学園×クトゥルフ ~The Absolute Time~

香椎一輝

第一章 虚ろなる夢

第1話 悪夢ノ始マリ


 ああ、またこの夢か。


 黒河くろかわつかさは夢の中特有の、独特な浮遊感を感じながら辟易した。


 周囲には巨大な樹木が立ち並び、枝葉の間から覗く空は朱色に染まっている。黄昏の原生林といった景色の中に、ぽっかりと、まるで墨を垂らしたように黒々とした球状の空間が存在していた。

 その球体はまるで、黒い光を放っているかのように放射状に影を生み出し、中心に近づくほどに影はより黒く濃くなっていった。

 

 吸い寄せられているのか。あるいは自分の意志で進んでいるのかは定かではないが、司は少しずつその黒い球体の中心へと近づいている。

 そのことを認識するとすぐに、司の中にあるもう一つの意識――潜在意識のようなもの――が警告を発した。


 やめろ。それ以上近づくな。触ってはいけない。知ってはいけない。それに気づいてはならない。

 

 背筋を氷塊でなぞられるような悪寒を感じ、司は前に進もうとする体の動きを止めようと必死に意志を働かせた。

 だが体は司の意志に反し――いや、前に進もうとする無意識が、止まろうとする意志を上回っているのか――その動きを止めることはなかった。


 やめろ。止まれ。

 まるで底のない沼の中でもがくように、司は必死に自らの体に静止を命じた。

 これはいつもと同じ夢の景色。そして普段ならここで目が覚めるはずだった。

 だが今日に限ってはまだ夢から覚める様子はなく、司はまだ影の中心へ向かって夢路の歩を進めていた。

 背筋を這っていた悪寒は次第に息苦しい焦燥に変わる。司は今度こそその歩みを止めるため、自分の手足に意識を集中させた。

 そのとき、自分の体に対して感じていた違和感に気づき司は息を飲んだ。


 ――足が、ない……いや、足じゃない!?


 司の体を進めていたもの、本来足があるべきそこには、鈍重とした胴体――芋虫やナマコをでたらめに大きくしたような、不定形の肉塊がそこにあった。

 その胴体は全体を波打たせることで地を這いずりながら、下部に生えている無数の突起のような器官を動かすことで前に進む動きの補助、調整をしていた。自分の体の一部だから、どう動かしているのかは感覚で分かった。


 この体は今、いったいどうなっているのだろうか。込み上げてくる吐き気を抑えながら、自分の腕――なぜか3本分の感覚がある――を目の前に伸ばす。

 だが視界に入ったのは腕ではなく、骨格のない触手のような器官だった。


 植物の蔦のようにも見えるそれは、先端に半球状のものが二つクチバシのような形で取りつけられていた。それが2本。そして、先端に複数のラッパのような形状の器官がついているものが、もう1本――




「うわぁぁあー!!」


 普段はあまり発することのないようなわかりやすい悲鳴を上げながら、黒川司は布団を跳ね除けて目を覚ました。

 夢の中でさんざんもがいていたせいなのか、体は汗だくになっていて喉はカラカラに乾いていた。

 枕元にある時計は午前6時15分を指し示している。設定していたアラームが鳴り出すよりも少し早い時間だった。


「また、か……。まったく、なんだってこんな日に」


 こんな日というのは、今日は司にとっての高校生活の最初の一日、入学式の日だった。

 司は過去に何度もこれと同じ夢を見てきたが、今朝に限ってはいつもより長く感じた。体感では最長記録である。


 そして今朝の夢の内容は、いつも以上に司を陰鬱な気持ちにさせた。なにせ、別の生き物に変わった自身の姿を目にしてしまったのだ。

 以前から夢の中での自身の体には違和感を感じてはいたが、この目ではっきりとそれを見たのは今回が初めてだった。

 少なくとも、新生活らしい清々しい朝だとは言いがたい。


 まあともかくだ、と司は頭を切り換える。

 深呼吸をして伸びをしてから、カーテンを開けて柔らかな春の日差しを部屋の中に招き入れる。そして洗面所に備えてある電動式の歯ブラシをくわえると、部屋の水槽を覗き込んだ。


 ――気にしててもしょうがない、か


 水槽の中でゆったりと泳ぐ熱帯魚たちを眺めながら、司は空いている方の手で縦長のケースから餌を取り出す。パリパリと乾燥したかつお節のような手触りで、それでいて多彩な色を持つ餌だ。司はそれを手で小さく砕いてから、指をこすり合わせるようにして水槽にパラパラと降りかけた。

 すると、背の部分が美しく青色に輝くネオンテトラ、体の側面中央に走る赤いラインが印象的な素早さとタフさでも評判のラスボラといった熱帯魚たちが餌をもとめて水面に集まる。

 脇にあるもう一つの小さめの水槽には、色とりどりのヒレを持つ可憐な(でも実は荒々しい)グッピーたちが食事の催促をして水面に泡を立てていた。


 アクアリウムは司の数少ない趣味の一つだ。もちろん専門的にやってる人に比べたらずいぶんと知識も浅いものだとは思うが、こうして鮮やかな色彩の熱帯魚を眺めたり、水槽の飾り付けを考えたりする時間が司は好きだった。


 そうだ、気にすることはない。今朝の夢が普段より少し長かったのも、新生活を記念してのスペシャル番組みたいなものだろう。

 不安と呼ぶほどのものでもないが、なんとも晴れない胸のわだかまりのようなものを、心の中でジョークを言って押し流す。

 顔を洗い、少し体をほぐし、寝間着を布団の上に投げ捨ててから、昨晩のうちに用意していた新品の制服に手をかけた。

 襟元やボタンのあたりに赤のラインが入った、田舎の学校の割にはオシャレな制服だ。

 胸元には校章のワッペン。ネクタイに規定はなく、選んだのは紺と黒のチェック柄。チェック柄は別に好きでもないが、色合いは好みだ。


「よし。おかしいところはないな」


 部屋の隅に立てかけてある全身鏡で着こなしの確認をしているうちに、淀んでいた思考が日常に戻っていくのを感じる。頭をぶんぶんと振って、残っていた耳鳴りのような悪夢の残滓にトドメを刺す。


 すると、春の暖かな陽気も相まって、だんだんと気持ちが晴れていった。


 あとは男子にしてはやや長めの黒髪を整髪料で軽く整え、生えかけの眉に軽くアイブローで線を引いたら、朝の準備は完了。

 予定より少し遅くなってしまった。早いとこ朝食をすませて学校へ行こう。

 そんなふうに、司はわざとらしく軽い足取りでリビングへと向かった。




 レタスとハムを乗せた食パンにヨーグルトという軽い朝食を済ませたら、司は母親に出発の挨拶をして外に出た。学校指定のかばんを背負い直してから自転車にまたがる。


 ここ豊岡村は、駅に行くより山に行く方が近くて学校までも自転車で20分ほどかかるという文句なしの田舎町だ。それでもコンビニやスーパーは近場――と言ってもやはり自転車が必要な距離――にあるので辺境というほどではない。


 多少の不便さはあるが、家から一歩でも出ればこの通り、と司は手で日差しを遮りながら頭上を見上げた。すると、春らしいソメイヨシノの花たちが視界を覆う。

 こんなふうに四季を強く感じることができ、そう遠くない距離に海も山もあって様々なアウトドアを楽しめるこの地は、住み慣れればいいところなのではないかと思っている。

 つまり司はこの土地がけっこう気に入っているのだ。同年代からはもっと都会で暮らしたいという話をよく聞くし、この歳でこんな考えを持つのは変わっているとよく言われるのだが、地元に愛着がわくのはごく普通のことではないだろうか。


「なーに惚けてんだよ司」


 そうやって軽い感慨に浸りながら頭上に目を向けてると、突然前方から声をかけられて司はビクッとした。


「今のカオ、裏のジイさんに似てたぜ。そんなんじゃ、あっという間に年寄りになっちまうぞ」

「……余計なお世話だよ、染無」


 驚いた様子を悟られないよう、努めて平静を装って答える。

 自転車にまたがりながら声をかけてきたのは、向かいの家に住んでいる小学校の頃からの腐れ縁。名前は飛鳥アスカ染無シムという変わった名前で、こんな男前な口調だが、れっきとした女子だ。それにいつも怒っているふうなので顔は怖いが、案外スタイルはいい。


「で、なんの用だ?」

「なにって、オマエなぁ。今日は始業式だから一緒に行こうって、そっちから誘ってきたんだろ?」


 そういえば、と先日の約束を思い出す。今朝の夢のせいなのか、なんだか記憶が曖昧になっている気がする。

 そんなことを考えていると、今朝の夢の光景が頭に浮かびそうになり、あわててその残滓ざんしを追い払った。


「あー、そうだった悪い。わざわざ早起きして待っててくれたんだな」

「べつにそんなんじゃねぇけどよ――ほら、はやく行くぞ司。まったくなんでアタシがアンタなんかと……」


 ぶつくさと文句を言いながらも、なんだかんだ約束は守るし、誘ったらついてきてくれる。そういう妙な律儀さが染無にはあった。


「……いいやつだよな、染無は」


 そう小声で呟いてみるとどうやら染無にも聞こえていたようで、彼女は苦虫を噛み潰したような顔で唇をわなわなと痙攣させた。照れているようだ。


「あ、ああ!? な――いきなりなに言い出すんだアンタ!? 気持ちわりぃぞッ!!」

「いや、思ったことが口に出ちゃっただけだって。

 ともかく早く出発しよう。俺が遅れたせいとはいえ、ちょっと急がないとヤバいしな」


 焦って転びそうになっている染無をよそに、司は自分の自転車にまたがった。誰かと並んで自転車を走らせるというのは、なんとなく楽しい気分になる。


「……まったく……相変わらず司はマイペースだな。

 とりあえず遅れた罰として、あとで裂きイカでも奢れよ」

「とか言いながら、今日の分は持ってきているんだろ?」


 司は染無のカバンに入った裂きイカの袋から一本拝借して口に咥えると、そのまま自転車を走らせ追い越していった。


「あ、テメ。アタシの裂きイカ――!」

「あとで買ってやるからさ。いいだろ一本ぐらい」


 追ってくる染無から逃げるように、司は桜並木の中ぐんぐんと自転車を走らせていく。

 このペースならそう遅くならずに学校に到着するだろう。

 暖かな風を感じながら、司たちは通学路を駆け抜けていった。




 家から20分ほど自転車を走らせ、司と染無は新たな母校である豊岡村高等学校に到着した。それから二人は校舎の外にある、有り余る敷地を活かした広い駐輪場に自転車を止め、校門へと向かう。

 その途中、道端の茂みにあったものが気になり、司は足を止めた。


「石碑……? 学校のそばにこんな物があったのか」


 人の背丈ほどもある大きさの石碑が、道外れの草むらに紛れてぽつんと一つ建っていた。

 磨かれた縦長の石で作られた石碑は、上端だけ丸みを帯びた形をしている。その表面には人の名前や、所以を解説する詩歌が刻まれているわけでもなく、ただ不定形の謎の模様が描かれているだけだった。

 司が足を止めてそれを見つめていると、少し先を歩いていた染無も引き返してきて隣で石碑を覗き込んだ。


「ああ、それねぇ。前に山遊びしていた時にもここで見たけどよ……何か気になんのか?」


 染無は休日に山の中で自転車を乗り回しているらしく、その際にこの辺りも何度か通ったことがあるらしい。


「まあ少しは」


 あえて素っ気なく答えた司だが、この石碑の模様には妙な既視感を覚えていた。


 その不定形の模様を眺めているうちに、焦っているような、浮ついているような妙な感覚を覚える。

 これが胸騒ぎというやつなのだろうか。


 記憶を辿れば辿るほど、所以のわからない焦燥に苛まれていく。

 司の意識はまるでその不定形の模様に吸い込まれていくようで、視線をそらそうという意思を妨げていた。

 そうやって引き込まれそうになる意識の抵抗を気力で振り払い、なんとか染無の方へと顔を向けることができた。背筋に冷たい嫌な汗が流れた。

 司は深く息を吐くと、逃げるように再び校門の方へと歩き始めた。


「なんだ、もういいのか?」


 そう訪ねてきた染無に対して、司は「もう十分だ」と答えた。

 この様子だと、染無のほうは石碑に対して特になにも感じるものはないらしい。だが、司はこの場所にあまり長居する気にならなかった。

 この石碑を見ているときに感じた、引きずり込まれるような感覚は気分のいいものではない。おまけに先ほどから誰かに見られているような気配まで感じる。


「なあ、染無はここにも来たことがあるんだよな?」

「ん。まあな。この辺は走るにはちょうどいいんだよ」


 山遊びが趣味だという染無の話では、この山には人のほとんど来ない、がらんとした神社なんかもあったらしい。もしかしたらこの辺りには、何か良くない曰くのようなものがあるんじゃないか――などと想像力を働かせてしまう。

 そのような荒唐無稽こうとうむけいな考えを頭の中で巡らせていると、急に頬に突っ張るような痛みを感じて我に返った。


「司~。お前、なんか朝から様子が変だぞ。始業式だからって浮ついているんじゃねぇのか?」

「……わかったから顔をつねるな」


 だらしなく口元を歪ませながら、司は憮然として答える。

 だが、おかげで少し調子を取り戻せた気がした。

 確かに染無の言う通り、今日の司はどうも覚束ない。なにかと今朝の夢のこともあって妙なことばかり考えてしまう。

 寝つきだって浅かったのだろうし、さっきの妙な感覚だってきっと立ちくらみのようなものだろう。


「それより。早く学校行こうぜ」


 染無は頬をつねっていた手をやっと離し、一度大きく伸びをしてから歩調を早めた。


「どうせ今日は午前で終わるんだ。この辺の散策は帰りにでもやればいいじゃねぇか」

「……それもそうだな。行くか」


 別に散策がしたいわけじゃなく、むしろ気が進まないのだが――と心の中で付け足す。

 学校の周辺を見て回ることはやぶさかではないが、この辺りにはなんとなく近寄りたくなかった。


 そうして司が歩き始めたときに、突然背後――石碑のある辺りに誰かがいるような気配を感じた。

 できれば振り返るべきではないと思ったが、背中を刺すような視線が――視線という形容しがたい感覚を感じるのは初めてだった――あまりにも気になってしまい、司は石碑の方へと顔を向ける。


 石碑の前に、誰かがいた。


 染無と同じ制服を着ている。この高校の女子生徒だろうか。だが均等に切り揃えられた長い黒髪と透き通るような白い肌は、ひどく時代錯誤しているように見えた。

 先ほどまで、そこには誰もいなかった。予定より早めの時間についたこともあって人が歩いてくるような気配だってなかったはずだ。

 この山道、いったい彼女はどこから現れたのだろうか……。それを意識した時、司の全身にぞわっとした震えが走った。


 そして女子生徒は司と目が合うと、おもむろに口を開く。


 ――逃さない


 声は聞こえなかったが、唇の動きでそう言っているように感じた。

 石碑の前に立つ人物はまっすぐにこちらを睨んでいる。学生服から覗く肢体は折れそうなほど細く見ていて不安を覚えるが、その瞳は強い眼光を放っていて、まるで獲物を見据える餓狼のようにも見えた。

 色白で端正な顔に眉を寄せて見つめる姿からはどこか凄みのようなものを感じ、司は目を合わせていられずに息を飲んだ。


「――あ、えっと……」


 司は何か言おうと口を開いたが、その女子生徒はすぐに踵を返して茂みの中へと歩き去ってしまった。


「……なんだったろう。いったい」


 司はぽかんとしながら思わず呟く。

 それに対し、前を歩いていた染無が怪訝けげんな顔をしながら振り向いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る