天使の生まれた夜/6

 ――ぐらあ――と、外に出た紗羅は昼の陽射しに揺さぶられる。

「気のせいだ。そう思ってしまえ」

 薫は、紗羅の細い背中を片手で軽く支える。

「眩暈なんて気のせい。しっかと踏みしめ、気を確かに。平衡感覚は取れている。足を前へ」

 二人は庭を通って屋敷の裏へと歩いていた。外に出た途端に、紗羅の視界はぼやけて不確かなものとなっている。虚脱感が紗羅を襲う。

「地面は平ら。光は程良い。躰は真っ直ぐ。風が心地良い。ただ夜より明るいだけ」

 耳元で囁くように、薫は紗羅に云い聞かせる。それは気休め程度の暗示にもならなかったが、それでも紗羅の不確かさは、少なくとも支えられれば歩く事の出来るくらいに和らいでいた。

 彼女の足取りはさながら、病人の呈だった。

 屋敷の影に覆われた裏口には、紺色のミニワゴンが停められている。そこかしこに傷が付き泥の跳ねたその車の後部座席に、紗羅は寝かされた。

「……外は厭ね。昼の日中は特に。夜じゃ駄目だったのかしら」

 弱り切った調子で紗羅は運転席の薫を非難する。

「人間は普通、昼に動くものだ。それに、君がそこまで陽の光に弱いだなんて私も思ってなかったもの」

 屋敷の裏口は車が余裕をもって通り抜けるくらいに広かった。塀は崩れて、門扉は開け放されたままだからだった。打ち捨てられた出入り口の有様だった。

「君、そんな服で良かったの? もう少しくらい飾り気があっても似合いそうなのに」

 紗羅は、上から下まで、全き黒色に身を包んでいた。地下室で適当に見繕った結果、無地のパーカーにスキニー、革靴、どれもが極端なまでに地味で装飾が無いものばかりを選んでいたのだった。地下室の人形は、マネキンのように多種多様な服を着ていたのだったが、紗羅はその中でも動きやすさと自らに対するある種の優しさを以てその服を選んだ。黒色は、紗羅にとってごく自然に思える色だった。

「眩しく無い服が良いの。どうせなら、ラクな方が良いわ」

「そうか。私からすれば勿体無いが、いや、君の勝手だろうね」

 惜し気な薫に紗羅は一瞥をくれる。

「……何よ」

 街中は熱されて光っていた。空は晴れわたっており、雨の降る気配は微塵も無い。陰りを欲して紗羅は頻繁に寝返りを打っていたが、陽の光からは逃れられなかった。薫の額には汗が浮かんでいる。助手席には紫色の分厚い布に巻かれた筒が立て掛けられていた。その筒は薫が予めこの車に持ち込んでいた物だったが、紗羅はそれが自分の刀であると漠然と知っていた。

「ねえ、薫、だっけ。レイギシって何」

 車は、少し動いては止まっていた。紗羅にとって窓の外は変わらず不愉快で、どんな話題でも気を紛らわしておければ良かった。そこで彼女はいっとう質したいことを薫にぶつけた。頭には地下室で目にした人形たちが浮かんでいた。ヒトのカタチを模した、決して動く事の無い『姉たち』である。

 予期していたかのように、薫は滔々と語った。

「幽霊の霊に、義手の義、それから四肢とか、肢体――ニクヅキの、カラダを意味する肢。これらを並べて、霊義肢と読む。元は人間の肉体を補う為のモノとして造られた人工の躰、つまり義手とか義足のようなモノだね。

 君は、そのカラダ総てを、その霊義肢で補っている。即ち、全身霊義肢」

「……難しいのね、貴女の説明って」

 後悔したかのように紗羅はぼやく。彼女は身を預けたシートの微妙な柔らかさを知っている。だが、その肌触りが自らのものであるとは感じられない。自分のものでは無いかのような、無機質な全身である。

「それにしても、君は驚かないのか。言葉で説明するのは容易いけれど、こんなモノ、常識外れも大概な代物だと思うがね」

「自分の躰の事だもの。幾らオカルトでもカラダの中を歯車の音が伝うのだから。真偽を疑う気にもならないわ。あたしにとっては、コレがどんな来歴であろうと関係無い」

「やれやれ、とんだ捻くれ者を拾ってしまったかな、私」

 ……余計な躰。口にはしなかったが、そう思っていた。死んだらしい記憶は無くとも、死んだ事は解っている。だが、今、車で揺られて会話をしているのも、また事実である。彼女は素直に事実を呑み込んでいた。

「変ね、常識から考えられない事も解るのに。でも馴染んでしまっているわ。」

 だからこそ、この躰が尋常ならざる理屈で動いていると理解出来る。夜の異形を前にしようとも驚く事を知らない。そも、驚きそのものに紗羅は無頓着であった。

「でも、あたしはこの躰が偽物だってコトも知っている。実感の無い躰、まるでハリボテよ」

 薫は苦笑いを浮かべた。

「ハリボテ呼ばわりとは失礼な。全身霊義肢は希少な存在なんだ。その上、蘇生して動いているとなれば君以外に在り得ない。殆ど奇跡的なバランスを保っている。

 しかし、生身には及ばない。私の手入れ無しでは、十中八九、数日で霊素が尽きて死んでしまうだろうね。たとえ、傷ひとつ無くとも、眠るようにして」

「霊素?」

「命を命たらしめているモノ。それが霊素だ。幾らカラダが無事であろうと、霊素があって初めて命が伴う。生きとし生けるもの総てには霊素が宿っている。

 ――ところが、君の場合、その霊素が漏れ出してしまっている。人工の躰は未だに生身を超えられない。穴の開いた壺のように、入れ物としては欠陥品と云わざるを得ないのが現実なの」

 饒舌な薫だったが、それは紗羅があまり口を挟まないからでもあった。訊いておきながら、既に興味が薄れていた。

「つまりこうね。貴女は、あたしをその欠陥品の躰に閉じ込めた」

 ひと息ついたところで、紗羅は端的に纏めた。

「閉じ込めたとは心外だね。生き返れたのは、君の云う欠陥品のおかげだろうに。

 実のところ君が勝手にその躰へと入り込んだんだ。そんな記憶は無いんだろうけどね。恐らく、あの場で肉体が死に直面したとき、代わりの肉体を求めて、君の霊素がその躰に入り込んだ。壊されたカラダから、空っぽのカラダへと乗り移ったんだろう」

 あの場って、と紗羅は訊こうとして、止める。確たる記憶は無かったが、然し彼女にとって『あの場』の正体が酷くざわつかせるイメージを明滅させているのであった。それは朱と銀と黒とが混ざり蠢く瞬きである。記憶の断片ですら無く、粉々に分解されてしまった後に残った粒子たちのような、不明の光景だった。死に纏わる記憶だからかもしれなかったが、彼女は自身の感情の理由を探ろうとはしなかった。

「……死んだ、か。あたし、誰」

 口調は平坦。エンジン音に消されてしまいそうな小声だったが、薫の耳には届いている。

「さて。君が誰だったのか、私も解らない。思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない」

 飄々としながら――薫はこの時、言外でこう考えていた――この誰かは、少なくとも尋常の人間では無い。であれば元は此方側の世界に生きる霊能者だったのだろう。覚えていたのならば問い詰めれば良いだけだが、そうでないなら、自分でこの迷い仔の出自を調べる他無い。大きな手応えを感じる。自分一人の手には負えないような大事が動いている。死んだ人間の代わりとしての全身霊義肢は、漸く此処で完成をみたのだから。

 それきり、二人の間には沈黙が横たわった。非日常を隠してワゴン車は静かに走った。ごく普通に車の流れの中に溶け込み、そして溶け込み過ぎた彼女たちを見とめる者はいなかった。薫は、或る目的地へ向けて紗羅を運ぶ。

 紗羅の思考は一向に前進しなかった。問い質すべき事は他にも大量にあった。昨夜の雨の中で触れ、斬り、呑み込まれる寸前であったあの化け物の正体は何か。一昨日の未明に病院の屋上へと降り立った、白い、天使のようなアレは何か。そして、これから自らがどうなるのか。

 あの妖たちこそ初めて眼にしたが、紗羅はあのような異形が確かに存在しているコトを、これも漠然と知っていた。視え、触れるコトが適う存在であると。仔細には解らずとも、常人には認識出来ないモノたちが存在していると知っていた。

 午後三時を回った頃だった。黒ずんだ木造家屋が並ぶ狭苦しい道端に車は停められた

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