第三章 デートへ行きましょう 3


 電車を降り、再び改札を通っても、彼女ののろいは終わらなかった。未だ例のマークがしるされている。そこでひとつ、やまぶきさんに異変が起きていた。


 駅から学校までの道中だ。さっきまで元気だったやまぶきさんは、なぜか口数が減り、まっすぐに前を見つめて歩いていた。その割に歩みがおそい。


 先ほど改札を通るのに手こずったこともあり、ゆうのあった登校時間は今やギリギリになっていた。

 このまま行けばこくはしないが、ゆうだってない。すでに周りには生徒の姿もなかった。


 彼女がだまんでしまうと、こちらも声をけづらくなってしまう。おもめた表情だからだ。たがいに口を開くこともなく、ただたんたんとふたりで歩いていく。


あおくん。今、何時かしら」


 だまって歩いていると、彼女が突然そうたずねてきた。こくの心配だろうか。答えると、彼女は苦虫をつぶした表情になる。


 時間はまだだいじようなのだが、どうしたのだろう。歩いているうちに学校のしきないには入っていて、こくの心配はほとんどないはずだけれど。


 チャイムが聞こえてくる。だが、まだれいだ。歩く速度はますますおそくなっていたけれど、間に合いそうではある。


「……ごめん、あおくん。お願い」


 ばこの前で言われたときは何のことかわからなかったが、くつだ。前と同じく、えさせてくれ、とたのまれているのだ。大人しく従う。


 まぶしいほどに白い足やスカートのすぐ下にひざまずくのは変わらないはずなのに、全くドキドキしなかった。


 それというのも、彼女の表情がそれをさせてくれなかったのだ。あまりにも表情が険しい。ぼくかたに置かれた手にも力が入っている。


 なぜそこまで力んでいるのかはわからないが、彼女は何かと戦っていた。ぼくには見えない何かと。


 れいが鳴っていることもあり、しようこうぐちろうに生徒の姿はない。静かなものだ。


 そのおかげで女子のくつえさせる、というおかしなシーンは見られなかったが、あせりは覚える。時間がない。早く教室に入ってしまいたい。


 だというのに、やまぶきさんの足取りはさらにぎゆうじみたものになり、しまいにはふらついてかべに手をいてしまった。そこでようやく気付いた。やまぶきさんは、体調が悪いのではないだろうか。


 ぼくあわててる。しかし、彼女はバッとぼくの前に手のひらを差し出すと、「さ、さわらないで……、らさないで……」と息も絶え絶えに言った。


「だ、だいじようやまぶきさん。体調悪かったの? ごめん、気が付かなかった。保健室行ける?」


ちがうの、そうじゃないの……」


 やまぶきさんは顔をせながら、うめくように言う。ちがうのか。なら、なんだというのだろう。ぼくちゆうはんに両手を彼女に向けながら、何もできずにおろおろしていた。


 そこでようやく彼女は顔を上げる。その表情は悲痛にゆがんでいた。この世に絶望していると言ってもいい。目をうるませながら、「どうしよう……」と消え入りそうな声で言う。一体何だというのだろう。その表情にぼくはこれ以上ないほどの危機感を覚える。


 そして、彼女はゆっくりとその原因を口にした。


「……トイレ……、行きたい……」


「………………」


 行きなよ。


 かたの力が一気にける。なんだ、そんなことか。心配してそんをした。トイレがどこにもないじようきようならまだしも、数歩ほど歩けばすぐトイレへ辿たどく。簡単に危機はかいできる。


 もしかして、彼女はずっとトイレをまんしていたんだろうか。駅にもトイレはあっただろうし、学校へ来るちゆうにコンビニもあっただろうに。女の子の考えることはよくわからない。


 ぼくが半ばあきれながら、「行けばいいじゃない」と言うと、思い切りにらまれてしまった。そのはくりよくにたじろぐ。「行けるならとっくに行ってる!」とえるように言われてしまった。どういうことだ。


 ぼくがいつまで経っても理解しないことをさとると、やまぶきさんはなみだかべながら自分のほおを指差した。


「……あ」


 そこにえがかれているのはハートのマーク。〝かんしようのろい〟の証明である。そこでようやく、ぼくにも事態がめた。彼女は物にれられない。トイレだって行けない。


 あせしてくる。想像以上の危機的じようきようをぶつけられて、くずちそうになった。


 もし自分がトイレをまんしていて、それが限界に達していて。いつものように小便器に立つものの、ベルトもチャックも手がどおりしていくのである。いくらジタバタしても。

 あしみしながら、ただただ小便器の前で半べそをかく自分を想像した。



 ごくである。


 そのごくを彼女は体験中なわけだ。ぼくは声をあらげる。


「時間は!? はるは確か、のろいは二時間程度だって言ってた! くしゃみしてから、どれくらい経つ!?」


「多めに見積もって、一時間半くらい……。あと三十分はあるわね……」


「三十分……」


 やまぶきさんはかべに頭をけて、うふふ……、と消え入りそうな笑みをかべている。どう見ても、三十分は持ちそうにもない。ようやく合点がいった。


 彼女はずっとトイレをまんしていたから、道中あんな様子だったのだ。あのせまる表情を思い出すと、今がどれだけまんした結果なのかがよくわかる。


 もう限界の限界だからこそ、彼女の足はついに止まってしまったわけだ。しかし、あきらめるわけにはいかないだろう。まんが無理ならもう出すしかない。


 ぼくがそれを伝えると、彼女はカッと目を見開き、「トイレのドアも自分で開けられないのに!?」と声をあらげた。


「と、トイレにいる人にドアを開けてもらうとか……」


「ドアを開けてもらうだけじゃダメなの! わたしは今、下着を下ろすことも、トイレットペーパーにれることも、水を流すこともできないんだから!」


「……たのんで下着を下ろしてもらうとか」


「バッカじゃないの!? 事情を知らない人からしたら、とんだド変態じゃない!」


 やまぶきさんにガーッとられて、何も言えなくなってしまう。そもそも、ぼくが今思いつくようなことならやまぶきさんもとっくに考え付いていて、その上で解決策がないのだから今こうしているわけだ。大ピンチなわけだ。


 やまぶきさんはもうていかんの段階に入ってしまっているのか、「高校生にもなって……、やだ、もぉ……」とマジ泣きしている。


 どうすればいい。どうすれば……。ぼくが何とか解決策を得ようと、頭の中でフル回転させていると、やまぶきさんの「事情を知らない人からしたら」という言葉がかった。のろいの件を知らない人からすれば、トイレを手伝って、という要求はあまりにアレすぎる。


 しかし、事情を知っている人ならば。はるにはたよるなと言われている。けれど、事情を知る者はここにひとりいる。


「……やまぶきさん」


「なに……」


 ほろほろと泣いているやまぶきさんに、ぼくはできるだけ静かに告げる。


ぼくなら、君を手伝える」


 ぼくがそう言うと、やまぶきさんはきょとんとした顔でぼくを見つめていた。しかし、ぼくの言葉の意味を呑みむと、見る見るうちに顔を赤くさせて、けむりが出そうなほどの顔色で「はぁ──ッ!?」とさけんだ。


「な、なにを、何を言っちゃってるのよ、あなたは! 自分が何を言っているかわかってるの!?」


「わかってるって! つうの高校生ならこんなこと言わない! でもはるもほかの人にも手を借りられない今、手伝えるのはぼくしかいないじゃないか!」


「で、でも、でもでもでも! 全部やってもらえって!? パンツを下ろすところから処理するところまで、何から何まで!? 男の子相手に!? 無理に決まっているじゃないッ!」


「でもこのままだと君は! 学校でらしてしまうんだろ!?」


 言葉を重ねて無理だと声をあらげる彼女に、どうしようもない事実をたたきつける。やまぶきさんはうっと声をまらせて、かべに手をいた。目線は地面を向いている。


 顔をこれ以上ないほど赤くしながら、「でも、そんなの……、そんなのって……っ!」と究極のせんたくを前にふるえている。顔を手でかくしながら、目をぐるぐると回している。

 かつとうが伝わってくるようだ。ううううー……、とうなごえを上げている。


 しかし、それがやんだかと思うと、軽く首をって、彼女はぼくに目を向けた。


「ご、ごめん、あおくん。せっかくあおくんが親切に言ってくれているのに、わたしは自分のことばっかりで。あおくんもトイレの処理なんてきたない役、絶対したくないだろうに……」


「いや、ぼくはぜんぜん構わないけど……」


「え?」


「え?」


「え? じゃないですよ、このどすけべどもが」


 突然かいにゆうしてきた声に、ぼくたちの身体が同時にびくっとなる。さすがにこのパターンにも慣れてきたが、おどろかないのは難しい。声の主はサポート役の少女。いつからそこにいたのか、はるぼくたちのすぐそばで、無表情な目をぼくらに向けていた。


「さすがにこれ以上は青春とはちがった別の何かなので、ここらで止めさせていただきます。さぁ、あかさん。トイレなら、わたしが付き合いますから」


「え、でも……」


 はるがやってきてくれたのはよかったけれど、やまぶきさんの表情はかないままだった。


 もじもじとしながら、手をぎゅっとにぎりしめている。その顔はいまだ赤い。はるの顔を見ながらも、つらそうにひとみらしている。


 それを見て、はるは「だいじようですよ」と口を開いた。


「わたしはのろいのせいれいですから。人間のそういうものがきたない、といった感情もありません。何ひとつていこうもありません。問題なく処理いたしますから、何なりと申し付けてくれればいいんですよ」


「そ、そう……?」


 安心させるように言うはるの声に、やまぶきさんの表情がやわらいだ。確かにそう言ってもらえるなら、心はいくばくか軽くなりそうだ。あとは自分のしゆうしんだいか。


 とはいえ、はるは同性であるし、「ていこうがない」と言ってくれるのなら、やまぶきさんも多少は気が楽なのではないだろうか。そのしように、さっきまでのせつまった表情は消えていて、はるに対して口元をゆるめていた。


 ほおはまだ赤く染まり、ひとみほのかにうるんでいる。それどころか、息があらい気さえした。いや、ちょっと待って。


「……なんでちょっとうれしそうなの、やまぶきさん」


「は、はぁ!? わたしがうれしそう!? はるにトイレの世話をしてもらうことが!? バカ言わないでよっ!」


 そうは言うが、顔がにやけている。みような興奮を覚えているのが見て取れる。どういうつもりなんだ。変なものに目覚めないといいけど……。


 結局、やまぶきさんははるといっしょにトイレへと入っていった。変な心配はあるけれど、ぼくはもうかいにゆうできない。できるわけがない。彼女たちの背中を見送ってから、ひとり教室へ向かった。


「おお。今日はおそかったな、いちろう


 自分の席にこしけると、前の席のつばさが声をけてくる。背もたれに身体を預けたまま、こちらを見上げる形で。幼い顔立ちがより幼く見えた。


 あいまいな返事をしながら、ぼくはそっとやまぶきさんの机に目を向ける。机のかばんけにかばんかっており、机の上には一時間目の用意がぎよう良く並んでいた。あれなら安心だ。


 一時間目が始まってしばらくすれば、二時間が経過してのろいが消えるだろう。はるの細やかなフォローに感心する。


「…………」


 ぼくは、上手くやれているだろうか。彼女の力になれているだろうか。やまぶきさんのとなりに、いてもいいのだろうか。


 ほんれいひびころあわただしくやまぶきさんとはるが教室へ入ってきた。|


 はるは無表情で大きな三つ編みをらしているが、やまぶきさんのほおは赤い。クラスメイトにおそかったね、と言われ、彼女もまたあいまいな笑みを返していた。

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