第3話 Intercept-捕える、捕えられる-

 そして、バーに来たはいいものの......。


「五十嵐さんの制服姿、とても素敵でした。まさか、海上保安庁にお勤めだなんて! しかも船長さん。でも、なんか」

「なんか?」


 間宮は酒に弱かった。


 たった一杯のカクテルで頬をピンクに染め、瞳はとろんと蕩け、片手で頬を支えながら口は饒舌になっていく。上目遣いで五十嵐を見つめる。これはマズい展開だと五十嵐は焦った。


「でも、なんか、五十嵐さんて現場の匂いがするっちゃんね。船長さんっぽくないとよ。なんでかいな」


(は、は、博多弁! ナマ博多弁、初めて聞いたぞ)


 普段は役職柄か、誰も五十嵐に対してこんなふうに砕けた話し方はしてこない。春から赴任してきた五十嵐は、猛烈に感動していた。


「現場の匂い、とは?」

「うーんっと。大人しく指揮を揮うっていうよりも、自ら先陣切って事件に飛び込む感じがする。それがね、ちかっ……ぱ、かっこいいと」

※ちかっぱ=とっても


 そう言って間宮はふわりと笑った。


(ぬわぁぁ! 今、ものすごく抱きしめたい。抱きしめて、キスして。ああ゛ー、どうしてくれるんだ! この博多女めっ)


 五十嵐はこみ上げてくる男の事情を必死で抑え込んだ。


「船長は今年からなんだ。昨年までは関東で特殊救難隊に属していた。海のレスキュー隊と言えば分かるかな」

「やっぱり! 先日、助けてもらった時に抱き上げてくださったじゃないですか。その、腕が、腕の筋肉が現場で鍛えたものだなって」

「筋肉で分っただなんて、驚いたな」

「漁師さんにしては全体のバランスが取れとうし、軽々と持ち上げるし。それに怪我の事もよく知っとう感じやったけん」


 五十嵐は軽く目眩を覚える。


(駄目だ、たまに混じる方言は凶器だ。今すぐ部屋に連れ込みたい! 博多の女はどうなんだ。落ち着け、俺は海上保安庁の人間だ。海の平和と安全を守るっ、それが俺の使命っな、んだ、ぞ?)


「はぁ、酔ったかも。すみません、普段お酒あんまり飲まないので」

「無理に飲まなくても良かったのに。大丈夫ですか」

「だって、もう少し五十嵐さんと話をしたかったけん」

「そんなふうに言われたら、男は勘違いしますよ。好意を持たれているのかと」


(くそっ、しっかりしろ俺。鋼の精神を取り戻せー!)


「勘違いしてくれても、いいっちゃけど......」

「え?」

「っ、すみません。何でもないです!」


 お酒だけではない、明らかに今のやり取りで高揚した間宮は頬だけでなく耳まで赤く染めていた。間宮が恥ずかしそうに俯くと、緩く結った髪の下からうなじがあらわれる。そこまでも赤く染めている。



(むりむりむりっ。むーりーだーっ!)


 五十嵐は間宮の手の甲に自分の掌を重ね軽く握った。すると彼女がピクんと揺れる。しかし、逃げる素振りは見せなかった。


「では、勘違いさせてもらいます」


 五十嵐は片手でスマホを操作して、下の階で店をやっている友人に電話をした。察しのいい友人はいとも簡単に部屋の予約を取り付けてくる。

 五十嵐はこの魚を逃がしてたまるかとカードで清算を済ませ、1階のフロントに降りて鍵を貰いエレベーターに乗りこんだ。このエレベーターはスイートルーム専用のもの、誰も他に乗って来ない。バーを出るときから繋いだ互いの手は汗ばんでいた。






 目的の階に着き、二人は部屋の前に立った。


「今ならまだ、引き返せますよ」


 五十嵐が確認をすると、間宮は首を横に振った。


「帰りません」


 間宮は確かな口調でそう五十嵐に返した。


「本当に? 入ったら、逃げられませんよ」

「逃げません!」


 その気の強さが更に五十嵐の欲情を煽った。ドアにカードキーを差し込み解錠した。間宮は黙って後について部屋に入る。そして、五十嵐は振り向きざまに間宮の唇を奪った。

 五十嵐は自分でも驚くほど飢えていたと思い知らされる。その少し低い温度と柔らかな潤いのある唇が、久しぶりのオトコの感覚を目覚めさせたからだ。五十嵐は間宮を壁に押さえつけ、角度を変えて貪った。


(忘れちゃいなかったようだ。このチャンスは逃さない!)


 五十嵐は間宮の背に腕を回し、逃げるなよと優しく撫でた。逃げないわと間宮は五十嵐のシャツを握りしめる。五十嵐はその唇からゆっくりと離れ、彼女の額に自分の額をコツンと突き合わせた。

 互いの熱い息が鼻先にかかる。


「名前は」

「え?」

「下の名前、間宮なに?」


 五十嵐は少し余裕のないかすれた声で問う。


「カノン。海の音って書いて、海音」

海音かのん。いい名だな。俺に聞かせろよ、お前のその、海の音」

「ひゃっ」


 五十嵐は腰を落とし肩に担ぐようにして海音をベッドルームに連れ込んだ。色気も何もない抱き方だ。トサっと乱暴にベッドに放り投げた。


「やっ!」


 五十嵐は海音の体の横に両手を突き、最終通告をする。


「海の男は、しつこいぞ。待ったはなしだ。それでも逃げないのか?」

「に、逃げんって言ったし!」

「分かった」


 五十嵐の理性が吹っ飛んだ瞬間だった。


「あっ、ちょっ。早っ!」

「言っただろ。海の男に待ったはない。もう止まらない」


 五十嵐は荒々しい素振りでジャケットを脱ぎながら、海音に経験はあるのかと優しく問いかける。初めではないと海音は答えながら、自らの腕を五十嵐に絡ませた。


「海音。俺の名前を知っているか」

「五十嵐さん?」

五十嵐勝利いがらししょうりと言う。何事にも屈しない負け知らずの勝利ショウリだ。覚えてくれよ」

「ショウリ、さん」

「そうだ」


 五十嵐は後ろポケットから取り出した男のたしなみを、ベッドのサイドテーブルに叩きつけるように置いた。そして、一旦ベッドから降りてスボンを脱ぎ、ボクサーパンツも潔く脱いで再び海音の躰に覆いかぶさった。


「ふわっ」

「わるい」


 肌と肌が重なると互いの体温をじかに感じられ、幸せな気分になった。五十嵐はこんな時に元嫁を思い出してしまう。


(最低だな……)


 でも、考えないわけにはいかなかった。五十嵐の元嫁は直接触れ合うことが嫌いだった。どんなに尽くしても伝わらない想い。元嫁は五十嵐の温もりが欲しいのではなく、夫のそれが早く果てることを願っていたように思えた。次第に触れ合う事もなくなり、五十嵐は代わりに仕事に没頭した。

 だから、子どもは出来なかった。



「熱いな」


 そんなことを思い出して余計に、今夜は昂っていた。オスの本能があるとするなら、このメスこそが己の種を育んでくれるのだと訴えている。この女が、間宮海音が自分の子を生んでくれる唯一だ! と。


「勝利さ、ん」


 海音の甘い声に導かれながら、五十嵐はその身をベッドに沈めた。不思議と深海に吸い込まれるような、心地よさとは別の感覚が五十嵐を襲った。


「海音、おまえ」


 五十嵐は言いかけて言葉を飲み込んだ。


(お前、最高だな!)


 五十嵐は爆ぜそうな己に【待機!】を命じ、ここは大人の男をたもたねばと奥歯を食いしばった。


「な、にっ……」

「海音、お前はいい女だよ」


 海音がこぼす甘い小さな吐息に五十嵐は勇気づけられた。五十嵐が目を細めて見つめると、海音は目尻に涙をためながらふんわり笑った。


「私、こわなの初めて。勝利さん、すごい」

「なんだと……!」


 警告アラームが五十嵐の脳内で鳴り響く。しかし、もう、後には引けない。


「いいのか? 俺で」

「はい」


 五十嵐はサイドテーブルに手を伸ばした。さあ、勇気を出して舵を取れ! 未開の海原へ……出航!


「海音、最後の確認だ」

「え?」

「これっきりでお前を手放すつもりはない。今から、この一線を越えたら戻れないぞ。死ぬまで俺の傍に置くことになる。あの日からお前の匂いが忘れられないんだ」

「それって彼女になれって事?」

「違う。嫁だ!」

「よ、め」


 海音は目を見開いたまま時が止まっている。それを見た五十嵐は、若い海音は一夜限りの事と決めていたのかと心が沈んだ。


「越えます」

「ああっ!?」


 まさかの、越境宣言だった。


「但し、私の心も愛して下さい。それが条件です」

「あ、当たり前だ。躰だけの関係なんて思っていない。今までの俺の行為は全部、心を注いだつもりだ」


 五十嵐は海音に身も心もロックオンされた状態となる。主導権はあくまでも自分が握っているつもりだった。しかし、全て海音にヤられっぱなしな保安官。


(こうなったら沈んでもいい。海音、お前となら)


「嬉しい。私も勝利さんの匂いずっと忘れられんかった。首筋を流れる汗と潮の匂いが混じった、外で戦う男の匂い」


 五十嵐は、あぁ沈む……と覚悟した。

 二人は磁石のように吸い寄せられてキスをする。


「勝利さんって、ずっと呼んでもよか?」


(ぬぉぉぉ! キター! 博多弁っ)


「海音の好きなように呼べばいい」


 五十嵐勝利42歳。

 かつて海猿と呼ばれ特殊救難隊の隊長を務めた百戦錬磨の男は、悲しきかな方言に弱かった。



◇ 


 あれから二人の付き合いは順調だ。


 海音の仕事は基本的にカレンダー通りで週末や祝日が休み。五十嵐はシフトで動いているためまちまちだった。巡視船に乗り込むと何日も陸に上がれない事もあった。だから海音は、五十嵐が陸に上がる日は必ず自分も仕事の休みを取る。

 そんな事をされたら、五十嵐が培った海猿精神はガタガタだ。年下の可愛らしい彼女に溺れないわけがない。


 領海警備や排他的経済水域を航行するときは、それなりに緊張する。任務が終わって陸が見え始めると、至る所が疼きだす。

 海の男なら誰もが経験する事だという。不思議なのは、五十嵐が若かった頃よりも疼き方が酷いとか。


(そろそろ、子孫を残したがってるのかもしれないなぁ)


 

「勝利さーん」

「海音!」


 愛おしい女が港まで迎えにきてくれた。

 五十嵐は担いで走って帰りたいのをぐっと堪え、手を繋いでゆっくり歩いて帰る。


 ここからが二人の本当の物語の始まりだ。

 海音でよかった。心からそう思える女に出会えた五十嵐は、きっと神に感謝することだろう。


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