第21話 オレンジを着たあなたに会いたい

 あれから海音は休みになれば勝利のマンションに通った。また、いつもの日常が帰ってきたのだ。勝利の肩の傷もずいぶん良くなり、再発防止だと言ってトレーニング強化を始めた。


 そして、七管区に無事に合流。



「航海長の判断はよかったね。あそこで前に出なかったら、アイツらエンジン止めなかったよ」

「たまにはガツンとやらないと舐められるからね」

「そのガツンの加減が難しいんですよ」

「まあ、今日はこれくらいで。カノンちゃんが来る頃だろ」

「江本さん、なんで知ってるんですか。いや、来てますけどここ迄は来ませんよ」

「どうかな。お疲れさーん」


 江本航海長の何やら怪しげな含み笑いが気になる。でも、勝利の心は仕事明けの晴れやかなものだった。今ごろ部屋で待っているだろう海音を思うと顔が勝手に緩んでしまう。走って帰りたいけれど、それは大人の男がするものではないと、言い聞かせた。

 でも本部を出ると、自然と急ぎ足になってしまう。


(さぁて、晩飯は何だろうな)


 海音の仕事は基本的にカレンダー通りで週末や祝日が休みだ。勝利はシフトで動いているため会える日はまちまちだった。巡視船に乗り込むと何日も陸に上がれない事もある。そんな任務の後は必ず海音に溺れるのも恒例で、なぜなら勝利が陸に上がる日に、必ず海音は有給休暇を取っていたからだ。そんな事をされたら海の男のたがなんて簡単に外れてしまう。

 領海警備や排他的経済水域を航行するときは、とてつもない緊張を強いられる。いつ、工作船や国籍不明船、密漁船に遭遇するか分からない。その緊張が解かれ母港が見え始めると、下肢が激しく疼きだすのだ。しかし、勝利が不思議に思うのは、若い頃よりも疼き方が激しいということ。恐らくそれは、本能が子孫を残したがってるのかもしれない。


(もう、陸に上がってもいい頃だろ。俺はそろそろ……ん?)


「ショウさーん! お帰りなさい!」

「おおっ!?」


 本部を出て角を曲がると、海音が手を振りながら走って来るのが見えた。


 あれ以来、海音は勝利のことをショウさんと呼ぶようになった。誰かと同じ呼び方はイヤ! 海音の小さな小さな抵抗でもあった。


(本当に来たのか! くそー、可愛いすぎだぞっ!!)


「こんな所まで来るなんて、珍しいな」

「たまには来ても良いかなぁって」


 海音は細い腕をからませて煽るように勝利の顔を見上げた。いや、勝利が勝手に煽られているだけだ。今すぐにでもむしゃぶりついて、骨の髄まで吸い尽くしたい。そんなふうに思ってしまう。


(この辺はホテルがないんだよなー)


「あのね。お父さんが、ショウさんに会いたいって言うっちゃけど、どうかいな」 

 

 この女をどう料理してやろう! そんな本能むき出しのところに海音が現実を突きつけた。


「ああそうだな。いい加減、嫁にくださいって言わないとな」


 勝利がそう言うと、海音が真っ赤になった顔を隠すようにうつむいた。その赤い顔にますますソソられる勝利は、無骨な手で海音の頬に手を当てて上を向かせる。


「休みを合わせて、挨拶に行こう。と、その前に」

「その前に?」


 勝利はあらたまったように海音の手を取ってその上から自分の手を重ねた。何が始まるんだろうと、不安と期待感を混ぜ合わせた顔で海音は勝利を見上げた。

 海音の肩越しに太陽の光が反射してオレンジ色に染まった湾が見える。沈む夕日に照らされて、キラキラとダイヤモンドの輝きの様に波が跳ねていた。勝利はそれをしっかり目に焼き付けて、海音の瞳を覗き込んだ。


「改めて……海音。俺の嫁さんになれ」


 なってくれではなく、勝利はなれと言った。海音に拒否権は与えないと、重ねた手をぎゅっと握った。


「ショウさん、宜しくお願い致します。私、どこまでもついて行く。何があっても離さないでね」


 海音は少し目を潤ませて、勝利に笑顔で答えた。


「海音。ありがとう! イヤだと言われても離さない。それから、俺の子も産んでくれるか?」

「はい、もちろん!」


 それ聞いた勝利は真剣な面持ちで制服の袖をめくり、腕時計を確認した。


「ショウさん?」

十七時三十分ヒトナナサンマル、間宮海音拿捕っ!」


 勝利は海音を抱き抱えた。まるで子供を抱え上げるように高く。


「ちょっとぉぉ! 子供じゃないっちゃけん、下ろしてぇぇ」


(二度と同じ過ちは犯さない。海音、お前だけを死ぬまで愛し続ける。これは絶対だ!)


「よし! 帰ったら乾杯だな」

「飲み過ぎ注意やけんねっ」

「酒で潰れるわけないだろ。そのあと俺は海音を可愛がる任務が残っているんだ」

「はぁ!?」

「隅から隅まで捜査する」

「ばかーっ!」


 火が出るほど顔を赤く染め、海音は勝利の腕に顔を押し付ける。本当は怒っていないことは勝利も分かっている。恥ずかしさと嬉しさが混じって、どう反応したらいいか分からなかっただけだと。可愛い未来の我が嫁に勝利の胸は幸福感で溢れていた。



◇ 


 その晩、ひとしきり愛し合ったベッドの上で、勝利は海音を抱き寄せてこれまでの事と、これからの事を話した。残りの人生をずっと海音と過ごすために話しておきたかったから。


「七管区に来る前は、関東で特殊救難隊というチームに居た。約30名しかいないその狭き門を突破して、全身オレンジのあの制服を着て任務に励んだ。その任務に就いた頃はもう結婚していたよ。でも、念願のトッキューになった事で大切な家族の事、ひとり家で待っている妻のことを考える事なく過ごした。特別警備隊の訓練も受けながら、国民のために戦う男だと自負していた。その結果が離婚だな。結婚て簡単なのに離婚てめちゃくちゃ大変なんだ。ま、その辺は割愛な」


 淡々と話す勝利に海音は黙って耳を傾けた。きっと勝利は吐き出して、海音に念を押したかったのかもしれない。俺はこんな男だよ、それでもいいのかと。


「いつからか夫婦の間に入ってしまったヒビに気づかずに、夫婦だから大丈夫だという不確かな自信で妻を傷つけていた。おまえなら分かるだろう、おまえなら我慢できるだろうって。深くなったヒビはそのまま割れてしまった。夫婦の営みなんてとっくの昔になくっていて、ある日求めたら別の男の匂いがした。責めるように問い詰めたらそのまま荷物を持って出ていって離婚。否、追い出したんだろうな俺が。これでも落ち込んだんだ。そんな時、七管区への異動が浮上して巡視船の船長になるか、機動救難士になるかの二択。同じ轍は踏みたくなくてさ、巡視船を選んだ。過去に警備の訓練もしたし、これからは防人として生きようって。そしたら、海音に出会えたってわけだ」


※機動救難士:各管区に属し特殊救難隊に準じた救難活動が行える能力を持つ者。


 そこまで話して、勝利は海音の躰をキツく抱きしめた。海音の頭に何度も頬をすりつけて、会えて良かった、もう離さないと心の中で何度も唱える。


 暫く海音はされるがままでいた。もしかしたらいろいいろと考えていたのかもしれない。自分に話すことで勝利は楽なっただろうか。心は満足したのだろうか。同じ轍を踏みたくないと選んだ警備の任務は、救難への想いに心残りなく挑めているのだろうかと。


「ねえ、ショウさん。もう、オレンジの服は着らんと? 救難のお仕事は嫌いになった?」

「嫌いにはならないさ。俺のこれまでの人生をかけてきたんだ。人の命を救うその仕事に誇りを持っている。でも、もういいんだ。俺は海音との時間が欲しい。これからはゆっくりと歩きたい」

「まさか、船も降りるつもり!?」

「もういいだろ。今度は陸から若い奴らをサポートするんだ。おっさんはさっさと引っ込んで、のんびりと」

「ダメッ!」


 海音はガバッと躰を起こして、勝利の顔を上から睨みつけた。予想していなかった海音の反応に勝利は言葉が出ない。心の何処かで喜んでくれると思いこんでいたからだ。


「私、ショウさんのオレンジが見たい! 前の奥さんは見てるのに、私だけ見られないなんて不公平! オレンジのショウさんに会いたい!」

「えっ……か、かのん?」

「九州で見られんなら、引っ越してもいい!」

「おいっ、落ち着け」


 おっとりで、のんびり屋の海音の瞳の奥に火が灯る。そこには絶対に譲らないという頑固な信念が見えた。


(なんだよ急に、なんで喜んでくれない。オレンジが見たいって……)


「決めました! 私っ、オレンジの服を着たショウさんが見られるまで我慢する」

「おい海音。何を我慢するんだよ」


 海音はキッと勝利を睨みつる。


「ショウさんとのエッチです!」


 まさかの断食、いや断セックスだった。勝利が救難隊に復帰するまで海音は勝利とのセックスを断つと言うのだ。


「海音。酒断ちする! みたいに簡単に言ってくれるなよ」

「だって、我慢して一番辛いものじゃないと願掛けの意味がないでしょう? だから、辛いけどそれに決めたの。私だって辛いんだからっ」

「かのん、おーい。かーのーんー」

「だーめっ」


 そう言うと海音はベッドから下りて一人でバスルームに向かってしまう。暫くすると、パジャマをきっちりと着て、再びベッドに入って来る。勝利がどんなに背中から迫っても、どんなに甘く囁いても「だーめっ」と言って許してくれない。


(マジかよー。なんでこうなったぁ……オレンジ着ろって、俺に救難に戻れって……なんでだよ。もう気持ちに整理はつけたんだぞ)


「海音?」

「………」


 まいったなと、天井を仰ぐしかなかった。隣で眠る女、愛おしい女、残りの人生はこの女とたくさんの時間を共有したい。だから、少しでも安定した職務に就きたかった。ただ、それだけだった。


(海音さえ側にいてくれれたら、それでいいんだ。それ以外は望んじゃいないんだよ)


「はぁぁー」


 勝利は深い長いため息をついて、瞼をむりやり下ろした。

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