十.

 軋むような音を立てて床がしなった。

 振り抜いた拳はあかつきが座っている丁度真横の床をへこませていた。

 あかつきは微笑みと無表情の中間のような奇妙な表情のまま微動だにしない。

 俺は拳を引き抜くように持ち上げつつ吐き捨てる。


「食欲が失せちまったぜ。……吐き気がする」

「……赤鬼」


 驚く素振りもないところがさらに俺の苛立ちを駆り立てる。

 俺は乱暴にあかつきの肩を掴むと脅すように告げた。


「おいお前。俺を信用してんじゃねえよ。気を許すな、警戒しろ。こちとらお前を喰うことなんてその気になればすぐなんだよ」


 恐れろ、見縊るな、軽蔑しろ、敬遠しろ。

 俺はそういう存在なんだ。

 そうでなければならない。


「何を今更。それにそれは今言わなくてはならないことか」


 呆れたようにあかつきがそう言い、俺のことをどこか寂寞せきばくの念が込められた表情で見ている。

 俺は顔を反らした。


「機嫌を損ねてしまったのなら謝るよ」

「なぜ謝る。その意味が分かっていないのなら口だけの謝罪はやめろ。別に俺はなんとも思っていない」


 棘がある口調になっているのは自覚するが改める気はないし、改めてやる必要もないだろう。

 俺は口をきく気が失せてその場で不作法にどさりと胡座をかく。

 座敷に静寂の時が流れた。


「心残りがあるとすれば」


 そうあかつきが切り出した。沈黙に気を使ったように。


「私には今話したように、家族がいないから、本当の意味でそれを理解できなかったことだけが残念だな」


 なんだその言い方は。

 悟りきったような静かな口調をやめろ。

 まるで、これから全てが終わるのだとでも言うような。

 大団円。収束に向かう物語。

 誰も幸せにならず、どこにも到達しない幕引き。

 しかし、俺はその言葉を口に出しては言わずあかつきの口調に合わせるように静かに抑えた声で言う。


「……家族なんて俺もいた試しがないからわからん。人だったころからな」


 そう言ってふと久方ぶりに思い出した。

 俺もかつては人だったのだ。恒久の時を生きる間にすっかり忘れていたが。

 こいつと話しているとつい余計なことまで喋りすぎるようだ。


「鬼になる前は人だったのか」


 意外に思っているそぶりも見せず、あかつきは穏やかな声で何でもないことのように言う。


「ああ。どうでもいいことだからすっかり忘れていたがな」

「どうでもよくはない。それに」


 あかつきは俺の手を不意に握った。

 振り払っても良かったが俺は何となくそのままでいた。渇いてすべらかな手は、真珠を抱く貝殻の内のようだった。

 貝殻。そういえばこいつは海に行ったことがないんだなということを、思い出す。


「それに、なんだよ」


 俺が放った言葉にあかつきはやんわりと微笑んだ。


「お前は人だよ。ほら、だって見た目もそこらを歩いているおのこと変わらないではないか」


 何を馬鹿なことを。

 ハッと俺はあかつきの言葉を嘲笑う。

 知らないからそんな口をきける。

 鬼がどんなものかを。

 俺が人の肉を喰うことを、血を啜ることを、骨を囓ることを。

 知らないからそのように言える。


「だからそうだな。私がお前に人としての名をやろう」

「は?」


 突拍子もないその提案に今度は俺が呆気に取られる番だった。


「以前名がないと言っていただろう。赤鬼というのはただの呼び方だしな。よし、決めたぞ。私がとびきり格好いいのを考えてやるから待っていろよ」


 そう言って張り切ったようにあかつきは顎に手を当て名前とやらを考えているのだろう、思案気な表情をする。

 付き合ってられん。

 そう思い、俺は未だ握ったままの手を解くと立ち上がる。


「赤鬼」

「なんだよ」

「私は今まで十分に生きた。外には出られなかったがこの座敷の内から四季や空の移ろいを何度も見る事ができたし、読み本の中で外の世界も知ることができた。飢えることもなく、貧することも知らずに、今まで生きてきた。我ながら贅沢な時を過ごしたと思うものよ」


 違う。こいつは何を言ってやがる。

 十分だって?そんなわけないだろ。

 そんなことは贅沢でも、当たり前のことですらもない。

 俺は静かな怒りを覚えて口を挟もうとする。だが、次に放たれた言葉で一気に息が詰まった。


「それに、お前という得がたい友人も得られたことだしな。お前が以前にくれた読み本、面白かったぞ。ありがとう」

「……っ」


 俺は出かかかった言葉を飲み込み、唇をギリッと噛みしめる。

 なんだそれは。

 お前はそれで本当に満足だとでも。

 それで本当に十分だとでも言うつもりなのか。


「……お前は、本当わけわかんねえよ」


 背を向けたままあかつきにそう言ってから続ける。


「……気に入らんな。この村の人間の態度も目つきも、お前の俺に対する接し方も何もかもが気にくわねえぜ」


 そう一人ごちるとあかつきは静かな口調で返してきた。


「そうか。そうやっていつもお前は世の中に対して怒っているんだな」


 その全てを理解したような澄みきった表情にさらに神経が逆撫でされる。

 わかったような口をきくな。

 わかったふりをするな。

 同情するな憐れむな共感するな。

 俺が本当に欲しいのは……。

 俺が、本当に欲しいもの。

 求めるもの。

 そんなものはもうずっと前から……。

 俺は戸口に向かって歩みを進める。


「西の森だな」


 そう呟く。


「村人が頻繁にそこに出入りしていた。この村から見て西の森。そこに神は祀られているんだろう。気に食わんから俺が直接出向いて叩き潰してやる」

「赤鬼」


 背後から声がかかって俺は振り向く。


「やめろ。……西の森には行くな」


 心なしかあかつきの声は震えていた。

 顔色は青く唇をわななかせている。何ものにも動じないようないつもの飄々ひょうひょうとした態度が消え失せていた。


「それは頼み事か。だとしても聞けんな」


 俺は冷めた口調でそう言うと、再度背を向けて座敷を出た。

 あかつきが何かを恐れているのはそれこそ見て取るようにわかったが。

 そんな姿を俺は見ていたくない。

 最初からそれだけで理由は足りていたのだ。

 何を遠慮する必要がある。

 何を躊躇ちゅうちょする必要がある。

 俺らしくもない。

 欲しければ奪い、逆らえば力で抑えつける。そんな当たり前のことをこの頃忘れていた。

 俺の気分だけで理由は十分だ。

 何もかもが気に入らない。それだけで。

 神とやらにすがって安穏としている村人のやわさも。

 俺を恐れないほど気丈なあいつを、あかつきを脅えさせる神とやらも。

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