aRiSA

東埜 昊

第1章 或る数論学者の死

第1話 無明

 数学者井上いのうえ昭一しょういちは数論を専門としており、ミレニアム懸賞問題の一つで多くの数学者を虜(犠牲)にしたリーマン予想に関する研究を少々行なっていたが、どちらかといえば抽象的な純粋数学よりも、素数生成アルゴリズムや楕円曲線暗号など応用数学の研究に定評があった。

 三年前、傘寿を迎えてめでだいと思われた年に肝臓癌を患っていたことが判明し、もって五年との宣告を受けていた。二十年ほど前にロシア人の妻を亡くしていた井上は、医師に入院生活を勧められたが、宣告後も住み込みの家政婦と共に世田谷区の自宅に留まり、書斎に引きこもっては計算用紙に考えをまとめて、コンピューターにそれを打ち込む日々を送っていた。

 井上は長女と長男を授かっており、月に二、三度、その家族が遊びにやってくる。妻を亡くして家政婦との暮らしが始まろうとしていた当初、子どもたちは井上に自分らの家で生活することを勧めたが、数学者としての性がそれを拒んだのであった。身内のいない閉塞的な世界で、誰にも迷惑をかけずに――家政婦は例外として――死ぬまで自身の研究を続けるという生き方を井上が望んでいたのだ。もう少し付け加えるならば、長女はファッションデザイナー、長男は作家と、おおよそ数学に明るくない人種であったために、その家庭に馴染める自信がほとんどなかったという点も無視できなかった。

 子どもたちとの同居を拒んだ井上であったが、一つだけ心残りがあった。長女の娘であるアリサの存在だ。アリサは東京の大学で数学を学んでいる。井上の子孫で唯一自分の研究の理解者になりうる可能性を秘めているのだ。名付け親でもある井上は、昔からアリサをよく可愛がっていた。アリサが大学に進学し、それも数学科を選んだことには大層喜んで、お祝いに高木貞治の『解析概論』――大学の初学年に習う微分積分学についてまとめた歴史的名著――を送りつけたほどである。そういうわけで、溺愛している孫娘のいる長女の家庭で同居するという選択肢もなくはなかったのだが、そうしてしまうと大なり小なりアリサの数学的思考に影響を与えてしまうことを井上は恐れていた。

 井上が専門とする数論は整数論とも呼ばれ、整数に関するあらゆる性質を研究する代数学の一派で紀元前から研究し続けられている。大まかにいえば、現代数学は加法や乗法などの演算を追求する代数学、関数の動きを追求する解析学、線や面を追求する幾何学の三分野に分かれている。そして代数学一つをとってもその中には、線型代数、数論、群論、環論、体論、代数幾何などの多様な学問体系が形成されている。孫娘が現代数学という新雪の積もった深山の麓に立たされ、いざ足を踏み込もうとしているさなか、井上が数論という洞窟からひょっこり現れ、最短コースのルートを辿り迎いにきて、手を繋ぎながらその洞窟へいざなってしまう――そんなことが、アリサと同居することによって引き起こされてしまうのではないかという、端からみれば杞憂ともとれる葛藤が井上の中にはあったのだ。数学は自由な発想が大事であるから、井上はアリサの自由意志を自分が束縛するのはよくないと考え、彼女への思いを押し殺し、寡黙に自分だけの研究だけを全うする選択をとったのが実際である。

 さて、井上を信奉する者たちの間で、彼は素因数分解を短時間で行う新理論を発見したのではないかという噂が広まっていた。素因数分解とは整数を素数の積で表すことである。ただし、素数そのものはそれ単体で素数の積であるとみなす。素数とは1とそれ自身以外に割り切る正の整数がない1より大きな整数のことで、2、3、5、7などが例である。例えば 15 を素因数分解すると 15 = 3 × 5、 108 を素因数分解すると 108 = 2^2 × 3^3 といった具合である。 1 より大きい任意の整数は素数の積で表すことができるので、素数は数の元素とよばれることがある。

 ところで、 33277 を素因数分解せよといわれて即答できる者はいるだろうか。余程感覚の鋭い人間でなければ、瞬時に行うのは難しいといえる。実際、 33277 = 107 × 311 が正解なのだが、一般人であれば、 107 や 311 が素数かどうかもすぐには断定できまい。1桁の素数で割り算していくくらいであれば中学生でも可能だが、桁数が増えていけば増えていくほど素因数分解の困難性は飛躍的に増す。 33277 くらいの数であれば家庭用のコンピューターでも瞬時に計算しきるが、 200 桁程度の整数を素因数分解するにはスーパーコンピューターでも数年を要する。

 素因数分解の困難性は今日では情報セキュリティに応用されている。インターネット上で個人情報を相手へ送信する際、データを暗号化するのが一般的である。この暗号化の方式には様々あるが、素因数分解の困難性を利用したRSA暗号が広く普及している。適当なウェブサイト(例えば https://kakuyomu.jp)を閲覧していて、URLのすぐ左に南京錠のアイコンがあるのであれば、クリックして頂きたい。そのウェブサイトへの接続は暗号化されている、といった旨の説明と証明書が表示されるはずである。そして、より詳しくみていけば、RSA暗号化とか、楕円曲線公開鍵といった暗号方式のアルゴリズム名を確認できる。SNSやショッピングサイトでは、メッセージや個人情報を送信する際、ほぼ間違いなく暗号化してから行われる。そうでなければ、第三者にその内容を盗聴される可能性があるからだ。クレジットカードの番号やシークレットコードなどがばれてしまうと始末が悪い。

 巨大な数の素因数分解がもしある画期的な方法で短時間で可能になるならば、それはRSA暗号がセキュアではなくなることを意味するので、多くの数学者やエンジニアの度肝を抜かす大事件になるだろう。井上はもしかしてその領域に足を踏み入れたのでは、そんな噂がここ数ヶ月飛び交っている。というのも、Twitterでそのようなことをほのめかす発言を数度しているのである。ある一般のユーザーが詳しく尋ねてみたが、「私は驚くべきアルゴリズムを見つけたかもしれないが、Twitterはそれを書くには狭すぎる」という返信が来た。井上は常にジョークを心がけるユーモラスな人であったが、虚言を吐いたり、社会を混乱させるようなことは決してしない人格者でもあったため、信憑性の高い噂としてネット界隈は見ていた。

 コンピューターにも明るい井上はそういったSNSも活用しており、孤独な生活を続ける中で、Twitterの存在は心の拠り所として一役買っていた。井上をフォローしてくれるユーザーは当然数学に関する素養がある者ばかりであるという点が非常に大きい。数学的かつ意味深なツイートをし、その反応を見ることに井上は小さな愉悦を感じていたのである。

 井上はどんなに忙しくても毎日少なくとも一回のツイートは心がけていた。数学とはまったく関係のない、食事やテレビ番組の感想なども多い。しかし、ここ二、三週間はツイートの頻度が激減している。この事態はインターネット上で様々な憶測を産んだ。有力な説は二つある。高齢であるために体調が優れなくなった説、ツイートをする間もないほどに研究にのめり込んでいるという説である。フォロワーが後者の方を切望していることはいうまでもなかった。

 井上のインターネット上の足跡は「一つの法則が見つかった。それが証明されたならば、システムが崩壊の域へと導かれるだろう」というツイートを先週末に残しついに途絶えてしまった。

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