第5話 信じる者と信じる者と信じる者。





「きみ、どうか落ち着いて!」


 遠くでさっきのお巡りさんが叫んだ。お前、一番に逃げたくせに。

 私はステイト・オ・メインを見つめたまま、ちっとも動けなかった。私はその大きさに限りなくビビり尽くしていた。


 でっぷりとしたお腹と小山のような背中の盛り上がりが私の悲鳴を殺した。むかし見た時よりも大きく感じるのは至近距離で見ているせいなのか、それとも檻の外にいるせいか。

 その巨大な口には黄ばんだ白い牙が骨肉を噛み砕き、はらわたを引きずり出すためだけに並んでいた。率直に怖い。

 牙と牙の隙間から、生臭い死肉の悪臭が絶え間なく流れ出している。こいつは肉を食うんだなと思った。これは肉を食う奴の臭いだもの。


 熊と出会った場合、決して背を向けず、向かい合ったままそろそろと後退するのがいいと聞いたけど、そう言い始めた奴はこの分厚い筋肉と毛皮のかたまりを、そこから突き出した鉤状の五本の爪を目の当たりにしたことがあるんだろうか? 


 死んだふりをすればいいと言い始めた奴にも問いたい。


 それって、諦めて死ねってことじゃないの? 


 私はそんなの嫌だ!


 かといって、悪足掻きが通じるとも思えない。死の予感が私の頭を馬鹿にする。頭の中がぼんやりとして、現実味を損なう。正しい思考は失われる。


 私はガタガタ震えながら、呆然と立ち尽くした。


 つまり、死んだふりと同じだった。でも、私は黙って死ぬつもりは毛頭ない。最後まで声を上げてやる。攻撃してやる。殺してやる。誰を? 何を? わかんない。でも、それは私じゃない。私以外の誰か。


 そうだ、今日を生き残ってやる。暗い気持ちに押し潰されて、腐るようなことはもうしない。滅入ったら動け。やられたらやり返せ。こいつなら何を言ってもだいじょうぶとか嘗め腐って来るボンクラの頭を潰せ。今日を、生き残ったら、今度は私が熊になる。月に吠える。邪魔者を殺す。ずる賢く生きてやる。いつか、渋くて格好良い熊撃ちに、鮮やかに眉間を撃ち抜かれる日まで。


 私の頭の中に巡ったあらゆる言葉は、もしかしたらこの瞬間にはそぐわない走馬灯のようなものだったかもしれない。でも、まったくそぐわないとも思わなかった。なんでかは知らないけど。それでもやっぱり身体は震えて動かない。あーこれで死んでしまうのかと思ったら、ステイト・オ・メインはいつまでも私の左頬を舐め続けて、一向にその鋭い爪や牙でもって私をぐちゃぐちゃの肉塊にしてこない。あれ? 


 死と恐怖と悪臭でくすんだ思考が戻って来た。フィルターがぽろんと取れる。熊は、ステイト・オ・メインは、さっきから私の頬っぺたばかり舐めている。え? 殺す気ないの? そう思ってよくよく見ると、さっき見たほど大きくも思えず、せいぜい頭は私のお腹くらい(四つん這いだからかも知んないけど)。頬っぺたを舐めるために、ちょこっと首をもたげている。なんで? なんで頬っぺた舐めてんの? そんな、左の頬ばっかり。私の殴られたとこばっかり。


 ステイト・オ・メインが私の頬を一舐めする度に、大人たちはぎゃあぎゃあ悲痛な叫びを上げた。


 なんか、高校に上がって友達が一人もいなくって、孤独のうちに自殺したクラスメイトを思って集会とかで泣くクソみたいな女子みたい。お前らが逃げたんだろ?

 私はステイト・オ・メインを何の緊張もなく振り返った。その毛むくじゃらの中に埋もれた小さな目を見た。

 彼の目にはかつての、老いて腐っていただらしのない光りはなかった。何かをなす。どこかに行く。もっと、もっとより良い場所を目指す。そんな強い意志が灯っているように思った。私はその精悍な眼差しに見入った。

 その目が、その輝きが、私に多くのことを教えてくれた。


 サーカスで育ったステイト・オ・メインは、外の世界を知らない。


 芸を仕込まれればそのようにし、ご褒美にたくさんご飯を貰ったろう。出来なければ貰えなかったろう。そして、普段は狭い檻の中で、冷たい床の上で、薄暗い中、湿気たカビ臭さと共に育っただろう。やがてサーカスが終わり、彼はようやく自然に返されそうになった。

 でも、サーカス暮らしの調教熊に、大自然の中を生きていく力はないと、周りが勝手に決めただろう。

 

 そして、あの動物園に贈られた。

 

 若い身体は日を追う毎に衰えて、飼育小屋や檻の中以外を知ることもなく、腐り切っていくことを覚悟したかもしれないし、それで涙を流したかもしれない。

 

 そんな折、不意に訪れた機会は、今日だったのだ。

 

 今日、彼はふと園長さんをどうにかすれば、外の世界を見に行ける。そう気付いたのだ。園長さんは長年世話をしてくれたとはいえ、同時に閉じ込めていたのも間違いない。彼は今日、絶好の機会を受けて、思ったのだ。園長さんをどうにかしてでも、飛び出す価値がそこにあるって。


 これは私の妄想でしかない。何もかも間違っているのかもしれない。でも、ステイト・オ・メインは私の傷付いた左頬をずっと舐めている。か細い声で、アール、アールと呻いている。殺意はない。食べようともしない。私は知らないうちに泣いていた。これから人間たちに殺されるかもしれないのに、私を慰めてくれた熊を思って泣いた。


「……だいじょうぶ。もうだいじょうぶだよ。ありがとう。ありがとう」


 私はステイト・オ・メインの毛深い頭を撫でた。ごわごわして、固かった。


「何してるんだ! 危ない! 逃げろ!」

「いや、落ち着くんだ! ゆっくり、ゆっくり離れて!」

「悠長なこと言いなさんな! 走りなさい! 走れ!」

「いいから、ゆっくり離れなさい!」

「いいや、走れ! のろのろするな! そのままだと死ぬぞ! 走れったら!」


 大人たちは好き勝手なことばかり。向こうでやいのやいのうるさい奴等の、誰一人として私は知らない。知らない人間たちだ。

 関係のない人間の厄介で嫌なことって、向こうには何の責任もないから、好き勝手言い放題なところだよなぁって私はぼんやりと考えていた。ステイト・オ・メインは私の涙をべろべろ舐め取った。臭いし、痛いけど。けど、あの連中よりずっと頼もしく、親しみを感じた。


「あのー!」


 私は涙を拭うと、手を振って合図した。あいつらは私の急な大声にびっくりしてる。


「あのー! なんかだいじょうぶっぽいですけどー?」


 私の手に撫でられるがままのステイト・オ・メインは、借りて来た猫みたいに大人しい。だけど、連中はちっとも話を聞いてくれなかった。


「馬鹿なことを言うもんじゃない! 熊の恐ろしさを知らないのか?」


 えぇ、と思った。この辺に野生の熊なんかいないし、私もアンタも実際は知らないじゃん。そりゃあ、人食い熊の事件は過去たくさんあったろうけど、こいつは調教されて人慣れしているじゃないか。さっきは急に間近で見ちゃって気が動転したけどさ。でも今、害もなさそうなのがハッキリ目に見えているはずなのに、なんでそれが判らないんだろう?


 目の前の出来事より、実際に目にしたこともない情報を信じているのだろうか? そうか、つまりあれは私の父と似たような連中なのだ。借りて来た情報を鵜呑みにして、それが正しいと信ずるあまり、目の前が真っ暗になっているんだ。そんな奴等に、どうして言葉が通じると思ったんだろう? 我ながら不思議だった。


「猟師を呼んで来い!」


 誰かが叫ぶのが聞こえる。ああそう。

 みんな、どうしたってステイト・オ・メインを殺したいんだな?


「止めて下さいって! この子、人慣れしてるから!」


 私は駄目で元々、もう一回声を上げてみたけど、通じる気配がない。あいつらの目には、私は恐怖のあまりに錯乱して、わけの判んないことを叫んでる女の子ぐらいにしか見えていないみたいだった。


「よぉし! こいつで注意を引き付けてやる! そのうちに逃げろ!」


 やがて、顔も名前も知らない大人たちの誰かが、石を投げた。

 それはステイト・オ・メインの固い毛皮に弾かれて、威力もそのままに私の額をガツンと打った。痛い。


「何してる! 悪戯に刺激しちゃいけない!」お巡りさんの嗜める声が聞こえた。


 耳元で、ステイト・オ・メインがぐるぐると唸った。

 額を左手の甲ですっと拭うと、鮮やかな赤色が私の白い皮膚の上に、きれいな扇を作った。……ああ、だから嫌い。

 その時私はかつて、ステイト・オ・メインに向けて、小石を投げたあの男子のことを思い出した。顔も名前も思い出せないけれど、今日、私はあの子と同じ頬を打たれて、あの子がやったことをやられた。


 頭の中に懐かしい声が響く。


 ああ、思い出した。私は、その顔も名前も忘れた男子のことがちょっと好きだったのだ。誰にでも優しいし、足も速かった。勇敢な子で、いつもみんなの中心にいた。ヒーロー願望みたいなものもあったのだろう。

 だから、熊にも石を投げたんだ。でもそれは相手の立場を見てやったことだった。相手が、絶対にこっちに危害を加えられないと理解した上での、いやらしくって勇気の欠片もないクソったれのゲスな行いだった。でもそれが出来たのは、自分に正義があると思い込んだから。

 みんなのために、あの熊がもうちょっと動けばいいっていう、サービス精神。出来損ないをちょっといじって面白くしてやったとか、そういうノリ。いじりっつーかいじめだけど。

 

――――だから私はこう叫んだのだ。



『見損なったよ! バカヤロー!』



 額からはだらだらと止め処もなく血が流れていた。そんなのはまったく気にもならない。ステイト・オ・メインは歩き出していた。唸り声を高らかに、可愛げの失せた肉食獣の残忍さを纏わせて。


「殺せ!」


 私はその毛むくじゃらの同士に精一杯の言葉をかけた。殺せ! 踏み潰せ! 行きたいところへ行け!


 ステイト・オ・メインは大人たちへ向けて、猛然と駆け出して行く。お巡りさんが小学生のペニスみたいな拳銃を引っ張り出して、パンパン渇いた音を立てたけど、そんなものが熊に通じるはずがない。奴等、きちんとした武器を持っていないぞ! 行け! 行け!


 ステイト・オ・メインは駆け抜けた。

 老いて固まった身体に鞭打って、若く柔らかい心でもって。

 その姿は雨後の河原を埋め尽くす濁流のように茶色の背中を波打たせ、すべてを蹴散らして猛進する速度そのものとなった。


 大人たちはわーわー叫んで散り散りに熊を避けた。お巡りさんは、またパンパン無駄な弾を消費した。余計なことだ。後で撃った回数を報告書に書くんだろう。落ちた薬きょうを這いずって探して。それで、同僚にこう言うんだ。「俺、熊に立ち向かったんだぜ」って。

 でも、その勇気はステイト・オ・メインには到底敵わない。未知の世界を目指して駆けた老いたる調教熊には、ぜんぜん敵わないのだ。


 やがて、ステイト・オ・メインの姿は見えなくなった。山の方へと消えたようだけれど、本当はどうだか判らない。でも、私の中では確信としてそうあった。あいつはきっと山に行ったろう。本来、山にいるべき奴なんだ。私は茫然と立っていた。あらゆる気持ちがスッと抜けていた。


「あれ、お姉ちゃん?」

 

 振り返ると美代がポテポテと歩いて来る。ステイト・オ・メインがやって来た道を。美代はちゃんと厚手の上着を着て、手袋までしていた。私は頭の中が真っ白になった。美代は赤くなった頬を持ち上げて、にこやかに笑う。


「アールを見なかった? さっき、すごかったんだよ! アールったらね、細い塀の上を綱渡りしたの! 猫ちゃんみたいに、すいすいって。あっちへこっちへふらふらしながら、でもちゃんと渡り切ったの! すごいって手を叩いたら、やっぱりアールって鳴いたよ。うれしそうだったよ。また見たいなあ」


 私は力の抜けるのに任せて、へなへなと美代を抱き締めた。美代の身体は柔らかくって、暖かい。


 美代は、私より先にステイト・オ・メインに会っていたのだ。現れた熊が、もし、ステイト・オ・メインでなかったなら。もし、ステイト・オ・メインが本当の人食い熊だったら……。

 私は身体中が小刻みに震えてきて仕方なかった。もしそうだったなら、美代は今頃、腹を食い破られて、内臓を引きずり出されていただろう。私は想像する。浅く積もった雪上に仰向けに倒される美代を。内臓から飛び散る赤黒い血や様々な体液が雪を溶かして、湯気を立てている様を。

 そして、熊は本能に従って、美代の片足を咥えて、血の線を路上に引きながら、獲物を隠す穴を目指す。そこに保存して、掘り返して、食って、埋めて、掘り返して、また食って……。


 そんなことがあり得たのだ。ほんのさっきまでその可能性をぜんぜん否定出来なかったのだ。なのに私、変な意地張って、美代を助けられるのは自分だけみたいな。親にも話さないで。


 不甲斐なさ過ぎて涙が出た。私は本当に、馬鹿だ。最悪だ。


「……ごめん、ごめんね。お姉ちゃん、自分のことばっかで」


 涙が止まらなくて、わんわん泣いたら、美代が頭を撫でてくれた。


「どうしたの? お姉ちゃん、顔が腫れてるよ? 頭から血出てるよ?」

「……ごめん……ごめん」


「いいよ。だって、私はアールを信じたもの」

 

 涙も血も止まらなくって、私は気絶する瞬間までごめん、ごめんと謝り続けた。
















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