら学校行くんでしょ?」

 お母さんは暑い暑いと呟き、顔の前で手をはためかせながら私に言う。

「うん」

「ならちんたら歩いてないで行くわよ」

 カツカツとヒールの音を響かせながら先を歩くお母さんの背中を追うように、少し早歩きをした。


 病院に入ると、外の暑さが嘘であるかのように空調が効いていて快適だ。

「ふぅー、やっぱり病院の中は違うわね」

 私に座ってて、と付け足したお母さんは1人で受付の方へと歩いていく。私はお母さんに言われた通り、待合室に並ぶソファーの1つに腰をかけて、制服のスカートのポケットからスマホを取り出す。

「心配してくれてる」

 美羽ちゃんとみこっちゃんから大丈夫? どうして休んでるの? というLINEが届いていた。

 その言葉が嬉しかった。でも、同時にそれが切なく感じた。いまはまだ大丈夫で、みんなと笑い合える。しかし、あとすこしすれば……。

 考えれば考えるほど、死への恐怖が増し胸が締め付けられるのが分かる。

「あとちょっとしたら呼ばれると思うよ」

 受付から戻ってきたお母さんがそう告げ、私の横に腰を下ろす。

「そう言えばこの前中間テストだったわよね?」

「うん。そうだよ」

「高校のテストってめんどくさいでしょ?」

 どうだった? とは聞かない。

「そうかな」

「文化祭もすぐらしいわね」

「1ヶ月後くらいだよ」

「そうなんだー。お母さんも行っちゃおうかしら」

「何するかわかんないよ?」

 スマホを触るのをやめ、ポケットに戻しながら答える。

「いいのよ。ああ言うのって雰囲気を楽しむものじゃない」

「雰囲気楽しむって、夏祭りみたいだね」

「そうよ! と言うか、祭りごとなんて大体雰囲気を楽しむものよ?」

 お母さんがケラケラと笑いながらそう言った瞬間、

御影みかげさーん。御影澪みかげ-みおさーん」

 と私の名前が呼ばれた。

 お母さんと私は互いに何かを発することなく、立ち上がり名前を呼んだ看護師さんの元へと歩く。

 背は低く少し丸みの帯びた体型、厚く施された化粧が特徴で、首からは川原という名札をぶら下げている。看護師さんは「こちらです」と診察室と待合室を隔てる扉の奥へと案内する。


 扉の向こうには廊下の両側に幾数もの扉があり、そのどれもに札が掲げてある。

「何か変わったことはありませんでしか?」

 いつもの診察室に行くまでに川原さんが訊いた。

「はい」

 お母さんはそれに答えた。それとほぼ同時に目的の診察室である第三特殊診察室の前に着く。

「それは良かったです。では、中に入ってください」

 川原さんは人懐っこい笑顔を浮かべながらスライドドアを開けた。

「あっ、うん。久しぶり」

 第三特殊診察室の中に入ると同時に声がかけられる。

「はい」

 冷たく沈んだ声で返事をする。

「うん。それじゃあね、そこに掛けてくれるかな」

 担当医である石井さんが額を脂でテカテカにさせながら、患者が座るように自分の眼前に置いてある丸椅子に手を向ける。

「うん。今日はね、いつもよりちょっと詳しく診るからね。でも、うん。大丈夫だからね」

 石井さんは大きく身振り手振りを使ってそう告げる。そんなに言わなくても分かってるわよ。

 石井さんと向かい合って座ってるそこから右側には鏡張りで全身スキャンができるほど大きく丸い筒状の機械が見受けられる。

「あっ、あれ気になる?」

 黙ってこくんと頷くと、石井さんはうん、そうだよねと切り出す。

「今日はあれ使ってCT撮るよ」

「痛いとかないんですか?」

「うん、無いと思うよ。今日は体操服とか持ってるかな?」

 石井さんは私の服を上から下までゆっくり見てからそう訊く。

「えっ、なんでですか?」

 体操服フェチ? なんて思考が過ぎり反射的に聞き返す。

「CT撮る時にさ金属があったらダメなんですよ。うん、だから下着の方も金属がついてるなら外していただかないとダメなんですよ」

「……へんたい」

「えっ、あっ、そのごめんね。で、でも、ボクは見ないから安心してくださいね」

 ただでさえ脂が乗っているというのに、石井さんはさらに油分を増やしてチラリとお母さんを見る。

「まぁ、体操服がなくても検査服あるんで安心してください。では、川原さんと一緒に行ってください」

 石井さんは私の後ろに立っていた川原さんを指さしてそう言う。

「澪ちゃん、行こっか」

 川原さんは待合室で名前を呼んだ時のような堅さはなく、砕けた感じでそう言い第三特殊診察室を出るように促す。

 私はそれに従い部屋を出た。


 冷たい床。青白い蛍光灯で照らされる部屋。青くペラペラの紙のような服。はっきり言って変な感じ。

「こっち来て貰えるかなー」

 川原さんは手に持ったiPadにペンを走らせながら私に声をかける。昔なから紙だったんだろうな。

 電子化されたカルテにそんなことを思いながら、院内のよく効いた冷房に薄ら寒さを覚えつつCTを撮る筒状の機械の横にへと移動する。

「それじゃあ、ここに仰向けで寝転がって貰えるかな」

 川原さんの言葉に無言で頷き、革張りされた白色のベッドのようなものの上に寝転ぶ。

 うぅ、硬いなー。家のベッドとは全然違うし、病院のそれとも違う。

「大丈夫?」

「大丈夫ですけど……気持ち悪いです」

「あはは。畳に転んでる感じで硬いもんね」

 私の返答に川原さんは楽しげにそう言うと、「じゃあ始めるね」と告げ、筒の中へとベッドが移動していった。


 * * * *


「遅れてすいません」

 軽く頭を下げながら私は教室のドアを開けて言う。クラスのみんなの視線が私に集められ、妙に恥ずかしい気になる。

「よくきた」

 先生は短くそう言い放ち、私に自席に座るように促す。私はそれに従い座り、授業を受けた。


「遅刻って久しぶりだね」

 授業終わりと同時にみこっちゃんが言う。

「そうだね。この前したのいつだっけ?」

「そんなの覚えてないよ」

 みこっちゃんは彼女らしいじと目で私を見て頬杖をつく。

「半年くらい前」

 そこへ口を挟んだのは岡本くんだ。

「あんた覚えてるわけ?」

 驚きながらも、蔑むような視線を岡本くんに浴びせるみこっちゃん。岡本くんはそれを気にした様子もなく、「常識」という。

「コンタクトじゃなかったら眼鏡上げてドヤ顔してんでしょ」

 みこっちゃんのその言葉にコンタクトレンズ着用で眼鏡をかけてない岡本くんは、したり顔を浮かべ、「違う」と言う。

「じゃあ何よ」

 その言葉を聞き、岡本くんはみこっちゃんにウインクをする。

「こうする」

「きっしょ。マジできしょいからやめて。吐きそう」

 うぇー、と今にも吐きそうな真似をしてみこっちゃんは席を立った。そのことに納得がいかない表情を浮かべる岡本くん。

「あの……」

「なに?」

 そのとき不意に声がかけられる。

「朝、武中先生から言われたんだけど、文化祭の出し物決めてくれだって」

「えぇ、なんで私らが?」

「知らないよ。でも、とりあえず委員長で案出して、それから話し合いしてほしいって」

「意味わかんないんだけど! なんで委員長だからってそこまでしなきゃならないの?」

 少し口調を荒めた私に、中筋くんは私をなだめるように手で抑えてと表現する。

「うっさいわよ」

 小声を意識してそう放つと、中筋くんはうれしそうに微笑み続ける。

「明日の五時間目に役割分担の話し合いをするらしいから、それまでに決めてって」

「うそでしょ!? そんなのいつ決めればいいって言うの!?」

「僕に言われても困るよ」

 中筋くんは表情を歪ませてそういう。なんだか昨日、中筋くんの家の前であった中筋くんとは別人みたい。冷たくないし、愛想あるし。って、二つともほとんど一緒かな。

「ど、どうしよっか」

 そう言う私に中筋くんはうーんとうなり声を上げてから、

「今日の放課後、時間ある?」

 と訊いた。


 放課後までの時は思いのほか早く過ぎた。まぁ登校したのが三時間目だったってこともあると思うけど。

「今日はすぐ帰んないの?」

「うん。今日はこれから委員長としての仕事があるの?」

 苦笑を浮かべそう答えると、派手派手しい見た目の美羽ちゃんはそっかとこぼす。

「いいんちょーって大変なんだね」

「そうみたい」

「無理しちゃだめだからね」

 美羽ちゃんは微笑を浮かべそれだけ言うと、教室から出て行った。

「それじゃあ、私は部活いくね」

「うん、がんばってね」

「澪もガンバ」

「ありがと、みこっちゃん」

 手を振るみこっちゃんに手を振りかえしたところで中筋くんが声をかけてきた。

「ここでする?」

「いやだ。暑いもん」

「じゃあどうする?」

「マックスバリューいこうよ。ちょうど目の前にあるんだし。フードコートで話そ」

 中筋くんは私に言われるがままに頷き、マックスバリューへと向かった。

 店内の涼しさに表情を緩めながらメロンパンとカフェオレを購入し、フードコートに入る。


「はじめよっか」

 ちゃっちゃと終わらせて帰ろーっと。

「うん。どういうのがいいかな?」

 中筋くんは、ペットボトルにみっくすじゅーちゅと書かれたラベルが巻きつけてあるオレンジ色のジュースを口に含みながら言う。

「喫茶店かお化け屋敷でいいでしょ」

 漫画なんかじゃ定番でしょ? 王道いけば間違いないよ。

「それだめだよ」

「えぇ!? うそ!? なんで?」

「武中先生が定番はだめだからねって言ってた」

 うわぁー、ありえない。定番でいいじゃん。

「じゃあ、どうすればいいの?」

「それがわからないから訊いてるんだよ」

 ため息まじりにそう答え、ペットボトルのキャップを開ける。

「ショーでもする?」

「誰がするの?」

 誰ってそんなところまで考えてないよ。

 頬を膨らませ頭を振ると、中筋くんはキャップを閉めて、それじゃあだめだっと言った。

「じゃあコーヒーショップ」

「喫茶店と一緒だよ」

「どこがよ?」

「似てるじゃん。武中先生は認めないよ」

「じゃあアイスショップでもすれば?」

 なんで私がこんなに頭使わなきゃなんないのよ! どうせ私参加しないし。

 てか、なんで私だけが案出さなきゃなんないの?

「味気ないな」

「さっきから何? 考えても考えても、ダメダメって!! ちょっとは自分で考えたら?」

「考えても出ないから協力してもらってんの」

「何よその言い方! うざい! 私、帰る」

 あー、うざい。うざいうざいうざい……。文化祭なんてやりたい人がやればいいじゃん。この世にいるかどうかわかんない人の案でやりたい人なんていないでしょ。

 あぁ。なんで委員長なんてやってうれしそうに、文化祭の出し物なんて話してたんだろ。ほんと、自分がきもい。

 かばんを勢いよく持ち上げ、足早でその場を立ち去る。

 自分勝手だってのはわかってる。でも、もう無理だ。私はこんなの話すべき人じゃないんだ。

 視界がぐにゃりと歪むのがわかる。

 泣いてるんだ。私、なんで……。

「ちょっと待ってよ」

 かばんを持って慌てて私を追ってくる中筋くんの姿が視界の隅に映る。

「ついてこないで!!」

 店内に響き渡る甲高い声でそう言い放つと、蒸し暑さが蔓延した店の外にへと出た。


 あぁー。やっちゃったな。こんなことするつもりじゃなかったのに。私どうしちゃったんだろう。

 やっぱりあれかな? 改めて余命なんて言われておかしくなっちゃったのかな。

『詳しい検査結果はまた後日お伝えするんだけど、数週間後には病院での入院生活になると思ってて』

 今日、石井さんに告げられた台詞が頭に過ぎる。決してふざけている様子はなく、いつも以上に脂が乗っていて、炙ればキャンプファイヤーの火のようになるだろうって思えた。出来れば嘘がいい。もう少し生きたいって思う。でも──

「元気でいられるのもあと数週間、か」

 それはたぶん叶わない。

 そう思った時には言葉が零れていた。

「それ……どういうこと?」

 嘘っ!? 聞かれてた?

 走ってきたのか息は荒れていて、言葉には焦りが滲んでいるような気がする。

「べ、別になんでもないよ?」

 慌ててそう答える。でも、なんで?

 追いかけてこないでって言ったのに! なんでここに来るのよ……。

「嘘だ!」

 少し首を振り、張った声でそう言い放つ中筋くん。

「嘘じゃない。私が言ってるんだもん」

「僕知ってるんだよ。御影さんがちょくちょく病院に行ってること」

 中筋くんのその言葉に息を呑む。しかし、中筋くんは構わず続ける。

「体が弱いとかだと思ってたけど、違うならちゃんと言ってよ!」

「なんでも無いって言ってるでしょ!」

 叫ぶ中筋くんに私は拒絶を示し、駆け出した。もう追ってこないでっ。そう思って私は走った。

「待ってって!」

 それでも中筋くんは私を追いかけようと声を上げた。

「もう来ないで!」

 彼の言葉、表情、声、どれもが鬱陶しく感じ、ありったけの声量で叫んだ。


 今までは何ともなかった短距離を走る行為に、だるさがのしかかり、大きく息があがる。

 そこでようやく分かる。

「ほんとに……私ってダメになってきたんだ」

 スポーツ万能なんて言われてた時期が懐かしいよ。

 自分のポンコツぶりに弱音を零しながら、私は中筋くんがついてきてないかを確認するため振り返る。

「いないね」

 危うく秘密バレちゃうところだった。

 油断大敵だ、ということを再確認して歩き出す。あと少しなのに、上手くやりたかったな。

 いくら考えても悔やまれる。

 だって今までは上手くやれてる自信あったし、事実上手くやれていたと思う。

 それがたった文化祭の出し物を決めるだけで。

 それでその後、折角追ってきてくれた中筋くんにあんな言い方しちゃって。

「明日ちゃんと謝らないと」

 その言葉は自分でも驚く程に涙色に濡れていた。なんで……。そう思っても答えは出ず、ただひたすらに涙が溢れ出る。

 零れる涙を手の甲で拭い、拭い、歪んだ視界で一歩また一歩と家へと向かう。

 見覚えのある道が、店が、妙に廃れている印象を覚えたのは私の心の持ち方なのだろうか。


 そうこうしているうちに家に着いた。

「ただいま」

 玄関ドアを開け、家に入ると同時にそう言う。

「おかえりって、どうしたの?」

 出迎えてくれたお母さんは、私の顔を見るなり声を裏返して訊いた。

 愛娘が泣きながら帰ってきたんだ、驚かない方が嘘だろう。

「何も無い」

 心配してくれてるのはわかった。でも、私はそう答えた。そう答える以外なかった。何を言ってもお母さんを苦しめるような、そんな気がした。

「何も無いなら泣かないわよ」

「泣いてなんか、ない」

 お母さんの言葉に止まり始めていた涙が息を吹き返すように溢れ出す。それを強引に拭い、靴を脱ぎ自室へと急いだ。


 見ないふりをしていた。気付かないふりをしていた。この気持ちに触れないように蓋をしていた。

 私は改めて理解した。

「覚悟は決まってたはずなのに……」

 口からこぼれるのは力のない弱々しい言葉ばかり。

 怖いんだ。死ぬのが怖くて怖くて。みんなともっと一緒に居たくてもっと全部を楽しみたくて。

 蓋をしていた感情が、今日の石井さんの言葉で蘇る。感情が嗚咽となり姿を見せる。

 私はそれを部屋の外に漏らすまいと布団を被った。布団の中は蒸し暑く、汗が滝のように出てくる。

 それでもいい。それで私の声が、感情がお母さんに届かなければいい。自分の子が自分より先に死ぬなんて、お母さんは私なんかよりずっと悲しいはずなんだ。だから、私は元気なふりをしないと……。

 歯を食いしばり、零れる嗚咽を抑え込む。


 それと同時に脳裏をかすめる中筋くんの姿。私の言葉を正面から受け止め、なお追いかけてこようとした彼の姿。鬱陶しいとすら感じた声が、言葉が、表情が、私の中で渦巻きごちゃ混ぜににかき混ぜていく。

「もぅいいから。私のことは放っておいて……」

 蒸し暑い布団の中で、消え入りそうな声でそっと呟いた。

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