第26話 識即是空
突然のカウンターパンチに柴山にはクエスチョンマークしかない。一方で、慈道は心の中でこうなることを予見していたように、「遅かった」とでも言いたげに渋い顔をする。ここ数日確かに違和感をどことなく覚えていたのだ。しかしそんなわけがないという妥協を許す考えが慈道に人を疑う心を忘れさせていた。
サバイバルナイフを半身に構えたアリサは威嚇を続けながら、ゆっくり陣取り、入口側に移動する。
「今すぐ携帯を出して、電源を切ってください」
アリサは、まず手前のソファーに座っている柴山の方にナイフを向ける。必要以上に近づくと、逆にナイフを奪われる可能性がある……そんなことを警戒してか、いい塩梅の距離感を保っている。
「ア、アリサ……何かの冗談よね」
柴山はそう言って、テーブルの上に置いてあるデザリングで用いたスマートフォンの電源を切った。
アリサはその問いに対して、首を横に振るだけであった。
「さあ、慈道さんも」
慈道は舌打ちをしてから電源を切り、アリサと真っ向から目線を合わせながらテーブルの上にゆっくりと置いた。
「そのままじっとしていてください」
すると、なにかの衝突音とその揺れが二階の書斎に小さく伝わった。そして、カチャっという金属音が鳴った。誰かがやって来たらしい。来訪者はのしのしと足音をたてて階段を登ってくる。子どもの足音ではない。明らかに成人男性、それもかなりごつい。ちなみに突然の来訪にアリサは一切動じていない。このことから帰結される事実はただ一つである。
仲間がやってくる。慈道はそう直感した。しかし、入口はアリサに塞がれ、雨戸は閉まっている。慈道と柴山は、この状況でアリサに言われた通りただじっとする他になかった。
やがて、ドアが独りでに開いたと思ったら、そこから黒い薄手のコートを着た若い大男が現れる。
「やっと来た!」
アリサの言霊には堅苦しさが消えていた。上品さもない。
「アリサ。首尾は?」
見た目通りの低くて芯のある声だった。
「それが、最後の最後でごねて……」
アリサは百八十はあるだろう巨体の陰に隠れた。
「あ、あんた、見覚えがあるぞ。確か通夜の会場にいたな。喫煙所で煙草を吸っていた」
ナイフが視界から消えて、少しだけ緊張の度合いが減ったが、男の威圧感は無視できない。
「俺は君を初めて見るけど、大した記憶力だ。確か、慈道弥七君だっけ?」
「名前を気安く呼ぶな」
「おう、怖い怖い。そんな口、これを見てもきけるかな?」
男はコートの懐から、なんとサイレンサー付きの拳銃を取り出し慈道に向ける。サバイバルナイフがどうでもよくなるくらいの展開に場内は凄み、慈道と柴山は恐怖で固まってしまう。
「ま、まさか……お、おもちゃ、だろ?」
慈道はなけなしの勇気を振り絞るも、涙が出るほど頼りない。
「試してみようか?」
男は部屋の角にある花瓶に向けて躊躇なく発砲した。銃声はサイレンサーによってかき消されたが、瀬戸物が割れる音で、場内の空気が更に引き締まった。太めの花瓶とはいえ、いとも容易く命中させるその射撃の腕は、訓練されている可能性が高い。
花瓶が割れるのと同時に柴山は肩をすくめ、正面を向いて俯き、両腕を膝にのせて力を込めた。脚にきている震えを緩和しようとしているのだ。
「さて……復号するのは君かな?」
男は柴山の真横に立ち、左こめかみを狙うように銃を向けた。柴山は視線を動かさないが、朦朧と黒い円筒が自分に向けられているのを感じ取った。そして、顔面蒼白になり、力を込めていた腕も震え始めさせた。
「おいおい……お、女に銃を向けるなんて……き、気は確かか」
これまで見たことのない柴山の怯えぶりをみて、慈道は黙っていられなかった。
「無理しないでいいですから、黙っててくれますか!」
アリサが声を張って慈道を黙らせた。妙な男気は一切不要。そんな濁った空気が漂っている。
「いいですか。よく聞いてください。私たちは祖父の研究を手に入れて、向こうの諜報機関に提出することになっています」
アリサは淡々と言葉を吐き出していく。
「莫大な報酬を受け取ったら、私たち二人は日本から姿を消して誰にも迷惑をかけずに生きていこうと思います。大人しくそれを復号してさえくれれば、お二方には一切危害は加えません。それは約束します」
「姿を消すって……家族はどうするんだ? 多摩市で育ててくれた両親が泣くぞ」
「なにそのお説教みたいなの。あなたはなにも知らない」
「お、俺には父親がとっくの前にいない。事故で死んだんだ。俺に弥七なんてださい名前を付けた両親を昔は恨みんでいたが、今は……この世に生み出してくれて感謝もしている。人の縁の尊さがようやく分かった気がするからだ。君のしていることは、金を理由に人の縁を断ち切る行為だ」
「お金の問題だけだと思っています? うちは、父も母も立派に働いている裕福な家庭なんです」
「立派に……だったら尚更家庭を離れるわけにはいかないじゃないか」
「実の両親だったらの話ですよ。母とは共通している部分が多いにあると感じている反面、父とはことごとく
「まさか、DNA鑑定を本当にしていたのか?」
「はい。 99% の確率で実の父親ではないことが証明されました」
「だったら実の父親は……もしかして……いや、さすがにそれは……」
「井上昭一が私の本当の父です。これを聞いて信じられますか?」
「いいや」
「しかし、こちらもDNA鑑定で証明されています。あの男は、実の娘に手をかけたんですよ? 画家の父は個展を開いたり、祭典を主催したりと家にいないことが多いから、それをいいことに……こんなこと許されるわけないでしょう。母も母で、あの男と肉体関係を持ちながら何食わぬ顔でこれまで一緒に生活してきた。父に至っては、本当に私を実の娘だと勘違いして接しているのかもしれない。もしそうだとしたら……もしそうだとしたら!」
怒りと悲哀を交わらせながらアリサは激昂している。
「父は本当にいい人。だから、何度も何度も好きになろうとしたけど、ただのいい人止まり。肉親じゃないから。だから、余計に哀れにしか思えない。あの第一の試練の種明かしを聞いて、
いつの間にか、アリサの瞳からは滝の涙が流れている。井上家の因縁に振り回され、結果的に赤の他人であることになったアリサの義父、鈴木貴志に対する哀れみの心が、正の無限大に発散しているのだろう。銃を構えている男も僅かに瞳を潤ませている。ここまでくれば、二人の馴れ初めも容易に想像できる。
「……君は、井上昭一に復讐したいのか?」
「そうです。私たちに仮初めの家庭を与えた井上昭一を私は許せません。彼が残した研究を向こうに提出して、あの男の意に反した形で発表させることによって復讐しようと思うのです。あの男は私に数学者になってほしいと思っているようですが、そんなのまっぴら。あの男が生涯没頭した学問を私がやっているだけで虫酸が走ります。だから、あの男の息のかかった汚れた研究をさっさと売り飛ばし、それで得られる10億という大金を、彼と一緒に湯水のように使って一生を終えたいんですよ」
柴山は怯えながらも目をつぶってアリサの話をしかと聞いている。後輩として共に過ごした日々を
「もう、元には戻れないんだな」
慈道は説得が通じる相手ではないことを悟った。
「はい。歯車は直せないくらい狂い始めているんです。彼も相当手を汚してしまっている。ここまで来てしまったら私はとことんやります。たとえ、あなたの大事な柴山さんの脚を撃ってでも……」
陸上競技部に所属していて、今も趣味でランニングをしている柴山の脚を奪うことは、明らかに無情な発想である。それは慈道にとって許しがたい発言であるが、決して逆らってはならないという歯止めの役割を十二分に果たしていた。
「慈道さん。私は真実を知って、あの男に関するすべてのものが嫌になりました。数学もその一つです。ですけど、この一週間、慈道さんや柴山先輩と共に過ごしたほんの数時間はとても楽しかった。ほんの少しだけ境遇がずれていれば、私もきっと数学を好きになれたと思います。だから、お二人には迷惑をかけたくないと本心で思ってます。お願いですから……黙って言う通りにしてください」
慈道は立ち尽くす。
アリサは様子を見て男にサインを送った。男は一歩引いて銃を下ろす。
「せ、先輩ー」
柴山は鼻水を垂らしながら泣きじゃくって呂律が回っていない。恐怖は勿論のこと、アリサに対する同情も含まれているのかもしれない。
「と、とりあえず従うしかないだろ……」
「だ、だめ。先輩。怖いです」
「そ、そりゃ相手は銃を持っている。誰だって怖い」
「それもあるんですけど、私の手によってこの論文が彼らの手に渡って、それを悪用でもされたら……責任とれません。それが怖いんです」
「大丈夫ですって。柴山先輩。これは正義のために提供するだけなんですから。平和のためにやっていることなんですよ。テロリストの暗号通信を傍受できれば、テロ行為を未然に防ぐことも可能でしょう。多くの人が救われるんです」
「便利なものはそれだけ悪事に応用することも容易い」
「それは国のモラルの問題。私たちがとやかく言う問題じゃありませんよ」
「あんたらは金さえもらえれば一生遊んで暮らせるんだから責任なんか感じないんだろうな。だけど、柴山は銃を突きつけられ、脅され、強要され、セキュアな世界を崩壊させた当事者というトラウマを乗り越えて今後生きていかなければならないんだぞ」
慈道も感情的になり柴山の身を案じている。
「あまり調子に乗らない方がいい」
男は涼しい顔をして今度は慈道に銃を向ける。復号ができるのは柴山なので、最悪慈道は殺してもよいと考えているのかもしれない。
慈道は細長い黒い円筒の先端に焦点を合わせて息を飲んだ。
「や、やめて。お願い……」
柴山は慌てだした。
「お願いだから、私……やる……やるから……だから……」
弱々しい口調ではあるが、確固たる意思を示している。柴山が背負っていく重荷と、慈道の命を天秤にかけたらしい。
「柴山……」
慈道は歯を食いしばり、瞳を親指でこすった。
柴山はゆっくりとパスワードを一文字一文字タイプして、ノートパソコンのロックを解除する。
その震えた指使いを見て居たたまれなくなった慈道はついに吹っ切れた。
「無理するな。お前ができないのなら……お、俺がやる!」
慈道は一歩前に出て、まだ微かに残っていた最後の勇気をひりだした。
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