第09話 誰ソ彼

 暗く重苦しい宇宙服。光の無い宇宙空間。由梨は震えていた。

 周りでは、反動の非常に低い銃が火花を散らしていた。撃っている兵士たちは重力の低い小さな惑星上で吹き飛ばされないように、足から地面にアンカーを打ち込んでいた。

 銀色の昆虫の体躯が、銃撃の光の中に見えた。6本の足を持つ虫たちは群がり、尽きることの無いように低い丘の向こうから次々に湧き上がってきていた。虫達は銃撃をものともせず、打ち続ける兵士が飲み込まれた。慌てて逃げようとした兵士はアンカーを外せず、飲み込まれた。

「補給隊新兵から順次、輸送船に乗り込め!」

 隊長の怒鳴り声が由梨を現実に引き戻した。

 由梨は走った。そして操縦席に飛び乗った同じ新兵の後ろから輸送船に乗り込んだ。後ろにはもう1人の新兵が駆けて来ていた。由梨は船に引っ張り上げようとして振り返った。

「早くしろ!」

 操縦席に乗った男が叫んだ。大勢の兵士たちが輸送船に向かって走ってきた。

 由梨は黒髪の女の手を取ろうとした。補給部隊に配属されて、つい2日前に仲良くなった同い年の女だった。

 その時、急に輸送船は浮上し始めた。

 黒髪の女と由梨の手はすれ違った。由梨は驚いて操縦席の方を振り返った。

「何をしてるの!早く船を戻して!」

「うるせえ!このままじゃ俺らも助からねぇだろうが!」

 男は目を見開いて、常軌を逸した表情をしていた。

「駄目よ!皆死んじゃう!みんなが!みんなが!!」

 由梨の声は途中から悲鳴に変わった。

 飛び立った輸送船を呆然と見上げる兵士たちが次々に虫の群れに飲み込まれていった。

 最後に、黒髪の女の表情が由梨にははっきり見えた気がした。

 怒りも、悲しみもそこにはなかった。ただ、”どうして”そういう顔だった。


 由梨は飛び跳ねるように起きた。

 そして、しばらく呆然としたまま自分の居る室内を見回した。心臓が服の上からでもわかるくらいに激しく鼓動して、額はじっとりと汗をかいていた。由梨がそこが自分の研究室だと気付くまでにしばらくかかった。

 机の上には付きっぱなしの端末が青白い光を放っていた。

 由梨は考え込みそうになるのを無理やり抑えて、窓のブラインドに手をかけた。ブラインドの隙間からは既に昼の光が漏れていた。ブラインドを引き上げると由梨はまぶしそうに目を細めて、机の上のカップを手にとった。

 ブラックのコーヒーは冷え切っていた。由梨には不味そうにしか見えなかったが、とにかく喉の渇きを癒したくて黒い液体を胃に流し込んだ。すぐに由梨はしかめっつらを浮かべた。

 睨んだ端末には、あの地下通路で手に入れた”生物”の研究が写っていた。

 その技術を特機に応用したとして、どれだけ技術を縮小して、それでも理解出来ないままに使用しているのか、由梨には検討もつかなかった。

「天使ね。確かに、神の技術で作られてる」

 由梨は呟いた。

 ”生体天使”。その生物は、書類の中でそう呼称されていた。

「技術的理解はこの際必要ない・・・」

 由梨は言って端末の電源を落とすと、机の上の書類を手にとった。

 書類には阿具の顔写真が写っていた。それから、阿具の入隊以後の輝かしい経歴が延々と書かれていた。由梨は上から時系列をさかのぼって見ていって、最後の行に目を留めた。

「霧島宙域撤退戦、生還・・・?」

 由梨は呟くと、黙り込んだ。


 阿具はタックルしてきた男の胴体に手を回すとそのまま男を持ち上げてリングの外に放り投げた。強化ゴムの床に落ちた男はうめき声を上げた。男の周りには同じように数人の大柄な男たちが息を切らせて倒れ込んでいた。

「お。やっぱ装甲兵で一番戦えるのはテメェだな、香坂」

 阿具は嬉しそうに言った。

 リングの逆の隅には汗をびっしょりとかいた香坂が構えていた。

「冗談じゃないっすよ・・・少尉と一対一なんて」

「別に銃でもナイフでも使ってくれて構わないんだぜ?」

「そこまで落ちぶれちゃねえっすよ!」

 言うが早いか、香坂はその体格からは想像の付かない敏捷さで突っ込んだ。

 香坂は阿具が手を動かす前にその腕までがっちりと抱え込んだ。

「ぬうっ!」

 香坂は阿具を組み敷こうとして力を入れた。だが阿具は動かなかった。

「ぬうううううっ!」

「ぅお!」

 阿具はどんどん増してくる力に膝をついた。更に力は増して阿具は倒れ込んだ。香坂は素早く馬乗りになって、躊躇無くその拳を阿具の顔に振り降ろした。だが、阿具はすぐさま香坂の手首を掴むと左側に引っ張り、自分の左肘で香坂の喉元を締めた。

 香坂はすぐに顔を真っ赤にすると、抵抗をやめて右手でタップした。

 阿具は手を放すと香坂はぜいぜいと息を切らしてリングに倒れ込んだ。

「やるな、香坂」

 阿具は立ち上がった。

 香坂は顔だけ上げて阿具を見た。阿具は汗ひとつかいていなかった。

「手加減なかったら、殺されてたっすねぇ」

 香坂は言うとゆっくり手を上げて阿具に中指を突きたてた。阿具はニヤリと笑った。香坂はぐったりと伸びた。

「わざわざすまなかったな。お前らみたいな屈強な奴らが居れば中央基地は安心だ」

 阿具が言うと、次々リングサイドに倒れ込む男たちが中指をつきたてた。

 阿具はまた笑みを浮かべて、リングから降りようとした。

「待って下さい」

 反対側のコーナーから声がした。

 阿具が振り向くと、そこには岩神が居た。鋭い目付きは阿具をぐっと睨みつけていた。

「何か用か?岩神准尉」

「わが隊各員と勝負されたんですから、私とも手合わせ願いたい」

「やめとけよ。アンタ大卒だろ?怪我して出世出来なかったらどうすんだ?」

 阿具が言うのと同時に剣銃が投げつけられた。阿具は軽々と受け取ると投げつけた岩神を睨んだ。

「私は叩き上げです。新兵からここまで来た」

「その年で叩き上げが准尉とはな。誰のベッドに潜り込めばいいのかな?」

 阿具が言うと、トレーニングルームがしんと静まり返った。

「ややや、や!ヤバイっすって!隊長はそういう言葉にめちゃめちゃ敏感なんすから!」

 香坂がリングの外から小声で言った。

「ああ?」

「うちの隊最強は間違いなく隊長なんすよ!」

「だろうな」

「だろうなって!?」

「ああいうタイプは怒らせた方が面白くなる」

 阿具は真っ直ぐ岩神を見た。

 岩神は無表情に剣銃を二回振った。

 その瞬間、残像だけを残して岩神は消えた。トレーニングルームの誰しもが驚いて言葉を失っていた。

 阿具は真っ直ぐに上を睨んで笑みを浮かべていた。岩神は跳躍して剣を振り上げていた。


”辺境への補給部隊から新兵二名生還。生還した阿具京一郎ニ等兵と志藤由梨三等兵を二階級特進の上、奮戦勲章を授与する”

 由梨は目を細めて新聞の記事を読んだ。

 扉がノックされて、由梨は新聞の記事を机に置いた。

「良いですか?」

 1号機が扉から顔を見せた。由梨は微笑んだ。

「どうしたの?」

 由梨は1号機が向かい側の椅子に腰掛けると聞いた。

「えと。少尉殿が由梨先生が変な動きを見せたら報告しろって」

 1号機は屈託無く言った。

 由梨は眉間に皺をよせた。

「そういうものって、秘密で行うものじゃない?」

「少尉は見付かっても良いって言ってましたよ?」

 由梨は少し考えた。

「なるほど。堂々と釘をさそうって訳か」

 由梨は1号機を見た。1号機はきょとんとしていた。

 由梨は腕組みをしてううんと唸った後、にやりと笑みを浮かべた。

「ね。気にならない?阿具少尉が一体どんな人なのか」

 由梨が言うと1号機は視線を上にあげてゆらゆらと揺れた。

「気になりますー!」

 1号機は満面の笑みで言った。

「でしょ。これを見て」

 由梨は言うと、さっきの新聞の記事を手渡した。

「阿具京一郎ニ等兵って、隊長のことですよね?」

「そう。志藤由梨三等兵は勿論、私」

「凄いであります!全滅した戦場で生き残るなんて!」

 1号機は大きな声で言った。

 由梨は頬杖をついて、コーヒーメーカーから新しいコーヒーをカップに注いだ。

「由梨先生?」

「私は逃げたのよ。国に戻った時、どうしてだか。惑星上の敵は全滅していて、英雄に祭上げられた。私、言えなかった。仲間を置いて逃げただけです、なんて」

 由梨は皮肉な笑みを浮かべてコーヒーを飲んだ。

「由梨せんせえ…」

「良いの。自分が強くない卑怯者だなんてコト。私はわかってるもの」

 由梨は言った。1号機は何か言おうとして由梨に手で静止された。

「言いたいことはそれじゃないの。問題はその時京一郎が何処に居たのか、ってこと」

 1号機は不思議な顔をして頭をふった。

「隊長殿は、惑星上の敵を全滅させたんじゃないんですか?」

「全滅させたとしたら、京一郎はどうやって戻ってきたのかしら…。あの辺境基地には惑星間を移動できるような船は私の乗ってきた船しかなかったのに」

「じゃあ由梨先生と一緒に乗っていたんじゃないんですか?」

「それもないわ。確かに、あの船には私ともう1人しか乗っていなかった」

 由梨はこめかみを親指で押して頭痛を抑えようとした。

「もう1人?」

「それが2つめの疑問。あれは誰だったのかしら。思い出せない…でも京一郎じゃなかった。もっとひょろっとしてて、イヤなヤツ」

 由梨はまた頭痛を感じた。由梨は机の引出しから頭痛薬を取り出すと噛み砕いてコーヒーで流し込んだ。1号機はずっと怪訝な顔で由梨を見ていた。

「なに?どうかした?」

「由梨先生。その場に居たんですよね?」

「そうよ」

 由梨は頷いた。

「じゃあ、どうしてそんなこと。普通に考えたら、わかることなんじゃないんですか?」

「3つめの疑問。私も不思議なの、どうしてか。私はあの事件に関連する幾つかのことを思い出せない」

「記憶が無い…?」

「人間、都合の悪い記憶だとか。思い出したくないことは記憶から無意識に消してしまうのよ。或いは卑怯な行いをした自分を許せなかった、なんてのもあるかもね」

 由梨は椅子に寄りかかって目を閉じた。

 1号機はじっと黙っていて、やがて由梨を真っ直ぐ見た。

「強さは性質じゃなくて、状態なんです」

「え?」

 由梨は目を開けた。

「強い人は、強いんじゃなくて。強くあろうとしているだけなんだって、隊長殿は言ってました。私にはわからないですけど、強くいられれば良いなって、思います」

 1号機はひとことづつ噛み締めるように言った。

「強い人の言うことじゃない?それって」

「私もそう言いました。でも隊長は痛みを感じても戦うことは出来るって」

「動けなくなるまで戦うって、言うのは簡単だけどねぇ」

 由梨はため息を吐いた。

「この年になると、理屈でわかっても自己正当化の方が先に来ちゃって。自分に吐き気がする」

 由梨は笑いながら言った。

 1号機は笑って良いのかわからずに困った顔をした。

「強くあれれば良いわね」

「はい!」

 1号機は力強く言った。

「私も。貴女たちくらいの年の時に、京一郎に会いたかったな」

 由梨が言うと1号機はきょとんとした顔をした。

「え?」

 由梨は自分で言った後で首をかしげた。


 岩神は大きく剣を振った。

 阿具は上体を反らして避ける。すぐに返しの一撃が振り下ろされた。阿具はそれを剣で打ち払った。岩神はその力強さに飛ばされそうになり、自ら後ろに跳んだ。

 阿具は余裕の表情を浮かべると、剣を自分の身体の周りでくるくると回した。

「この基地っつうか、この恒星系最強でもおかしくない使い手だ」

 岩神は答えずに阿具を睨んだ。

「ただ、剣が殺気で鈍ってる。俺を殺したいのか?」

 阿具は挑戦的な視線で岩神を見た。

「わからない…だから確かめる」

 岩神は呟くと一瞬で間合いを詰めた。

 阿具は自分の間合いに戻すため半歩退いた。

 その瞬間、岩神はさらに踏み込んだ。阿具は目を見開いた。岩神の強力な一撃が横から迫った。阿具は身体を捻って攻撃を避けようとした。

 岩神の狙いは的確だった。岩神は阿具の剣を狙っていた。

 金属質の音が響いて、阿具の剣は反対側のコーナーの下に突き刺さった。

「隊長ぉ!」

 香坂がリングしたから怒鳴った。

 岩神は剣を落とした阿具になおも剣を振り下ろした。

 阿具は好戦的な笑みをたたえて、体勢を立て直すと今までの倍以上に速い動きで蹴りを放った。岩神は剣の腹で蹴りを止めた。阿具の足は空中でそこから更に三発の蹴りを放った。

 岩神は最後の下段蹴りを防いだ後、驚愕の表情を浮かべた。

 阿具は足を戻し、その瞬間には前へ跳躍していた。

 そして、体勢の下がった岩神の肩を踏み台にして跳躍した。

 岩神が振り返ると、阿具は空中で身体をひねって剣の元に着地していた。

 阿具は剣を引き抜くと真っ直ぐ岩神に向けた。

「気に入った。ぶっ殺してやるから、かかって来い」

「違う。死ぬのは貴様の方だ」

 岩神は冷酷な表情を浮かべてそう言うと再び阿具に突進していった。


 由梨と1号機は中央基地の資料室から出てきた。

 由梨は調べたばかりの資料が収められている携帯端末を見ながら歩いていた。

 その時、ばたばたと騒々しい足音が廊下から曲がると、由梨とぶつかった。

「ぬっ!」

 由梨は素早く腰を落として、ぶつかってきた少女を受け止めた。

「4号!」

 1号機が声を上げた。

「いてて」

 4号機が鼻をおさえて呟いた。

「こら、廊下を走ったらいけません」

「えー、でもさ」

 言いかけて、4号機は後ろを振り返った。再び騒々しい足音がすぐそこまで来ていた。

 4号機はひらりと横に飛び退いた。

「えっ!ちょ!」

 どすん、と次は5号機が由梨にタックルを喰らわせた。

 ぐらついた由梨に、更に5号機の後ろから3号機がぶつかって、三人は廊下に倒れ込んだ。

「いたたた…」

「もう、なんですの!」

「アンタたち。次、廊下走ったら営倉にぶち込むわよ…」

 由梨はうめきながら立ち上がった。

 3、4号機も同様に立ち上がった。

「どうしたの?皆走って」

 1号機が言った。

「”トレーニングルームで阿具少尉と岩神准尉がすげえトレーニングしてんぜよ”」

 最後にゆっくり歩いてきた2号機が妙な声色で言った。

「なにそれ?」

 由梨は不思議そうに言った。

「”トレーニングっつか、殺し合いだぜぃありゃあ…見に行かないと後悔すんぜよ!”」

「わかったけど。それは誰のモノマネ?」

 1号機が聞いた。

「隣の隊室の第3調理中隊副隊長」

「あ、似てるー!」

 周りの特機たちが拍手して喜んだ。

「じゃなくて!」

 由梨が大きな声を出した。

「殺し合いって!駄目じゃない!」

「大丈夫ですよー。隊長殿がそう簡単に殺されたりするわけないじゃないですかぁ」

 1号機がにこやかに言った。

「…京一郎が殺しちゃったら、どうすんのよ」

 由梨が静かに言うと、しんと静まり返った。

「急がなきゃ!」

「おう!」

 1号機が言うと、特機たちが続いた。

 廊下をかける音が2人足されて、基地内に響いていった。


「人が増えてきたな」

 阿具はいつのまにかリングサイドに集まった兵士たちを見て言った。

 岩神は答えずに肩で息をしていた。

「どうしてそんなに俺を殺したいのかねえ?」

 阿具は肩をすくめて言った。

「自分の胸に聞いてみろ!」

 岩神は怒鳴って、阿具に斬りつけた。阿具は軽々とかわして横薙ぎに切り返す。岩神は間一髪で避けてまた飛び退いた。

「隊長っ!」

「京一郎!なにバカなことしてんのよ!」

 トレーニングルームの入り口に由梨と特機たちがたっていた。阿具は小さく舌打ちをした。

「うるせえのが来たな」

 阿具が呟いた一瞬の隙に岩神はまた攻撃をしかけようと剣を振り上げていた。

 その瞬間に阿具はそれまでと桁外れの速さで動いて、岩神が剣を振り下ろす前に手首を掴んでぐっと押し返した。岩神は慌てた様子で体勢を立て直そうとした。後ろ足を踏ん張った瞬間に、阿具は既に目前まで迫ってきていた。

「受け止めろよ。当たったら死ぬから」

 阿具が言うのと同時に、岩神に四方八方から剣撃が加えられた。

 岩神はただひたすら防ぐことだけで必死だった。十数回目の攻撃を受け止めたとき、阿具に明らかな隙が生まれた。岩神は不可解に思いながらも阿具に剣を振り下ろした。

「あ!」

 1号機が声を上げた。

 岩神と阿具の剣が交差して、金属音を立てた後二本の剣銃は宙を舞った。

 剣銃はそのままリングの外に転がった。

 岩神は阿具を睨みつけていた。

「わざと、どうして?」

 阿具は周りに押し寄せた観衆を見回していた。

「士気が下がるだろ?」

「え?」

「お前が負けたら、お前の隊の士気が下がる。一甲の士気が下がれば、中央基地全体の士気に影響する」

 阿具は周りに聞こえないような小さな声で言った。

「だから、真剣勝負に手を抜いたっていうの!?」

「俺たちの敵は他の隊じゃなくて、機械虫どもだろ?お前が部下の士気を落として戦場で死なせたいってんなら、まぁ相手してやってもいいが」

 阿具は背を向けた。

 岩神はぎゅっと唇を噛んで黙り込んでいた。

「良い腕してたぜ。剣銃に限ればお前は人類最強って言われてもおかしくない」

 阿具はリングを降りて行った。

 岩神は何も言えないで立ち尽くしていた。

 由梨の周りの特機たちは阿具に駆け寄っていった。

 由梨は親指の背を噛み驚いた顔をして、じっと資料を見つめていた。


 由梨は大浴場の湯船にゆっくりと浸かって、奥まで歩いた。

 そして、黙って岩神の隣に並んだ。岩神は長い髪をタオルで巻き上げていた。その表情からは何も汲み取れず、ただ無表情に前を見ていた。

「聞きたいことがあるの」

 由梨は言った。

「貴女は?」

 岩神は由梨を見ずに言った。

「中央基地付属生体機械学研究所所属。志藤由梨准尉」

「その歳で准尉?」

「ええ。…あなたと同じ」

 由梨が言うと、岩神はすこしだけ釈然としないように黙って、頷いた。

「聞きたいことと言うのは?」

「辺境α71での補給部隊と護衛部隊の全滅、そして生還」

 由梨はしばらく待った。返答は無かった。岩神を見ると、岩神はさっきより張り詰めた表情で黙り込んでいた。

「岩神准尉?」

「何の話?覚えていないけれど」

「資料で見たのよ。三年前に死んだと思われていた新兵生還。小さな記事だったけどね」

「知らない」

 岩神はまた無表情に戻って言った。

 由梨は岩神をまじまじと見た。岩神の全身には無数の傷の跡が残っていた。

「重要なことなのよ。私の記憶がはっきりしない以上、貴女が頼りなの」

「…何を聞きたい」

「阿具京一郎」

 ぽとりと天井から湯気の一滴が落ちた。

 湯船に小さな波紋が広がった後、辺りには静寂が訪れた。岩神は目を閉じて、低く息を吐き出した。由梨はじっと岩神の言葉を待っていた。

 やがて岩神は全裸で立ち上がって湯船から出た。

「出よう」

 岩神はそれだけ言って、すたすたと歩いて行った。

 由梨はタオルが取れない様に前を抑えて、慌てて後を追った。


「私のこと、覚えている?」

 由梨は牛乳ビンを持ったまま言った。

 大浴場の脱衣所の外側は、古い古い時代の様式を再現してあった。

 二人は送風のためにくるくると扇の回る機械の前に座って、それぞれガラス瓶入りの飲料を手にしていた。

 岩神はコーヒー牛乳をひとくち飲んで怪訝な顔をした。

「貴女を?」

「ええ。同じ隊だったわ、私」

「いつ…?」

「隊が全滅したときに」

「覚えてない」

 岩神はさっきまでとは少し違うトーンで言った。

 由梨は不思議そうな顔をした。

「本当に覚えていないんだ。覚えているのは、心が壊れてしまいそうな恐怖と。死ねば恐怖から解放されるのに、それでも戦いつづける自分への葛藤」

「じゃあどうして助かったのか、とかも…?」

「覚えていない。まるで永遠に思える時間、戦いつづけて、少しずつ死に近付いた。意識が遠退いて、目が醒めると2年経っていた。凍結処理されて宇宙空間を漂っていたらしいが」

 岩神の顔は青ざめていた。岩神は自分を抱きしめるように腕を交差させた。

「どうしたの?」

「孤独な宇宙空間で緊張を過度に受けると、ずっと引きずる」

「閉鎖性心的外傷後ストレス障害ね」

「そうだ」

 岩神は真っ青な唇でそう言うと、ポケットから薬を取り出して飲んだ。

 すこしすると岩神は落ち着きを取り戻して由梨を見た。

「殆ど前後の記憶が欠落しているんだ。ただ一点、あの男への殺意を覗いて」

「京一郎への殺意…?」

「それだけを糧に今まで生きてきた。自分の苦しみがあの男のせいだと思っていた。その殺意だけで病気も乗り越えて戦いつづけてきた」

 岩神はぐっと拳を握って、そのあと脱力した。

「だが、分からなくなってしまったな。あの男は本当に英雄よ。自分より他者や部下を思いやっている。強く誇り高い…敵にとっては確かに”戦場の悪魔”だ」

 岩神はうっすらと微笑みを浮かべていた。

 由梨は黙って考え込んでいた。

「どうして殺意を抱いていたのかはわからない。あの男なら、きっと私や君を助けるために奮闘したのに違いないのに、どうしてだろう?」

「…それは」

「どっちにしても、今更言っても仕方無いことか。でも、胸のつかえは降りたよ」

 岩神は言って、立ち上がろうとした。

 その瞬間、ふらりとして地面に倒れた。由梨は慌てて駆け寄った。

「ごめん。この薬良く聞くのだけど、運動能力が一時的に衰えるの」

「知ってる。一応保険医の資格ももっているから」

 由梨はそう言って岩神に手を差し伸べた。

 岩神は礼を言って、由梨の手に触れようとした。その瞬間、岩神の目が大きく見開かれた。

「岩神准尉?」

 岩神の顔はまた真っ青になった。そしてガタガタと震えて由梨の手を思い切り掴んだ。

「ちょっと!大丈夫!?」

「思い出した」

「え?」

「あの時、貴女は輸送船から手を伸ばして私を助けようとしてくれた。でも、船は飛び立った。最初に乗った男がそれを運転していた」

「生き残ったのは二人。私と京一郎」

「だから私は阿具少尉に殺意を覚えた、と。そういうことか」

 岩神は唇を噛んで、由梨の手を掴んで立ち上がった。

 そして岩神はそのまま背中を向けて歩き出した。

「ちょっと岩神准尉!」

「わからない…」

 岩神は呟いて立ち止まった。

「どうして阿具少尉はあんな行動をした?そもそも本当にあれは阿具少尉だったのか?」

 岩神は言って、首を振った。

「もう過去のことは良い。もともと、思い出したくないことだしな」

「納得出来るの?」

「ああ。現在の阿具少尉は尊敬に値する、それ以上はもう考えない」

 岩神はそう言うと部屋から出て行った。

 由梨は温くなった牛乳を一口飲んで、椅子に腰掛けた。

 生暖かく、湿っぽい風が扇風機から吹いていた。

「あのイヤなヤツが京一郎?」

 由梨は呟いてそれきり黙り込んで、ずっと椅子に座っていた。

 

 夕焼けがロッカールームに差し込んできていた。部屋の全てのものが赤く染まったロッカールームに他に人は居なかった。阿具の背中の後ろの窓からは、夜勤の兵士たちがランニングする号令が聞こえてきた。

 阿具は自分のロッカーを開けると金色のボタンを外し白い軍服を脱いだ。次に軽装の防弾チョッキを脱ぎ、次々にロッカーに放り込んでいった。

「それでは隊長殿!お先に失礼するであります!」

 ロッカーの外から1号機の声が聞こえた。

「おう」

 答えて阿具は合成樹脂製のジャケットを羽織って、ナイフを腰にさした。

 急に、外から声が聞こえなくなって、阿具は窓の方を向いた。空から俄かに雨が降り始めていた。赤い陽が雲に写って、不安な色合いに変わっていた。都市の向こうでは鉛色の雷雲が湧き立っていた。阿具はロッカールームの入り口に向いた。

「雨だ。4号機、アホみたいに風邪引くんじゃねえぞ!」

「わかったー!でもおれアホじゃねえ!」

「5号機!夜更かしすんなよ。ホットミルクでも飲んでとっとと寝ろ」

「子供扱いですの?でも、わかりました。お肌に悪いですもの」

「2号機も目を休めろ、近頃目付きが悪ぃぞ」

「生まれつきです」

「3号機、雷が怖かったら5号機に一緒に寝てもらえ」

「え?自分は。あ…わかりました!そうします」

「1号機、道草しないでちゃんと全員で帰れよ」

「了解しました!」

「全員帰って良し!」

「お先に失礼致します!」

 全員がきっちりと返事をすると阿具は満足そうに頷いた。やがて特機たちのお喋りと足音が遠退いて行くまで、阿具は暫く入り口の方を向いていた。それから長椅子に腰掛けてタバコをくわえた。阿具はタバコを吸いながら分厚く重い軍靴を脱いで、スニーカーに履き替えた。

 最後に阿具は室内をぐるりと見渡すとロッカールームから出た。

 廊下に出て、向かい側の窓の傍に由梨は立っていた。

 斜めから刺す夕日に照らされた由梨は一瞬とても憂鬱そうな表情に見えて、阿具は目を細めた。由梨は顔を上げるとにっこり笑った。

「京一郎。どうせ傘なんて持ってきてないんでしょ?」

 由梨は傘を掲げると嬉しそうに言った。

 阿具はちょっと戸惑いながらゆっくり頷いた。

 

「ねえ、京一郎。覚えてる?あの雨の日のこと」

 正面ゲートを出る頃には雨は都市を包んで降り注いでいた。夕日はいつのまにか消え、街は夜に向かい帳を下ろしていた。阿具はゲートの兵士に敬礼を返すと由梨に向き直った。

「いつのことだ?」

「ほら。卒業式の日。京一郎が私に傘を貸してくれたじゃない」

「覚えてないな」

 阿具は素っ気なく言った。

 由梨は口を尖らせた。

「じゃ、修学旅行のことは?」

「覚えてない」

「何だか、京一郎何も覚えてないみたい」

 由梨はぽつりと言った。

 阿具は目を細めた。

「覚えてるさ」

「本当に京一郎なの?」

「どういう意味だ?」

 由梨は立ち止まった。雨はさらに強く傘を叩いた。

「私の小隊は京一郎と私以外、全滅したもん。私が思い違いをしたら誰が京一郎が私の知っている京一郎と同じだって言える?」

 阿具は振り向かなかった。由梨は唇をかんだ。

「俺が言える」

「でも、私のこと何も覚えてないの?」

「何も覚えてない訳じゃねえさ」

「そうだよね。私の予備役の時の制服姿、可愛かったもん」

「言ってろ」

「京一郎も可愛いって思ってたくせに」

「そういうことにしとくか」

 阿具は振り返って微笑んだ。由梨もにっこりと微笑んだ。

 雨音は益々強くなっていた。ほんの少し離れれば言葉も聞こえないほどに強くなっていた。由梨は何事か呟いてから、ゆっくり拳銃を阿具の背中に押し当てた。

「やっぱりキミ、京一郎じゃないんだ」

 由梨は噛み締めるようにゆっくり言った。

「なんだって?」

 阿具は銃をつきつけられたまま、ぴくりとも動かなかった。

「私、軍学卒じゃないもん。専門職雇用だからね。予備役だったこともないし。補給部隊に行くまで京一郎に会ってないよ」

「なるほどな」

「なるほど…それだけなんだ?」

 由梨は悲しそうに言った。

「否定してよ。京一郎」

 阿具は鬱陶しそうな顔をした。

「適当にお前に合わせただけだ。俺は阿具京一郎だ」

「嘘だよ。京一郎は凄くヤな奴で皆から嫌われてた。京一郎は皆を見殺しにして、逃げて。手柄が有ったように嘘ついたんだ」

「それだけで、俺が今の俺じゃないって証明になるのか?」

「メールログを見たんだ。キミがこっちに来る直前にキミから来たメール。そのメールは自己消去を行うルーチンが組まれてた、でも私、メールは全部自動的にログに複製するようにしてるんだ。だから、分かった」

 阿具は黙っていた。由梨は言葉を切って、息苦しそうに深呼吸した。

「それ。起動しないように解析したら禁止された記憶に細工するようなプログラムが組み込まれてた。本当の阿具京一郎を忘れて、京一郎は私の友達で有能なヤツだって思わせるような内容だった」

 由梨は泣きそうな顔をして唇を噛んでこらえた。

 阿具は何も言わなかった。

「姉さんとも少し話したよ。何で思い出さなかったんだろ、私に友達なんて居なかったって」

 由梨は泣いていた、涙を流したまま阿具を見ていた。

「君は阿具京一郎じゃない!阿具京一郎じゃないのよ!」

 由梨が叫んだ。

 阿具は受け流すようにゆうゆうとあくびをすると、由梨を見据えた。

「まぁこんなこと元より上手く行く訳なかったか」

 阿具は冷たい瞳で言った。由梨は少し阿具から離れた。

「お前の知ってるソイツは、辺境で死んだ」

 阿具は独り言のように抑揚の無い声で言った。

「いつも何かおかしな違和感を感じてた。思い出してみれば、なるほど。京一郎はバカで粗野で臆病者だったんだもん。キミは京一郎の真似をしてるみたいだけど、キミにはあんなプログラムを作れるくらいの知識も知性もある。特機たちもそう、キミに完全に掌握されてる」

 由梨は腕をあげて、真っ直ぐ銃を阿具の顔に向けた。

「何が目的なの?誰なの、キミ」

「俺の名前は阿具京一郎」

 阿具は厳しい顔でしっかりと言った。

「それ以外に無い」

 阿具はそう言うと背中を向けて歩き出した。

「待ちなさい!」

 由梨は叫んだ。

「余計なことに首を突っ込むな。寿命を縮めるぞ。いや、もう縮めようとしている」

 阿具は呟くように言ってそのまま雨の中へ消えていった。

 由梨は銃を構えたまま、黙っていた。ゆっくりと銃を降ろした後、由梨はうなだれて黙り込んでいた。

「わけわかんないよ」

 由梨は情けない声で呟いた。

 その時、後ろで車のブレーキの音がした。鈍い動作で由梨が振り向くと、真っ黒な車が直ぐ目の前に止まっていた。由梨は大きく目を見開いた。車からは既に三人の男が降りてきていた。車のナンバーが由梨の目に止まった。それは国務に関わる車にだけ許されるナンバーだった。

 由梨は反射的に銃を向けようとした。しかし黒づくめの大男は一瞬で間をつめると由梨の銃を平手で叩き落した。

「うぐっ!」

 逆側から着た男が、由梨のみぞおちに拳を食い込ませていた。

 倒れようとする由梨を、男が担ぎ上げた。由梨は薄れていく意識の中でついさっきの阿具の表情を思い出そうとしていた。

 

 真っ白な天井から簡素な照明が吊るされていた。

 光は目覚めたばかりの由梨には余りにも強く、由梨は目を閉じようとした。だが、身体の筋肉は言うことを聞こうとしなかった。目はうっすらと開き、口も開いていた。身体中の筋肉が弛緩しているのだと、由梨には分かった。

 おそらく薬物を投与されたのだろう、そのせいか由梨は酷い頭痛を感じていた。

 視界に黒服が姿を現した。部屋の中には物音からして十数人も人間が居るようだった。

「目が醒めたかな?志藤准尉」

 黒服が言った。由梨は何もいえなかった。もう1人黒服が現れて、由梨の目にライトを当てた。黒服はもう1人の方へ頷きかけた。

 おそらくその男が一番身分が上らしい。黒服は由梨の隣まで来ると乱暴に顎を掴んで引き上げ、首筋を自分の方へ向けた。

 黒服は銃の形をした注射器を由梨の首元に当てた。

 冷たい感触に由梨は身を固くした。プシュという空気の圧搾音がした。痛みは無かった。だが、直ぐに激しい痛みが頭を襲った。

「ひぃ…あっあああ!!あっ!」

 ベッドに激しく震える由梨の体が打ちつけられて、ベッドはガタガタと音を立てた。

 黒服は冷徹な瞳で由梨を一瞥すると、注射器から空のアンプルを抜き取ると床に投げ捨てた。ガラスは砕け散って少しの液剤がこぼれた。部屋にうっすらと甘い匂いが立ち込めた。黒服は新しいアンプルを注射器差し込んだ。

 由梨は凄まじい痛みに悲鳴をあげた。既に由梨には叫んでいるという自覚さえ無かった。ただ脳髄にナイフを突き刺されたような痛みに自分の意識が侵蝕されていくことだけが分かった。

 黒服たちは静かに由梨を見守っていた。注射器を持った男がちらりと腕時計を見やった。

「ぐっ…」

 由梨の声が突如重い響きのものに変わった。黒服は表情を変えずに、由梨に近づくと髪を掴んで顔を直ぐ傍に寄せた。

 激しい痛みは唐突に引いて、頭が灼けるように痛かった。

「苦しいだろう?」

「あぐっああ!」

「これをもう一度撃てば、苦しみは引く」

 黒服は由梨の目の前に注射器を示した。由梨は拘束された体をじたばたとさせた。

「欲しいんだろう?」

 響き渡るような声で黒服は言った。黒服はかすかな笑みを浮かべていた。

「助けて…それを早く…!」

「じゃあ、お前の情報の出所を教えて貰おう」

「う、ううーっ!」

 由梨は叫び声を上げて、荒く息を吐いた。

「苦しくて苦しくて仕方無いんだろう?言うだけで良いんだ。どうせ貴様はもうこの薬から抜けることは出来ない。一般社会に戻ることも無い、苦しみは一生続くんだ。言えば、一生この薬を投与してやろう」

「うっ…うっ」

 食いしばった由梨の口から血がこぼれた。

 由梨はかすかに口を開けた。

「何だ」

「うっ、裏切れない!あいつは!もし敵だったとしても!あいつだけはぁ!」

 由梨は精一杯の声で叫んだ。

 その瞬間、部屋の電気が一斉に消えた。

「なっ、何だ!」

 うろたえた一人が叫んだ。

「落ち着け。すぐに非常用電源に切り替わる」

 注射器を持った黒服が言うのと同時に、室内には赤い非常灯が灯った。

「直に復旧するだろうが、誰か行って様子を見て来い」

 黒服は言って、仲間たちの方を振り返った。その瞬間、黒服の目が大きく見開かれた。

「何だ…何だこれは!」

 黒服は叫んだ。

 真っ赤な灯りに照らされた室内には、真っ黒な血の染みが飛び散っていた。まるで赤いペンキ缶が爆発したかのように、血しぶきが天井から床までをぬらしていた。そして、等しく首をぱっくりと切り裂かれた黒服たちが横たわっていた。

「どうなっている!くそっ!」

 黒服は反射的に扉に向かって走った。

 だが扉のノブには鉄パイプが折り曲げて巻きつけられていて、開けることが出来なかった。

「兵士が情報局の人間を嫌いなのが、どうしてか分かるか?」

 突然した声に黒服は振り返った。一瞬黒服は部屋に何ものも見出すことは出来なかった。そして少しして、部屋の反対側の角に寄りかかるようにして立つ男を見つけた。

「兵士は、人間として死にたいと願っている。人を殺す代償として、畜生のような死に方をするかもしれない。だから、最低限の希望は生き残ることより、人間として死にたい、と」

 阿具は俯きかげんで、手元のナイフを弄んで言った。

「情報局の人間の希望は、金、権力。人を殺して得たもののことばかりで、その代償について考えていない。一番危険な場所に俺たちを行かせて、人の死について対価だけを得る」

 阿具はゆっくりと黒服を見つめた。その瞳にはいかなる感情も存在しないようだった。

「だが救いはある。兵士は最低でも兵士として死ねるが。貴様らの死に方に尊厳は無い。畜生の様に死ぬだけだ」

「御託はそれだけか」

 黒服は震える声を必死に抑えて素早く銃を抜いた。

 だが部屋の向かい側には誰も居なかった。黒服は目を大きく見開いた。そして激しい痛みが右腕を襲った。驚いた黒服が見つけたのは床に転がった自分の腕だった。

 阿具は振り抜いた大きなアーミーナイフをもういちど空中で振った。黒服の血が壁に模様を残した。

 阿具は青ざめた黒服の横顔に顔をくっつけた。

「ねえ、死ぬのは怖いかい?」

 冗談でも言うように阿具は囁いた。

「ぎゃあああ!」

 黒服は叫んで床にうずくまった。

 切り取られた腕の切断面はあまりに見事で、筋肉が収縮し血はあまり出なかった。ただ、それでも黒服のワイシャツを真っ赤に染めるだけの血が流れた。黒服は無くなった腕を抑えたままガタガタと震えた。

「なっ、何をしても無駄だ!俺は何も知らない!何も答えないぞっ!」

 黒服は泣き声で叫んだ。

「あぁ?勘違いしてるな。お前を直ぐに殺さないのは、何か聞きたいからじゃない。お前の知ってる程度のことは、俺は全部知ってる」

 阿具は気を悪くしたように、黒服を睨みつけた。

「じゃ、じゃあ、どうして!どうしてこんな酷いことするんだ!」

 黒服は今までの自分のしてきたことを投げ打って悲鳴を上げた。

 阿具は考えるように視線を泳がせた。そしてまっすぐ黒服を見つめた。

「お前を苦しめるため、さ」

 阿具は笑みを浮かべた。身の凍るような冷たい笑いだった。

「救いは来ねぇよ。前の政府の時から気に食わなかったから皆殺しにしておいた。元々、俺のことを少しでも知ってる奴が居るっていうのは、都合が悪い」

「まさか、お前は!」

 黒服はそれ以上喋ることは出来なかった。

 黒服は自分で気付かないうちに喉の丁度真ん中にナイフが突き刺さされた。

 声は出ずに、血の泡だけが口の端を汚した。

「俺はその名前が嫌いなんだよ」

 阿具は静かに言った。

 黒服は目を大きく見開いて、床に倒れた後も長い間びくびくと身体を震わせていた。

 阿具は黒服の手から拳銃を抜き取ると、由梨のところまで歩いた。

「かわいそうなコだ」

 阿具は無表情のまま、由梨の髪を撫でた。

「お…おねがい…注射を、注射をうって!」

「俺が分からないのか?由梨」

 阿具は顔を由梨の目の前に突き出した。

「きょういちろ…お願いぃ」

「駄目だ。こいつを打てば、君は死んでしまう。救いの道なんて元から無いんだ」

「おねがい」

「薬をうたれたのに、俺のことを言わなかったのは大した精神力だと思ったけど。これまで、か」

 阿具は顔を戻して、由梨を見下ろした。表情は無かった。

「おねがい、おねがい」

 由梨はうわごとの様に繰り返していた。

「すこしだけ眠るんだ由梨。すこしだけ」

 阿具は由梨の胸の上で銃口を滑らして、心臓に近い位置でぴたりと止めた。

「きょう、いち、ろ」

「巻き込んで、ごめんよ」

「大好き…京一郎」

 由梨は途切れ途切れに言った。

 阿具は表情を変えなかった。だが、ほんの少しだけ頬に熱さを感じて、阿具は自分の頬に触れて怪訝な顔をした。由梨は唇を震わせて低く息を吸い込むと口をあけた。

「だから、おねがい、注射をうって!」

 阿具の表情が一瞬すごく悲しげな顔に変わった。噛み締めた唇の端から糸のように細い血の筋が流れ落ちた。

 阿具はゆっくり目を閉じた。

 銃声が部屋の中に響いた。薬莢が床に落ちて、血の中に転がるとじゅっという音を立てた。火薬の匂い、そして銃口からかすかな煙が立ち昇った。


 次に見えたのもやはり白い天井だった。

 ただ、清潔で、かすかな消毒液の匂いのするそこは病室だとすぐに分かった。

 由梨は夢を見ていたような気がしていた。胸に鈍い痛みが有った。ただ、手で触れてみてもそこには何の傷も無かった。由梨は訳が分からずに、顔を起こした。

「由梨先生!駄目ですよ、起きちゃ!」

 横から声がした。1号機以下特機たちが心配そうな顔で由梨を見ていた。

「ここ、どこ…?」

「先生は貧血で倒れたんですよ。隊長殿が運んで、2日も寝ていたんです」

「京一郎が?」

「ええ。さっき先生が心配無いっておっしゃってました」

「そう」

 由梨は言って、再びベッドに体を沈ませた。

「私たちからのお見舞いです」

 2号機が大きな花束を由梨に手渡した。

 菊の花束には”快気祝い 由梨せんせい江”と書かれたプレートが下がっていた。

「色々つっこみたいところだけど、やめとくわ」

「賢明です」

 2号機は頷いた。

 しばらくして、特機たちは病室を出て行った。

 由梨は考えようとしたが、直ぐに睡魔が襲ってきて眠りに引き込まれていった。


 低い衝撃で体が揺れた。生暖かい血の感触が胸一杯に広がっていった。由梨は不思議と痛みを感じなかった。それが夢のせいなのか、実際にそうだったのか由梨は分からなかった。不安も無かった、それは、確かに無かった。

 体が精神の制御を離れるなら死んだ方がマシだと由梨は思っていた。或いは、自らの弱さが自分の思うより酷いのならば、ずっと後悔して生きるなら。由梨は自分が死に行く際に、ぼんやりとあの時、助けられなかった仲間と、自分が送り出した生徒たちのことを考えていた。

「死を受け入れるな。それは死ぬ要因の多きな一つだ」

 阿具は耳元で囁いた。

 それから阿具はナイフで自分の手首を切り、血の流れる手首を由梨の口に押し付けた。

 由梨は阿具が何をしているのか分からなかったが、それももうどうでも良いことだった。

 由梨の意識は途切れた。


『国家秩序維持委員会本部ビルの爆破に際して、各メディア宛てにテロリストの犯行声明が出されています。”我々は国家秩序の名を語り、徒に国状を乱す機関に制裁を加えるものである…』

 阿具はつまらなさそうにテレビを消した。

 由梨は目覚めたまま、何も言えずに薄目で阿具を見ていた。

「起きてるんだろ?」

 阿具は唐突に言った。

 由梨はしばらく躊躇ってから、

「うん」

 と答えた。

 阿具は満足そうに頷いて、にっこりと微笑んだ。

 由梨はすこし赤面してそれから表情を引き締めた。

「君、誰?何を目的にしているの?」

 由梨はしっかりとした声で訊いた。

 阿具は黙って窓の外を眺めていた。病室には人工的な光源がなく、窓の外の広葉樹がゆれると光さえさらさらという音を立てて揺れていた。

 日はもう高く、やがて昼になろうとしていた。

「俺は阿具京一郎。目的は人類の存続と仲間を守って幸せに生きること」

 それだけ言うと阿具は立ち上がった。

「まぁ、一般的な人間全部と同じ目的ってこったな」

 阿具は冗談めかして笑った。由梨はどう答えていいのかわからないで黙っていた。

「私はどうすればいいの?」

 由梨は訊いた。

 阿具は肩をすくめると、ベッドの上に一通の書簡を置いた。

「ま、お前をこれ以上ほっておくのは、危なっかしい」

 阿具はそれだけ言うと病室から出て行った。

 由梨は阿具が出て行った後で書簡を開いた。

「志藤由梨准尉、上記の者。中央方面隊第2師団第2混成団第72特科間接支援大隊第62雑役小隊、通称阿具小隊に異動を命ずる…」

 由梨は目を細めた。それから窓の外を見た。

 数本の白い飛行機雲が宇宙に向かって消えていった。由梨は深呼吸をして、目を閉じた。

「私も、仲間として守ってくれる、のかなぁ」

 由梨は呟いて、それきり黙り込んだ。

 やがて眠りがまた由梨を引き込んでいった。

 優しい、静かな眠りだった。もう由梨は悪い夢を見ることは無かった。

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