微睡の白/9

 肥りきった妖を狩った後、あたしは変わり果ててしまった枯木を見た。

 妖そのモノは掻き消えた。跡形も無く消え去った極彩色のヴェールと花は、すっかり寂しくなった枯木の佇まいと、そのヴェールがひた隠しにしていたモノたちを浮かび上がらせる。

 ――枯木に、死体が生っている。

 雑木林のなかひとつだけ立ち枯れた木に、何体もの首を吊った死体がぶら下がっている光景はひたすらに異様だ。

 見た目からして、死体たちは既にとっくに死んでいた事を主張していた。命は無く、ただの肉の塊が思い思いのロープから垂れ下がっているだけ。隠されていた腐臭が漂う。

 玲瓏な月の光に濡らされているみたい。

 もうこの場所に用は無かった。黒のフードを被って霊刀を背負い直す。

 右腕は激痛を伝えてくる。不知火に焼かれた時よりも酷い。気を許せば、捻じられて皮膚が突き破られた関節たちの悲鳴に頭がおかしくなってしまいそうだ。正気でいる為に取り外した霊義眼は左手のなかだった。痛みを実感では無く情報として認識する。鋭利な牙が突き立てられ齧り尽されようとしているかのような痛みの原因が、激烈な損傷が右腕にある事を知っている。それだけで良い。

 腐臭に塗れた硝子のような霊素を吸収して、飢えも渇きも収まった今、一刻も早く屋敷に帰って傷を直さなければいけない。砕いた関節が不安定に揺れて、傷口からは蒼白い霞になって霊素が滲み出ているのだった。なるべく壊れないようにと思っていながらこの結果、無様と自嘲しても収まらない。書斎の戸棚からエクリクルムと包帯を拝借して、怪しげな外科医の真似事をするしかなさそうだった。元通りに機能を戻すコトは出来なくても、傷口を塞ぐコトくらいは出来ると思いたい。

 夜風が、尋常ならざる悲鳴を運んできた。甲高いその悲鳴は、物音ひとつ無い夜に長々と尾を引いた。方角からして枯木に吊られた死体たちに出くわしたのだと思えた。さしずめ、今夜の犠牲者になるはずだったヒトなのだろう。何度も何度も、短い悲鳴があがっては消えた。悲鳴はひとりだけの筈なのに、幾つもの声が重なって聞こえた。其れは実際の空気の震えでは無かった。音では無い声が、あたしには聞こえる。締まった喉から絞り出される重苦しい声たちが。其れは、あたしの躰の裡から、傷口から。

 ……煩い。傷が喋っている。

 綺麗な光だった。見えた足は落葉から離れている。緋色と藍色が交差して、黄金が白濁して空色と橙が交差する。四肢の感覚が潰されて柔らかい硝子に変換される。腕が落ちる。支えは顎の下へと集中して、交差した景色が弾けて牙を剥く。銀と蒼が弾けた景色を裂く。桃色と臙脂色が回転する。

 蝶か蛾かを誘うように甘ったるく匂っていた。いつか見たコトのある夢の姿。其れは稀釈された腐臭が歪められたモノに過ぎない。ひたすら妄想と同じ現。

 解っていても蠱惑的に思えるものなのだった。飢えた躰が、意識よりも先に脚を操った。腕が背負われた霊刀を抜いていた。目の前で首を吊ったばかりの人間が、ふわりと宙に立っていた。その眼は既に何も映してはいなかった。身体が極彩色のヴェールに撫でられ弄ばれていた。枯木には、たわわに肉体が生っていた。巧妙に隠すそのヴェールが彩りながらも、僅かに透けているその奥に、あの花が艶めかしく淑やかに咲いていた。こちらを手招く緋色のヴェールに向かってあたしは斬り込んだ……。

 霊義眼が手の中で柔らかく蠢く。眼窩へと飛び込みたいのだ、この眼球は。誰の願いかも解らないままに。あたしはそんなコトを微塵も考えていないのに。

「煩い……煩い……黙れ。喚くな、それ以上叫ばないで……お願い」

 苦悶が聞こえる。言葉以上の苦悶の声。意味をなさない音の連なり。

 お前だ。今はお前に殺されたのだ。お前の飢えと渇きの為に――。

 からん、と音がした。見れば、地面に小指ほどの螺子が落ちている。くすんだ朱色に塗れた其れに続いて、あたしの手首から同じような螺子が落ちた。何処かを留めていた螺子が落ちて、右手が途端に重くなった。支えのひとつを無くしてしまったみたいだった。拾いあげると、今度は肩から金属性の骨のような棒が覗いてつっかえる。途中で断たれてしまったその金属を左手で押し込むと、肘から白い塊が垂れ下がった。

 立ち止まっていた。気が付けば、膝をついている。世界が軋む。違う、違う。これはあたしの頭のなかだけの音。軋むのは幻想。情報。だから嘘だ。嘘なのだ、知らない、軋んでいるコトなんか知らない。

「痛いか」

 声が降ってくる。冷たくて抑揚の無い、細い声だった。誰かを確認しようにも頭が上がらない。顔が地面に射止められてしまっている。夜空とアスファルトが融合する。そのなかで星のような声が降ってくる。

「診せろ、楽にしてやる。――白羽、だったな、今の貴女は」

 悲鳴を掻き分けるその声はあたしの右腕を持ち上げる。また細かな部品たちが落下する音がした。しかし昏い視界では何も視えない。地響きのような音が迫ってきた。その音はあたしの頭のなかを駆けめぐって支配する。死体がゆらり、ゆらり。ヴェールに巻き付かれて妖の牙に噛み千切られていた。滴る血潮をヴェールがぬぐって掬い、花に注がれる。死体が折り曲げられて丸呑みにされている。ヴェールがあたしを誘う。鈴なりになった首吊りたちが手を伸ばす。その手はあたしに向けられる。

「意識を向けるな。狂気に連れ込まれるぞ。私を見ろ、幻に惑わされるな」

 淡々と、けれど力強い声。その声に一瞬遅れて、大きな力が肩に加わった。鉄の塊で殴られたみたいな衝撃だった。極彩色にかき抱かれて瞳に憎悪を宿した死体が灰となって崩れる。ヴェールがほどけて花は無残にも枯れてしまった。

「私を見ろ。その眼で見ろ」

 固く握り込んだ左手に、冷たくて細い感触が侵入する。曲げた指が一本一本、爪をたてた掌から剥がされた。開ききった左手からはゼリーの感触がして、躰は思うがままに息を吸い込む。いつからか呼吸を止めていたことを、吸い込んだ空気が胸を打って知らせた。

 視界はアスファルトでいっぱいになっている。けれど、もう一つの視界が頭のなかに広がった――ぼやけた姿が夜空を背景にしてあたしの腕を弄っている。折れた骨と外れた関節を、外側から的確に戻しているのだった。その力は凡そ人間のそれでは無かったけれども、紛れもなく姿は人間だった。

「そうだ、それで良い。喰らった霊素に呑まれるな。自分の意識をしっかり保て。喰われる前に喰らえ。お前はそうでしか生きられないだろうに」

 その人はどこからか鋭く光る刃を取り出していた。キリリと壊れた肘に押し込まれるその刃が使いモノにならなくなった歯車と欠片を取り除く。零れた義肢の中身が、詰め物をするかのように押し込まれた。最後に手首を捻られる。半回転してあるべき壱に戻った手首の関節が嵌り込む。偽物の肉に偽物の折れた骨が突き刺さった。傷口からはみ出したモノがぬぐわれるようにして刃で切り落とされた。

 世界の軋みが収まってゆく。

「喰われた人間に同情するな。記憶と思念はそう簡単に消えはしないのだから。気を許せば妖に意識を喰らわれるだけだ。そうして餌食になれば妖を肥えさせる。お前が狩った奴もそうやって人間を喰らっていたのだろう。何人も何人も、その綻びに付け込むかのようにして。奴らがこちらを喰らうなら、奴らを狩る他に生きる術は無い。喰われて死んだ人間のコトに構うな」

 懐から取り出された何かが、あたしの傷口を覆うようにして貼りつけられた。包帯のようでいて、ざらりとした感じは布のそれでは無かった。関節ひとつひとつ、縦横に其れは貼りつけられて傷を塞いだ。そしてその人は手にした刃を自らの手首に走らせる。まもなくして、熱を帯びた血が覆われた傷口に滴った。躰の感覚が元に戻り始める。痛みの認識がゆったりと落ち着いてゆく。空に押さえつけられていたかのような不自由さが無くなってゆく。視界がはっきりとする。と、同じくして、霊義眼から伝わる仮初の現実が暗転し視界が正しく一つの視界だけになる。

「お前が喰らったのは妖だ、余計なコトを気に病むなよ」

 未だに動けはしないあたしを置いて、その人は足音も無く立ち去った。明け方になれば消えてしまう蒼の霞のようにして気配が自然と遠ざかってゆくことだけを、あたしは認識していた。

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